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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(考古編) ((1)石器と石製品の種類)

          ○   ○ ○                       ○       吹切沢,早稲田,赤御堂 ● ○ ○   ○ ○     ● ● ○ ●   ○     ○     ●   ○ ○ ○ 早稲田,Ⅰ ○ ○     ○ ○     ○ ○ ○ ○         ○     ○   ○     早稲田,赤御堂             ○   ○                               早稲田,Ⅰ             ●                                   早稲田
資料編1(考古編) ((2)縄文時代早期)

これに対し、小川原湖周辺の同期に関する土器文化の研究を志していた佐藤達夫は、三沢市の早稲田貝塚や六ヶ所村,の唐貝地貝塚等を調査し、貝殻文から条痕文(じょうこんもん)に至る土器を、唐貝地下層式から早稲田1類を経,爪形文系土器) 早期 日計 白浜,小舟渡平 根井沼 寺の沢 物見台,千歳 蛍沢AⅡ式 吹切沢,早稲田,1・2類 ムシリⅠ式 表館Ⅵ群 赤御堂 早稲田5類 表館Ⅸ群 前期 表館Ⅹ群 表館ⅩⅡ群,表館ⅩⅢ群 長七谷地Ⅲ群 表館,芦野Ⅰ 早稲田6類 深郷田 円筒下層a 円筒下層b 円筒下層
通史編1(自然・原始) (早期)

について、六ヶ所村倉内の唐貝地(からかいち)貝塚出土土器を標式とする唐貝地下層式(18)に続いて、三沢市の早稲田貝塚,をモデルとして、古い土器から早稲田1式~早稲田6式に至る六形式の変遷も打ち立てられ(19)、さらに八戸市十日市
資料編1(考古編) ((1)貝塚に見る食生活)

                  ○ ○         ○   ○   ○   ○     ○ 早稲田貝塚,○ ○   ○   ○ ○   ○ ○ ○ ○   ○   ○     ○ ○ ○ ○       早稲田貝塚,○   ○ ○                     ○                     早稲田貝塚,遺跡名 早期 前期 中期 前・中期 後期 晩期 出土魚類名 帽子屋敷貝塚 赤御堂貝塚 長七谷地貝塚 早稲田貝塚,哺乳類骨 貝塚・遺跡名 早期 前期 中期 前・中期 後期 晩期 出土哺乳類名 赤御堂貝塚 長七谷地貝塚 早稲田貝塚
通史編5(近・現代2) (第九回夏季オリンピック・アムステルダム大会出場・井沼清七)

そして、自らの実力を試すため、早稲田大学に入学。,早稲田には、織田幹雄、南部忠平など錚々(そうそう)たるメンバーがいた。
通史編4(近・現代1) (建設者同盟)

建設者同盟 大正八年二月、早稲田大学に学生思想団体として民人同盟が生まれた。
資料編1(古代・中世編) (三 大浦城「縄張り」の復元)

(1)分限図(明治期のもの)   ア、岩木村大字五代字早稲田(明治二十六年十二月十一日調製)   
通史編1(古代・中世) (本州の擦文文化の実態)

類例は増加しており、青森市沢田A、同三内、蓬田村小館、同蓬田大館、碇ケ関村古館、中里町中里城跡、弘前市早稲田等,弘前市でも一〇世紀後半から一一世紀代を盛期とする早稲田遺跡の竪穴住居跡、焼土遺構、溝跡、一一世紀代を主体
通史編3(近世2) (中村善時)

でくくることのできない「其所々の風土」を充分に勘案することを促し、津軽地方では冷害への対応上、気候風土にあった早稲品種
通史編5(近・現代2) (俳句会のリーダー木村横斜)

二十九年、東奥義塾を経て、早稲田専門学校卒業後、東京毎日新聞社、世界日本社へ入社するが、まもなく帰郷する
通史編5(近・現代2) (柔道で世界を制覇した男)

明治二十六年(一八九三)、青森県尋常中学校(のち青森県立弘前中学校)に入学したが、二十九年、東京早稲田中学
通史編4(近・現代1) (弘中のスポーツ)

彼は早稲田大学に進み、わが国屈指のスプリンターに成長して、第九回のアムステルダム・オリンピック(一九二八年開催
通史編1(自然・原始) (太平洋戦争終結後)

成田彦栄 (江坂輝彌氏提供) 音喜多富寿  慶応大学によるこれらの調査に対し、早稲田大学,くらうち)の唐貝地貝塚を調査し(85)、昭和三十一年(一九五六)と昭和三十三年(一九五八)には、三沢市早稲田,早稲田大学では、桜井清彦が津軽半島をフィールドとして、市浦村相内の鰊崎(にしんざき)・岩井(いわい)・,この年、東京大学東洋文化研究所は、江上波夫・関野雄に早稲田大学の桜井清彦も加わり、津軽半島の十三湖北岸
資料編1(考古編) (2.縄文時代の住居跡)

早期の住居跡の最後として現在判明しているのは、早稲田5類土器期のものである。,縄文時代早期の住居跡は上記のようであり、まとめるとすべて竪穴住居で、柱穴は壁際に作られる例が日計式土器期から早稲田,ると、関東地方の花積下層式土器に類似する長七谷地Ⅲ群土器の時期には楕円形、表館式土器期は隅丸長方形、早稲田
通史編4(近・現代1) (竹内兼七について)

上京して早稲田大学に学び、明治三十六年渡米、カリフォルニアのブドウ園で働いた。
資料編1(古代・中世編) (一 大浦城の立地と現状)

一 大浦城の立地と現状 大浦城跡は、弘前城の西方およそ四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代字早稲田
資料編1(考古編) (14.尾上山(2)遺跡)

出土土器を縄文土器の編年に合わせて形式ごとに記述すると、第Ⅰ群早期(白浜式)・第Ⅱ群前期(早稲田6類・
通史編4(近・現代1) (凶作と副業の奨励)

表50 明治35年 各村減収穫割合表 各村名 早稲(割歩厘) 中稲(割歩厘) 晩稲(割歩厘) 清 水
資料編1(考古編) (3.縄文時代の集落)

の表館(1)遺跡における第108号(長方形、9.4m×7.4m、面積57.54m2、早期末早稲田,205号(隅丸長方形、東壁確認不可能により推定すると8.5m×5.6m、面積不明、早期末の早稲田
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

大浦城跡は、弘前城の西方約四・三キロメートル、中津軽郡岩木町五代(ごだい)字早稲田(旧門前村)にあり、
通史編5(近・現代2) (東奥美術展)

今和次郎(こんわじろう)(明治二一-昭和四八 一八八八-一九七三)は、明治四十五年東京美術学校を卒業後、早稲田大学
通史編2(近世1) (中期農政と農村構造の変化)

救済面および逃散などの問題を多く抱える外浜(そとがはま)や新田地方といった地域には、確実に収穫の見込める早稲種
通史編5(近・現代2) (同人誌時代-太宰治とともに)

同人誌時代-太宰治とともに 昭和二年(一九二七)、東奥義塾を卒業し、早稲田第一高等学院に入学する。
通史編5(近・現代2) (ルポライターの第一人者)

弘前高等学校を経て、早稲田大学へ。
資料編1(考古編) (6.独狐遺跡)

早期は寺の沢式・ムシリ式土器、前期は早稲田6類、中期は円筒上層a式・大木8b式、後期は蛍沢Ⅰ群・十腰内
資料編1(考古編) ((3)縄文時代前期)

昭和31年(1956)と翌年に発掘が行われた三沢市早稲田貝塚の出土土器を調査した佐藤達夫は、6分類(1
通史編1(自然・原始) (岩木山麓緊急遺跡発掘調査開始~現代)

八戸市長七谷地貝塚(八月)、同市類家(るいけ)の帽子屋敷(ぼうしやしき)貝塚(八月)、前述の佐藤達夫等による唐貝地・早稲田貝塚
通史編3(近世2) ((一)農作業と農事暦)

この経験を踏まえ、冷害対策として藩では強い指導を行ったので、農民は晩稲(おくて)中心の栽培から早稲(わせ
資料編1(考古編) ((2)太平洋戦争後から現代まで)

昭和27(1952)・28年には早稲田大学桜井清彦らによる森田村八重菊遺跡*13*14、また、昭和26,なお、古代の防御性集落の調査では、早稲田大学による蓬田大館遺跡(昭和59年・1984)*257、八戸市風張
通史編5(近・現代2) ((一)北の文学連峰)

明治文学研究の大御所である柳田泉(やなぎだいずみ)(明治二七-昭和四四 一八九四-一九六九 弘前市)のことで、早稲田大学
通史編4(近・現代1) (青森県の農民運動)

組合長は武田金次郎、中央紙の販売業で早稲田大学に学んだこともあると言われる。
通史編1(古代・中世) (津軽地方の古代信仰)

また、一〇世紀後半から一一世紀代を盛期とする弘前市早稲田遺跡の堀跡(第一号)および井戸跡(第一一二号土壙
通史編3(近世2) (瓦の利用)

跡地は現中津軽郡岩木町五代早稲田)・百沢寺(ひゃくたくじ)(現岩木山神社、中津軽郡岩木町)の宝蔵その他
資料編1(考古編) (〈注一覧…第4章〉)

表1に対応する文献一覧 1) 桜井清彦 早稲田大学史学会 「青森県相内村二ツ沼遺跡について」(史観45,年度調査中間報告』(北方日本海の中世宗教遺跡研究第1集) 1987年 50) 荒川正明 「蓬田大館遺跡」(早稲田大学文学部考古学研究室報告
資料編1(考古編) (第2節 中世・近世の考古学研究略史)

『館址』の調査主体となっていた早稲田大学の桜井清彦は、この調査以前相内村において二ツ沼遺跡の調査を実施
通史編1(古代・中世) ([付図])

畑 〃 縄文・平安 36 深沢遺跡  〃 平野7の1、9の2、11 〃 包蔵地・集落跡 平安 37 早稲田遺跡,福村字早稲田 畑・宅地 〃 平安・鎌倉 38 石川城跡 石川字大仏1の1、平山、寺山、小山田ほか 公園
通史編1(自然・原始) (第三節 注および引用・参考文献)

青森県上北郡出土の早期縄文土器」『考古学雑誌』四三-三 一九五八年 (19)佐藤達夫ほか 「青森県上北郡早稲田貝塚
資料編1(考古編) (〈注一覧…第2章〉)

江坂輝彌 「縄文文化の起源の研究」(史学29-2) 1956年8月 *20 佐藤達夫ほか 「青森県上北郡早稲田貝塚,繊維土器」(史前学雑誌1-2) 1929年5月 *32A *20に前掲 *32B 佐藤達夫ほか 『早稲田貝塚
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

菊池徹夫 「擦文文化の終末年代-北日本中世史の理解のために-」(古代探叢-滝口先生古稀記念考古学論集)早稲田大学出版部,馬蹄形押捺文を中心として-」(遡航5) 1987年 *257 桜井清彦・菊地徹夫 『蓬田大館遺跡』(早稲田大学文学部考古学研究報告書
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

鎌倉~室町時代)(146)、東津軽郡蓬田村の蓬田(よもぎだ)大館遺跡(一九八一・八四・八六年金沢大学・早稲田大学発掘
通史編1(自然・原始) (第一節 注および引用・参考文献)

の早期縄文土器」『考古学雑誌』四三-三 一九五八年二月 (86)二本柳・角鹿・佐藤 「青森県上北郡早稲田貝塚
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