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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(信明)
信
明
八代藩主信
明
(のぶはる)は、天
明
四年(一七八四)から寛政三年(一七九一)に及ぶ「在国日記」(国史津,)を書き残しているので、特に大飢饉で餓死者八万人以上といわれる天
明
四年(一七八四)と、信仰面の記事のある,天
明
四年八月二十五日には長袴を着し、長勝寺・報恩寺・本行寺の廟所に詣でているが、本行寺には六代信著の側室円授院,天
明
五年には庚申待(こうしんまち)をしている。,信
明
の生活をみると、先祖を大切に取り扱うとともに、餓死者の供養や伊勢太神宮への供米を指示している。 / 信
明
通史編3(近世2)
(円明寺)
円
明
寺 円
明
寺(えんみょうじ)は、
明
応八年(一四九九)、念西房宗慶が油川(現青森市)に創建した。 / 円
明
寺
通史編3(近世2)
(明教寺)
明
教寺
明
教寺(みょうきょうじ)は、承応三年(一六五四)玄龍が創建した(同前No.四〇九)。 /
明
教寺
通史編3(近世2)
(神明宮)
神
明
宮 神
明
宮(現弘前神
明
宮)は、慶長七年(一六〇二)、為信が鎮護国家のため堀越城内に創建し、信枚によって / 神
明
宮
通史編3(近世2)
(大石明神)
大石
明
神 大石
明
神(現大石神社)は、丈余(約三メートル)の併立する巨石を神体とし、雨乞い・子授け・安産,京都の吉田家より
明
神号が与えられた。
明
治二年(一八六九)に大石神社と改称。 / 大石
明
神
通史編1(自然・原始)
(明治時代)
明
治時代 慶応三年(一八六七)、徳川幕府は大政を奉還し、王政復古の大号令が下った。,翌
明
治元年(一八六八)
明
治維新を迎えると、新政府は三月二十八日に神仏分離の太政官布告を発したが、それによって,起こった廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の騒動を憂慮し、
明
治四年(一八七一)五月二十三日に至って「古器旧物保存方,
明
治十年(一八七七)、腕足類(わんそくるい)研究のため来日した米国のE・S・モース(一八三八~一九二五,この発表が基となって、
明
治二十二年(一八八九)の東京大学による当該遺跡発掘が行われたのであろう。 /
明
治時代
通史編5(近・現代2)
(明治時代の柔術)
明
治時代の柔術 弘前柔道協会が創立九十周年を記念して刊行した『弘前柔道史』(一九九一年)に次の一節がある,
明
治維新後、
明
治四年(一八七一年)七月、廃藩置県により弘前に置かれた県庁は、青森に移ったものの、城下町,「本覚克己流」は、添田家九代定吉が、「和(やわら)」といって、藩学校「稽古館」の後を継いだ東奧義塾(
明
治五年,/その後定吉は、
明
治二十七年(一八九四年)に、「和道場東嶽館」を設立して、若者に柔術を指導していた。,そして、
明
治十六年(一八八三)九月、長坂町に「北辰堂」、十七年二月、鷹匠町に「
明
治館」、二十年八月、北瓦 /
明
治時代の柔術
通史編3(近世2)
(信明の学校構想)
信
明
の学校構想 藩校創設の機運は好学の八代藩主信
明
(のぶはる)の治世から高まってきた。,
明
和四年(一七六七)、信
明
の守役となったが、同八年病身のため御免となった。,信
明
のそれはこれに倣ったものであった。,信
明
は定信にしばしば教えを請い、定信も信
明
を外様ではあるが老中に推挙したく思うほどに高く評価していたという,この重賢は信
明
をも嫡子同然に可愛がり、信
明
も重賢を実父のように慕って教導を仰いだという(「無超記」『記類 / 信
明
の学校構想
通史編4(近・現代1)
(明治天皇崩御)
明
治天皇崩御
明
治天皇が崩御されたのは四十五年(一九一二)七月三十日午前零時四十三分である。,聖上陛下御容体御変調平静ナラザル趣(おもむき)ニ付、御平癒祈願ノ為メ児童代表一学級三名宛(あて)職員モ三部ニ分レ八幡宮、神
明
宮,、児童ニ対シテ訓話ヲナシ、直チニ校長会ヲ開催シ弔旗其(そ)ノ他ニ付キ協議ナシ、校門ニ弔旗ヲ掲ゲタリ、
明
治,哀悼の意を捧げた小学校では、さらに一年間、新年祝賀式、創立記念日、紀元節などあらゆる挙式を中止して、
明
治天皇,それは
明
治政府が天皇を道徳の根幹として、営々と積み重ねた天皇制教育の成果を示す頂点と見ることができる。 /
明
治天皇崩御
通史編2(近世1)
(一 明暦検地の意義)
一
明
暦検地の意義 津軽領では、寛永二年(一六二五)から全領の検地が三年をかけて行われたと伝えられる,現在、津軽領に残されている最も古い検地帳は、
明
暦二年(一六五六)のものである。,この検地は、
明
暦二年の六月下旬から七月中旬にかけて、山形・黒石・平内(ひらない)の順で実施されたという,
明
暦検地は、
明
暦二年二月に幕府が四代藩主津軽信政の跡目相続を認め、その後見として叔父で旗本の西丸書院番津軽信英,そして、これを基にして、翌
明
暦三年(一六五七)に知行替えが行われて、分家家臣団が成立した。 / 一
明
暦検地の意義
通史編5(近・現代2)
(洋風建築の黎明)
洋風建築の黎
明
わが国の近代(洋風)建築の黎
明
は、幕末の洋風建築までさかのぼり、そこには大きく二つの,
明
治十年(一八七七)、工部大学教授としてわが国に本格的建築家を養成するためにイギリス人建築家ジョサイア・コンドル / 洋風建築の黎
明
通史編4(近・現代1)
(明治九年の巡幸)
明
治九年の巡幸
明
治九年(一八七六)の巡幸は、本来前年の八年に行われるべきところ、時の政治社会情勢にかんがみて,そのころ、
明
治新政府は発足したものの、各地に不平士族たちの不満がくすぶっている状態であり、新政府は、必,
明
治九年の巡幸は、天皇の車駕が東京を出発したのは六月二日、関東、東北各県を巡幸の上、青森に到着されたのは /
明
治九年の巡幸
通史編5(近・現代2)
(弘前明の星幼稚園)
弘前
明
の星幼稚園 三十一年(一九五六)十月四日、紺屋町一二七番地に私立弘前
明
の星幼稚園が設置された。,初め被昇天聖母修道院の経営であったが、後に青森
明
の星学園に移された。 / 弘前
明
の星幼稚園
通史編4(近・現代1)
(市長の弁明)
市長の弁
明
このため、理事者と協議して、自宅にある一切の材料を市に引き継がせ、嘱託を中止することを委員会 / 市長の弁
明
通史編4(近・現代1)
(明治十四年の巡幸)
明
治十四年の巡幸
明
治十四年(一八八一)の再度の東北巡幸は、前回対象から外れた秋田、山形を主として計画,この年、
明
治天皇は二十九歳であった。 ,翌十日、弘前裁判所に行幸され、所長中御門経
明
は賀表と事務一覧表を奉呈した。 /
明
治十四年の巡幸
通史編4(近・現代1)
(明治時代の市史編纂)
明
治時代の市史編纂
明
治四十三年(一九一〇)、弘前市は、
明
治五十周年を記念して市史編纂事業を計画した,彼は、
明
治四十三年教職を退いて、東奥日報社に入社していた。 /
明
治時代の市史編纂
通史編4(近・現代1)
(明治二十年度予算審議)
明
治二十年度予算審議
明
治二十年度弘前総町聯合町費支出予算案は、会議費五五円、土木費四四〇円、教育補助費七四七円九八銭,弘前高等小学校の生徒は四五〇人の定員だったが、
明
治二十年一月現在充足率八三%の三七二人、うち女子生徒は,しかし、
明
治十八年、東京の三田育種場にフィロキセラの害が発生、ここから苗木の供給を受けていた藤田葡萄園,この
明
治二十年度予算審議で最も激論のあったのは、土木費四四〇円の審議であった。,それまでこの土地は
明
治十年四月から十九年十二月まで弘前全市街惣代の名で借用していた。 /
明
治二十年度予算審議
通史編2(近世1)
(天明三年に頻発した騒動)
天
明
三年に頻発した騒動 天
明
の飢饉の直前、天
明
三年(一七八三)七月、津軽領では、藩最大の湊町であった / 天
明
三年に頻発した騒動
資料編3(近世編2)
(●円明寺 本堂 新寺町--県重宝)
●円
明
寺 本堂 新寺町--県重宝
明
応八年(一四九九)に現在の青森市油川に創立されて、その後弘前へ移,ってきたものであり、新寺町で一度焼失し、仮本堂として
明
和元年(一七六四)に再建されたものが現本堂であると,図10 円
明
寺本堂平面図 / ●円
明
寺 本堂 新寺町--県重宝
通史編1(古代・中世)
(斉明天皇四年の「北征」)
斉
明
天皇四年の「北征」 そこで以下、これらの記事にそって、比羅夫の北方航海の状況を詳しく見てみよう。,第一次の遠征は斉
明
天皇四年(六五八)から始まる。,このことは史料二二でははっきりとは書かれていないが、齶田と渟代の扱いの違いについては史料二三でも
明
確に,以下の遠征もそうであるが、いずれも当時の宣
明
暦で三月ないし四月(ユリウス暦で四月~五月)という時期に出発,写真31『日本書紀標註』巻之二十一 斉
明
天皇四年四月条 この斉
明
四年次の北征の論功行賞として / 斉
明
天皇四年の「北征」
通史編3(近世2)
(江戸から明治初期への漆工芸)
江戸から
明
治初期への漆工芸 お抱え塗師青海源兵衛の弟子のなかに成田伊太郎(文政十一年~
明
治二十二年・,伊太郎は、
明
治維新で廃絶の危機に立たされた津軽の変わり塗技法を後世に残した津軽塗の偉人である。 ,やがて
明
治に入ると藩からの仕事が絶えたが、伊太郎は弟子とともに漆器の製作を続け、これまで一子相伝の秘法,しかし、津軽の江戸時代の変わり塗技法の多くは、
明
治維新で絶えることがなかった。,この図録は、
明
治四年から
明
治十八年までの工芸の図案集であり、
明
治初期の政府が、廃藩以降に落ち込んだ産業 / 江戸から
明
治初期への漆工芸
通史編1(古代・中世)
(斉明天皇六年の「北征」)
斉
明
天皇六年の「北征」 比羅夫は、斉
明
天皇六年(六六〇)にも三たび北征を試みた(史料二七)。,比羅夫の「北征」はこの斉
明
天皇六年(六六〇)までで、翌年からは、その水軍は大和政権による百済救援のための / 斉
明
天皇六年の「北征」
通史編5(近・現代2)
((二)明治言論界の巨星・陸 羯南)
(二)
明
治言論界の巨星・陸 羯南 本県の散文界に新しい文学の運動の萌芽を看取できるのは、
明
治の後半になってからである,その意味で、
明
治三十七年(一九〇四)に、函館へ向かう島崎藤村を秋田雨雀(
明
治一六-昭和三七 一八八三-,一九六二 黒石市)と鳴海要吉(
明
治一六-昭和三五 一八八三-一九六〇 黒石市)が青森駅で出迎えたことは,その一方で、北端の地にも文
明
開化のうねりは緩やかではあったが確実に押し寄せていた。 / (二)
明
治言論界の巨星・陸 羯南
通史編1(古代・中世)
(斉明天皇五年の「北征」)
斉
明
天皇五年の「北征」 斉
明
天皇五年(六五九)三月にも、比羅夫は越国を発して再度「北征」に赴いた。 / 斉
明
天皇五年の「北征」
通史編2(近世1)
(宝暦―天明期の借財)
宝暦―天
明
期の借財 十八世紀に入ると、商品経済の展開や度重なる飢饉や災害等によって三都における借財も / 宝暦―天
明
期の借財
通史編2(近世1)
(天明六年以降の飢饉)
天
明
六年以降の飢饉 天保五年は幸い一転して豊作となり、一息ついた状態で、藩士の面扶持(めんぶち)も停止 / 天
明
六年以降の飢饉
通史編5(近・現代2)
(聖ヨゼフ幼稚園開園と明星幼稚園開園)
聖ヨゼフ幼稚園開園と
明
星幼稚園開園 昭和九年(一九三四)四月一日、弘前市百石町小路二〇番地に聖ヨゼフ,幼稚園園舎新築落成式典記念 昭和十八年(一九四三)三月三十一日、弘前市山道町九番地に日本聖公会による
明
星幼稚園,弘前昇天教会は、
明
治二十九年(一八九六)から弘前市本町に本拠を置いて伝道を開始、同三十三年山道町に教会,その後大正十四年、裁縫塾を聖公会女学院と改称したが昭和五年に廃止、同所に
明
星保育園を開設した。,この保育園が母体となって
明
星幼稚園が開園された。 / 聖ヨゼフ幼稚園開園と
明
星幼稚園開園
通史編2(近世1)
(天明期の借り上げと寛政期までの状況)
天
明
期の借り上げと寛政期までの状況 天
明
三・四年の大飢饉は藩士の生活をも直撃した。,天
明
三年(一七八三)十一月三日、知行・切米・扶持方の別を問わず、一律に一日一人四合の支給とし、足軽・小者,『天
明
卯辰日記』によると、餓死者がピークを迎えた天
明
四年閏正月に、二〇〇〇石を用立てるよう弘前の蔵持ちの,このような藩庁の態度に、『天
明
卯辰日記』の著者は「評に曰く」として「数万人の人民を餓死に至らせ、そのうえ,面扶持の制度は天
明
五年九月に至って解除されたが(『記類』上)、依然三分の一の支給にとどまった。 / 天
明
期の借り上げと寛政期までの状況
通史編4(近・現代1)
(明治二十年(一八八七)の予算審議)
明
治二十年(一八八七)の予算審議
明
治二十年度には、弘前総町聯合会の予算規模は拡大した。,
明
治二十年度弘前総町費収入予算議案 一金百三拾円五銭七厘 地価割 但、総地価金七万七千百六拾五円八拾八銭,表12
明
治20年度弘前総町聯合町費支出予算 費 目 内 訳 金額(円) 内訳金額(円) 会議諸費,除虫費 20.00 夜警費 58.00 予備費 50.00 合 計 1370.98 『
明
治,年度弘前総町聯合会筆記』により作成 注)上記の項目以外に、授業料1120円が計上され、教育補助費との合計額が
明
示 /
明
治二十年(一八八七)の予算審議
通史編2(近世1)
(宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)
宝暦~天
明
期の弘前藩の財政状況 この時期の津軽弘前藩の財政状況であるが、たとえば安永六年(一七七七),年貢収納だけでは足りずに、恒久的な家中からの米買上げによって補填されていたことが
明
らかである。,その後起こった天
明
の飢饉では、領内消費を無視したいわゆる「飢餓移出」が飢饉の要因として指摘されているが,ただし、これらは国元の返済分だけで、江戸や上方の返済分は不
明
である。,売却費、江戸藩邸費・参勤交代費・上方での入用などは別会計なので、江戸・大坂での具体的な収支については
明
らかにしえない / 宝暦~天
明
期の弘前藩の財政状況
資料編1(考古編)
((1)明治時代から太平洋戦争まで)
(1)
明
治時代から太平洋戦争まで 古代人の行動の痕跡として残された場所を「遺跡」として認識し、しかも,学問的な観点から発掘調査が本県で初めて行われたのは
明
治19年(1886)である。,特に佐藤伝蔵は、
明
治30年に西津軽郡森田村八重菊などの遺跡で、5軒の竪穴住居跡を発掘している。 / (1)
明
治時代から太平洋戦争まで
通史編2(近世1)
(正徳から天明にかけての大名課役)
正徳から天
明
にかけての大名課役 この時期の津軽家の大名課役は、皇族や公家衆の饗応役、普請役、江戸における,河川関係の修築における手伝普請は元禄時代末に行われたのが最初だが、津軽家の場合は、
明
和三年(一七六六),このうち
明
和三年の際には、国元の大地震で甚大な被害を被ったことにより、幕府から普請役御免を命じられている,また、正徳~天
明
期において、勅使・公家衆の馳走役が八回にわたって命じられた。 / 正徳から天
明
にかけての大名課役
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
編年史料 (天正十七年~
明
暦二年) ●天正十七年(一五八九)八月二日、豊臣秀吉、南部信直へ朱印状を下,●慶長七年(一六〇二)九月、津軽為信、神
明
宮へ建立の棟札を奉納する。,●元和九年(一六二三)八月、津軽信枚、高岡神
明
宮に棟札を奉納する。,●
明
暦元年(一六五五)正月二日、津軽信義、幕府へ目見を願う。,●
明
暦元年(一六五五)五月十二日、碇ヶ関出入物についての定書を下付する。 / 編年史料 (天正十七年~
明
暦二年)
通史編1(自然・原始)
(江戸時代~明治十七年(一八八四))
江戸時代~
明
治十七年(一八八四) 永禄日記(えいろくにっき)(館野越(たてのこし)本)にある、亀ヶ岡城 / 江戸時代~
明
治十七年(一八八四)
通史編4(近・現代1)
([付図])
大正) 1 廃藩置県~昔の弘前城〈
明
治4年〉 2 「学制」頒布〈
明
治5年〉~含英女小学校集合写真,3 りんごの始祖・菊池楯衛試植を始める〈
明
治8年〉 4
明
治天皇ご巡幸〈
明
治9・,14年〉 5 文
明
開化〈
明
治10年頃〉ジョン・イングと教え子 6 自由民権運動~本多庸一,「国会開設建言書」〈
明
治13年〉 7 弘前事件~本多庸一の弁
明
書〈
明
治15年〉 8,年〉 10 無神経事件〈官報〉〈
明
治21年〉 11 陸羯南 新聞『日本』創刊〈
明
治
通史編2(近世1)
(有史以来最大級の大量死)
有史以来最大級の大量死 天
明
三年(一七八三)に起こった天
明
の飢饉は、近世日本において最大の被害を出した,表31 天
明
の飢饉における東北諸藩の死者 藩名 期間など 餓死者数など 出 典 弘前藩 天
明
3年9月~,人) 飢渇死亡 弘前城下 九浦 施行小屋 在々 「御国日記」 天
明
3年春~ 天
明
4年,2月 6万4000人 餓死 「津軽歴代記類」 (佐藤家記) 天
明
3年10月~ 天
明
4年8月 10万,2000人 3万人 8万人 餓死 時疫 他国行 「天
明
癸卯年所々騒動留書」 八戸藩 天
明
4年5
通史編5(近・現代2)
(国内外の博覧会)
明
治維新後の
明
治六年(一八七三)に行われたウィーン万国博覧会は、
明
治新政府として初めて参加した万国博覧会,以下、
明
治期に開催された万国博覧会の美術・工芸の出品を列挙すると、
明
治九年(一八七六)のフィラデルフィア,万国博覧会には青海源兵衛(せいかいげんべえ)(
明
治元-
明
治四四 一八六八-一九一一)が津軽韓塗漆器等を,一方、万国博覧会を規範として内国勧業博覧会が
明
治十年(一八七七)から
明
治三十六年(一九〇三)にかけて五回開催,本県では、
明
治十年の第一回、
明
治十四年の第二回の内国勧業博覧会には出品者がなく、
明
治二十三年(一八九〇
通史編5(近・現代2)
(学校建築・公共的建築)
(一八七八)に朝陽小学校、
明
治十六年(一八八三)に城西小学校、
明
治十八年(一八八五)に大成小学校が新築,写真296 時敏小学校(
明
治21年)
明
治二十一年(一八八八)に至り、時敏小学校が新築された際,その後、
明
治二十二年(一八八九)には和徳小学校の改築、弘前高等小学校の新築、
明
治二十四年(一八九一)には,時代が下って、
明
治二十七年(一八九四)の青森県尋常中学校や
明
治三十四年(一九〇一)の県立第一高等女学校,は展開されず、わずかに
明
治二十五年改築の弘前市役所、
明
治二十六年(一八九三)の弘前警察署、
明
治三十二年
通史編5(近・現代2)
(生活環境の整備)
その一つの事例として、照
明
の復旧が挙げられよう。 ,バブル時代ほどではないが、現在の日本の各都市は夜でも街路が非常に
明
るい。,だからこそ市民は
明
るい照
明
を望んだのであり、
明
るい照
明
が文化の発展を象徴する印象をもつようになったのである,普及会はモデル街灯、交通照
明
を普及させ、ネオン広告看板照
明
を宣伝するほか、商店・工場・学校・住宅照
明
の,翌年の四月十九日には、市当局のほか、商工会議所、青森県照
明
普及会、東北配電株式会社が後援となって、弘前照
明
通史編4(近・現代1)
(巡幸と記念碑)
巡幸と記念碑
明
治の初め、都が東京に移された後、
明
治天皇には、前後数回にわたって全国各地に巡幸をされた,特に
明
治五年から同十八年に至る間に集中的に行われ、北海道の一角にまで及んだ。,後に全国各地に
明
治天皇の巡幸を記念した記念碑が建てられ、その数は千数百ヵ所に上ると言われている。 ,天皇の巡幸が、
明
治初期の十数年間に集中的に行われたことは、
明
治政府にとっても、これを受け入れた各地方にとっても,写真32
明
治天皇
通史編4(近・現代1)
(電信事業)
電信事業 わが国の通信・運輸の近代化は、まず
明
治二年(一八六九)に電信が開通し(東京・横浜間)、次いで,
明
治四年(一八七一)に郵便(東京・京都・大阪間)、そして
明
治五年に鉄道の開通(新橋・横浜間)という順でその,
明
治十二年十一月二十日に八戸分局が開局、
明
治十三年(一八八〇)には青森・弘前間(一線)の架設工事が終わり,
明
治十八年には逓信省の創設により工部省は廃止され、電報業務は郵便局が取り扱うようになり、
明
治二十四年に,写真25
明
治40年代の電話交換室
通史編4(近・現代1)
(殖産興業の展開)
殖産興業の展開
明
治十一年(一八七八)の第五十九国立銀行創設など、士族の禄券などを主たる元手とする企業,
明
治二十年(一八八七)の『青森県農商工統計表』により県内の工業会社及諸製造所を見ると、一〇の会社、製造所,16年 7月
明
治 17年 8月
明
治 13年 3月
明
治 12年 11月
明
治,13年 7月
明
治 16年 5月 文政 元年 5月
明
治 19年 8月
明
治 19年,20年青森県農商工統計表』
明
治21年 注)数値の誤りを補訂した。
通史編4(近・現代1)
(女子教育)
同校では
明
治八年から十四年にかけて、毎年約七〇人から一〇〇人ほどの生徒が学んだ。,たとえば同校で
明
治十一年に教師として勤務した脇山つやは、
明
治十年に『七一雑報』に二度にわたって投書しているが,こうして、女子にも英語を教えるなど、当時としてはきわめて開
明
的であった東奥義塾小学科女子部は、
明
治十五年,
明
治前期弘前の女子中等教育は、
明
治三十年に県内初の高等女学校が開校するまで、東奧義塾から始まり私学で受,写真49 東奥義塾の女生徒と女性教師(
明
治10年)
通史編5(近・現代2)
(東京美術学校と弘前の作家たち)
明
治も終わりごろになると、本県からも東京美術学校に入学する若者たちが出てくるようになる。,弘前市出身者では日本画の工藤青山(くどうせいざん)(
明
治六-昭和二一 一八七三-一九四六)、蔦谷龍岬(,つたやりゅうこう)(
明
治一九-昭和八 一八八六-一九三三)、工藤阿六郎、中村旭洋(なかむらきょくよう),(
明
治二二-昭和四七 一八八九-一九七二)、洋画では大橋(旧姓古郡)貞一(ていいち)(
明
治二一-昭和四二,)(
明
治二一-昭和三六 一八八八-一九六一)らである。
通史編4(近・現代1)
(貨幣制度の改革)
貨幣制度の改革
明
治政府は成立以来、急速に貨幣制度の改革を進めていった。,
明
治元年には太政官札(金札)を発行して全国的に流通させようとした。,
明
治政府は、次に贋金対策と藩札の処理に取り組んだ。,一方で、
明
治政府は
明
治四年に新貨条例を発布し、一両を一円とする新たな通貨制度を作り上げた。 ,
明
治初年には贋金の流通も多かった。
通史編3(近世2)
((一)衣服)
津軽弘前藩八代藩主津軽信
明
(のぶはる)は、天
明
五年(一七八五)元旦、弘前城本丸御殿において恒例の諸行事,次に信
明
が書き記した天
明
四年から寛政三年(一七九一)までの在国中の日記「在国日記」(日記の最初天
明
四年九月,なお天
明
四年十二月および寛政二年十二月は資料近世2No.一九九参照)から、信
明
が着用していた衣服は、おおよそ,信
明
が襲封後初めて入国したのは天
明
四年(一七八四)八月二十日であるが、同年九月一日、二日には、熨斗目長袴,く、次いで肩衣(長袴か半袴か不
明
)・平服(へいふく)である。
資料編1(古代・中世編)
([七世紀以前])
●欽
明
天皇元年、蝦夷・隼人が一族をつれて帰順。,●舒
明
天皇九年(六三七)、蝦夷反乱。上毛野君形名の征討。,●斉
明
天皇四年(六五八)四月、阿倍比羅夫の遠征。 ●斉
明
天皇四年(六五八)七月、蝦夷朝貢。,●斉
明
天皇五年(六五九)三月、陸奥と越の蝦夷を饗応。,●斉
明
天皇五年(六五九)七月、遣唐使、陸奥蝦夷を引き連れて唐高宗に謁見。津軽の蝦夷等を説
明
。
通史編5(近・現代2)
(学校における音楽)
学校における音楽
明
治五年(一八七二)に東奥義塾が設置され、続いて、
明
治六年(一八七三)に一番小学(,教科書『小学唱歌集』初版が刊行されたのが
明
治十五年であった。,
明
治九年(一八七六)七月十五日には、来県された
明
治天皇の前で《天皇讃歌》を讃美歌(旧五〇番)の旋律により,
明
治篇」)。 ,今しげ(
明
治一六-昭和三八 一八八三-一九六三)は東京音楽学校を
明
治四十四年に卒業、同年から昭和十一年
通史編5(近・現代2)
(教会堂建築)
明
治三十年(一八九七)に再建された弘前美以教会堂はゴシック様式で、正面玄関は高くそびえる尖塔で偉容を呈,写真294 弘前美以教会(
明
治30年) 現存する弘前カトリック教会会堂は
明
治四十三年(一九一〇,設計は、現在愛知県
明
治村に保存されている元京都河原町の聖ヨハネ教会堂(
明
治四十年〔一九〇七〕完成・重要文化財,日本聖公会弘前昇天教会司祭館〔
明
治三十三年〔一九〇〇〕)、東奥義塾外人教師館(
明
治三十四年〔一九〇一〕,)、弘前学院外人宣教師館〔
明
治三十七年〔一九〇四〕登記済)、日本基督(キリスト)教団弘前教会牧師館(
明
治三十七年
通史編4(近・現代1)
(市制施行直前の商業)
市制施行直前の商業
明
治二十年代に入ると日本経済は松方財政下のデフレーションの影響を脱し、景気が拡大,ここで、市制施行の前年である
明
治二十一年(一八八八)の統計数値を見ておきたい。,表32 卸売商の状況 卸売商(
明
治21年) 商 名 総名 市 街 陸奥国二戸郡及六市街を除く 青森,41 9 70
明
18年 517 117 171 98 17 42 9 63
明
17年 504 121,35
明
18年 264 37 1 158 3 29 5 31
明
17年 271 39 1 175 6
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