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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (蓬萊館から大和館へ)

そのころ、商店主たちは、映画館の持つ客足の吸引力に注目していた。,個々の商店の知恵を絞った大売り出しよりも何倍もの人を、映画館は一挙に集めてしまう。,館復活の声が盛り上がっていた蓬萊館を百石町進出の形をとって再興させることを図り、大正六年八月、新しい映画館,大正期はまだ無声映画の時代であり、映画のシーンに合わせて、生の音楽が流れ、弁士が七色の声を使い分けながら
通史編4(近・現代1) (新鍛冶町の方円館)

川留亭はそうした職人たちの客層で成り立っていたのだが、その職人たちもやがて映画の魅力に引きつけられて慈善館,写真202 方円館  方円館では、映画の幕間に短い演芸ものを挟むという「映画と実演」の二本立て興行,中田アレダオンは、昼は飴売りをしていて、八坂神社(通称大円寺)の境内などで子供たちに映画の話を面白おかしく,当時は、子供たちの遊びの世界にも映画の影響が反映され、竹や棒を兵児(へこ)帯に挟んでは役者気取りのチャンバラ
通史編5(近・現代2) (津軽の精神風土を追究)

それを象徴するのが自ら原作・脚本・監督した映画「夢の祭り」(一九八九年公開)の制作である。,この映画は直木賞受賞作の「津軽じょんから節」をもとに、新たに書き下ろした作品だが、津軽三味線や津軽の美,しい季節を取り込んだ、まさに津軽そのものといえる映画である(「夢の祭り」については、斎藤三千政「長部日出雄,と映画-映画「夢の祭り」を中心として-」『市史ひろさき』七、弘前市、一九九八年を参照)。  ,これほど津軽の風土、棟方志功や太宰治をはじめとする津軽の文学者を、つまり、小説やエッセイ、そして映画で
通史編4(近・現代1) (柾木座焼失と弘前座)

大正八年八月、名称も「弘前座」と改めた常設映画館兼芝居小屋が落成した。,映画館としては、弘前で三番目である。,なお、弘前座では、戦前まで五月二十七日を「魔の日」と呼び、どんな大入りの映画でも、人気スターの実演でも
通史編5(近・現代2) (空前のベストセラー)

また、「青い山脈」の五度にわたる映画化など、石坂作品を原作とした映画は、実に八〇本に迫るという驚異的な
通史編5(近・現代2) (傷痍軍人の保護)

これには地元の銃後奉公会や地方事務所だけでなく、社団法人映画配給社と毎日新聞社が主催し軍事保護院が後援,映画配給社による「移動映写」で映写班が組織され各地域を回った。,上映映画は「マレー戦記」、「空の神兵」、「ハワイ・マレー沖海戦」、「ビルマ戦記」など、戦記ものが多かった
通史編5(近・現代2) (郷土文学館)

生前洋次郎が愛用した机や椅子などを書斎を再現する形で展示するとともに、懐かしい映画のポスターも数多く飾,られ、戦前、戦後を通じていかに多くの作品が映画化され、弘前市民のみならず、日本全国の国民から愛されたかを
通史編5(近・現代2) (市の対応策と市民の反応)

九月二十六日当初は、アメリカ軍兵士が弘前市に進駐すると、映画館などの入場者数が激減し、普段の一割程度になったという,けれども進駐軍が秩序正しいとわかると、映画館の入場者数も増え始める。,各映画館には、当時「案内ガール」と呼ばれた女性係員が夜間も勤務していた。,当初は彼女らを進駐軍から守るために、映画館への勤務を控えさせていた。
通史編4(近・現代1) (二つの雪中行軍)

この事件は小説家の新田次郎が『八甲田山死の彷徨』を発表し、映画『八甲田山』でも上映されたことで有名である,新田の巧みな筆致や、優秀なスタッフのもとに大物俳優が多数出演して製作された映画によって、この悲劇的事件,当初は秘匿されていたことだったのだが、新田次郎が『八甲田山死の彷徨』で発表し、映画でも上映されたため、
通史編5(近・現代2) (三浦雄一郎の活躍)

エベレスト初のスキー滑降に成功(資料近・現代2No.七〇二)したこと、そして昭和五十年三月、三浦雄一郎の記録映画
通史編4(近・現代1) (幻灯会の開催)

まだ活動写真(映画)が出てくる前で、幻灯は珍しかった。
通史編5(近・現代2) (りんごの唄と空前のりんご景気)

中弘農民組合、税金闘争勝利後の観桜会  昭和二十七年(一九五二)九月から十月にかけて、美空ひばり主演の映画,映画もヒットし、青森りんごの大宣伝となった(前掲『新聞記事に見る青森県日記百年史』)。
通史編5(近・現代2) (昭和弘前市民の一側面)

8 昭和初期の瑪耶渓  昭和四年、弘前市民は自らが誇る弘前城と、そこに見事な花を咲かせる桜が、映画,映画も市民の娯楽の一つであり、ニュース映画で情報を仕入れ、娯楽映画を楽しみ、その流行が流行を呼び、それに
通史編5(近・現代2) (職業は寺山修司)

作家というよりは、俳句(資料近・現代2No.六五一)、短歌、詩(同前No.六五〇)、映画、演劇、小説、
通史編5(近・現代2) (用途地域の設定)

計 - - 2,633 100.0 前掲『弘前の都市計画』  このうち、商業地域は、銀行、映画館
通史編5(近・現代2) (進取の建築)

盛況は、年号が変わっても衰えることなく続き、種類の上でも、公共建築や銀行建築はもちろん、活動写真館(映画館
通史編4(近・現代1) (初めての常設館・慈善館)

佐々木は、映画の幕合には壇上に登り、「諸君よ、諸君」と呼んで孤児救済と社会事業の必要性を力説し続け、「
通史編4(近・現代1) (後藤象二郎の青森県遊説)

写真63 料亭酔月楼 (本町 明治40年)  四日は柾木座(のちの東宝映画館)で政談演説会を開
通史編5(近・現代2) (虚弱な少年時代)

また、映画化もされた。十四年、一家上京し作家生活に入る。
通史編5(近・現代2) (相次ぐ火災)

さらに昭和三十二年十月二十五日には弘前駅前の映画館が全焼した。
通史編5(近・現代2) (社会教育研究大会)

須貝青森師範学校長の司会で開会、青森軍政部係官の講演「優秀小学校の特徴」と、同じく「視学教育」について講演および映画上映
通史編5(近・現代2) (市の防災・水防対策)

デパート・映画館などの事業所には、避難設備の整備と避難訓練・防災知識の普及などを要請している。  
通史編5(近・現代2) (官立弘前高等学校赤化事件)

昭和三年の三・一五共産党事件後、解散を命ぜられて非合法化されたが、旧社研メンバーは新聞雑誌部をつくり、映画
通史編4(近・現代1) ([付図])

創刊 竹内兼七の出資〈明治40年〉 32 「東北育児院」(佐々木五三郎創設)~施設維持のため映画
通史編5(近・現代2) (「草を刈る娘」について)

同紙面には「青い山脈 東宝独占映画化決定」の宣伝の囲み記事もみられる。,なお、本作品は映画化され、西河克己監督、吉永小百合、浜田光夫ら出演で津軽ロケを行い、昭和三十六年(一九六一
通史編5(近・現代2) (音楽団休)

弘前愛成園の設立者佐々木五三郎は大正三年(一九一四)に映画常設館「慈善館」(昭和四十一年三月閉館)を設置
通史編4(近・現代1) (第五連隊との遭遇)

両隊遭遇の事実が語られなかったのは、小説や映画と同じように、福島中隊長が隊員や教導たちに口止めしたからだろう
通史編5(近・現代2) (戦時生活の諸側面)

戦時生活の諸側面 戦争が本格化するまでの弘前は映画・演劇・音楽など、都市文化が展開し文化的生活が華やかだった
通史編5(近・現代2) (翼賛選挙)

で、町内会、部落会、隣保班を通して啓蒙運動せよと演説し、青森県でも山田俊介知事を先頭に県下六一ヵ所で映画
通史編4(近・現代1) (第三一連隊の壮挙とその後)

六〇周年記念行事の数年後に新田次郎の小説と映画が紹介され、雪中行軍は一躍国民的に有名となった。
通史編5(近・現代2) (終戦直後のりんご景気)

終戦直後のりんご景気 昭和二十年(一九四五)十月、戦後初めて製作された映画『そよ風』の主題歌であった
通史編4(近・現代1) (『東奥日報』従軍記者の書いた雪中行軍記)

それがゆえに小説や映画の格好のテーマとなり、空前の雪中行軍ブームを巻き起こした。  
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