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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

この四つの曲輪は、それぞれ以下に述べる曲輪Ⅰ(本丸)・曲輪ⅡA(二之丸)・曲輪ⅡB(三之丸)・曲輪Ⅲ(,」)、曲輪Ⅲ(狭義の「三の丸」)、曲輪Ⅳ(「馬場」と呼ばれる)、曲輪Ⅴ(「北郭」と呼ばれる)と称し、曲輪,曲輪ⅡAは、大手虎口から城内に入った通路が、曲輪Ⅰ(本丸)へと進んで行く手前に置かれた曲輪で、「二の丸,一方、曲輪ⅡBは、曲輪Ⅰ(本丸)の東に隣接する広い面積を持った曲輪で、南には曲輪Ⅰ(本丸)へ入るためのもう,おそらく、この中土塁cは、曲輪Ⅲから曲輪ⅡAを経て曲輪Ⅰ(本丸)の大手虎口D正面(o地点)に到達した敵
資料編1(古代・中世編) ((3)城館の構造)

台地の先端を東西に走る二本の空堀で区画して、Ⅰ~Ⅲの三つの曲輪を設け、曲輪Ⅰ・Ⅱの東側に一段の腰曲輪⑨⑩,、曲輪Ⅰの南側に何段もの腰曲輪を設けたものである。,このうち主曲輪と考えられるのが、最も南にある曲輪Ⅰの部分で、面積も広く、周囲の腰曲輪の造りも立派である,通路は、aから曲輪Ⅰ西側のbに出て、北に進み、cから曲輪Ⅲに入る。曲輪Ⅲの東側には遺構d(土橋?),があり、dを通って曲輪Ⅱに入る。さらに曲輪Ⅱと曲輪Ⅰの間の空堀iを渡り、曲輪Ⅰに入ったと考えられる。
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

したがって曲輪Ⅲは、曲輪Ⅱ(二の丸)から見て一種の「馬出し曲輪」(虎口の前面の防衛強化のために設けた曲輪,曲輪Ⅲより曲輪Ⅱに入るには虎口Bを通る。,曲輪Ⅱから曲輪I(本丸)に入るには虎口Cを通る。,曲輪Iの全体の形はほぼ方形である。  曲輪Iの西側には搦手Dがある。,この曲輪Ⅳも曲輪I(本丸)と同じく、土塁C、水堀h4が巡っている。
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

しかし今回の調査の結果、曲輪Ⅰの西側台地にも城館に伴う遺構らしいものがあることが分かり、この部分(曲輪,図48 乳井茶臼館縄張り推定復元図(曲輪Ⅰ部分拡大)  では、曲輪Ⅰの中枢部に達するには、どのような,図49 乳井茶臼館跡(曲輪Ⅰ)の現状写真と模式図  さて、ここまで曲輪Ⅰ全体の構造を見てきたが、,そして、曲輪Ⅰ西側に造られた遺構o・p・qと、西に続く台地に設けられた曲輪Ⅱの部分が、非常に注目されてくる,曲輪Ⅰ西側のこうした構えは、西の台地に設けられた曲輪Ⅱによって、さらに強化されている。
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

問題となるのは、これらのブロックのうちどれが石川城の中心か、それぞれの空間の中心となる曲輪(主曲輪)はどこかである,根拠の第一は曲輪の配置で、内館を取り巻くように他の曲輪が並んでいること。,Ⅰ)・南(曲輪Ⅱ)の二つの曲輪からなっている。,通路はこの遺構⑱の前を通り、曲輪Ⅰの内部を進んで曲輪Ⅱとの境をなす空堀跡h5に突き当たる。,また、曲輪の東西斜面には腰曲輪が構築されている。西側に腰曲輪i~mが、東側に腰曲輪n・通路oがある。
資料編1(古代・中世編) (五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)

34のベースマップだが、この図からは、中世・近世の都市に典型的な「短冊型地割」が、羽州街道に沿って、①曲輪,Ⅳの前川を挾んだ対岸の地区(町Ⅰ)、②曲輪Ⅰ(本丸)から堀h2・h5を挟んだ向いの地区(町曲輪Ⅱ)、③,大手虎口の正面の地区(町曲輪Ⅰ・町Ⅱ)に、びっしりと並んでいる状況が読み取れる。,曲輪状の地域であり、しかも、それぞれ城の大手虎口や曲輪Ⅰ(本丸)に直接面するという、防衛上、城郭内に準,堀越城下町の内部をさらに二つに区分し、それぞれ「町曲輪」「町」と表現したのは、こうした理由による。
通史編2(近世1) (堀越城の構造)

城域の規模は東西・南北約三五〇メートルで、これに城下町の一部を「町曲輪(まちくるわ)」として取り込んだ,曲輪や虎口を通過しなければならない構造になっている。,を多方向から攻撃できる「横矢(よこや)がかり」などの工夫がなされ、さらに食い違い虎口や桝形虎口などで曲輪,しかも、中土塁やそれと曲輪との接点にある防御施設、さらに曲輪の平場のように、戦闘の際の防御も十分留意した,また、町曲輪は、一方を堀越城の堀、外周を前川や水濠によって囲まれた曲輪であり、大浦城は「城―町曲輪―町
通史編1(古代・中世) (詰城の城館跡)

乳井茶臼館跡にしても笹館跡にしても山頂の頂部に小さな曲輪が設けられ、その曲輪を中心に同心円状の形態で何段,もの段差が設けられ、帯曲輪(おびぐるわ)が作られていることが大きな特徴である。,また幅狭い帯曲輪には、約五〇センチメートルほどの段が実戦のために設けられていること。
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

また城の普請においても、曲輪が「本丸」を中心として同心円状に曲輪が配置されるなど、近世的な築城技法によって,町屋2を北上していくと緩く右折する部分から、町曲輪1に出る。,曲輪の一部と考えてよいものと判断される。,町曲輪部分と想定されるのは羽州街道の西側にみられる短冊形地割五筆がそれにあたる。  ,町屋3は町曲輪1が西側に左折する部分から水濠が流れる部分までが相当する。
通史編1(古代・中世) (種里城と町)

種里城の規模や性格は、今までは不明な部分も多かったが、平成四年(一九九二)から種里城跡の中心部である「主曲輪,図61 鯵ヶ沢町種里城跡検出掘立柱建物跡の平面図  その北西側に位置するⅡa曲輪は、斜面に何段もの,腰曲輪が設けられ、縦土塁状の施設と堀割りが組み合わされた通路などが作られている。,図62 種里城跡縄張り図(鯵ヶ沢町)  また、伝承として残っていた「伝侍屋敷」と呼ばれる主曲輪の,この入口から入った手前の曲輪は、有事の際には村(町)人が逃げ込むための曲輪であった可能性も考えられる。
通史編1(古代・中世) ((五)発掘調査から見た遺跡)

石川城跡の内館部分や福村城跡の堀跡が発掘調査され、また大浦氏に関係した城館跡としては、鯵ヶ沢町種里城跡の主曲輪,舞台として登場してくる平賀町大光寺新城跡、藤崎町藤崎城跡なども開発に伴う緊急発掘調査が行われ、城館跡の曲輪内
通史編1(古代・中世) (石川城跡)

内(うち)館(八幡(はちまん)館跡とか次五兵衛殿館とも呼ばれる)という石川城跡の中心部に当たる曲輪と、,写真215 石川城跡内曲輪から検出された巨大な堀跡  さらに出土した遺物は、中世のものは中国青磁,中心部分の曲輪をさらに堅固にするように内館の南西側からは、堀が設けられたほか、堆積土中の底面からおよそ
通史編1(古代・中世) (堀越城・石川城を中心とした城館群)

台地を「古館」や「館コ」あるいは「宇佐美(うさみ)館」と呼ぶ人もいるが、蔵館跡は平川の河岸段丘で二つの曲輪,東曲輪は現在の蔵館小学校の建てられているところで、西曲輪はりんご畑と住宅が建てられている。,元長峰館は長峰城とも呼ばれ、「古館」「小館」「篠館」という三つの曲輪から構成されている(図76)。,このなかで中心となる曲輪は古館で、八幡宮が最初に勧請されたともいわれている。,三ツ目内館跡は「戸館」「中館」「古館」という三つの曲輪から構成され、それぞれの曲輪を区切るように空堀が
資料編1(古代・中世編) ((3)城館の構造)

(3)城館の構造 国吉館は曲輪が一つだけの、いわゆる「単郭」の城館であるが、虎口の位置や地割の在り方,そこはもう曲輪の内部であり、あとは平坦地を西に進んで、中心部に達している。,この地点で曲輪の上の平場⑦との高低差は五・五メートルである。,西側にある平場⑧と⑨は、防御と通路を兼ねた腰曲輪である。,しかし、北側の空堀の工夫や西側に設けられた腰曲輪など、要所には戦闘の際の防御を意識した工夫が積極的に取
通史編1(古代・中世) (城館タイプの分類)

一つのタイプは本城(内館・本丸とも呼ばれる)を中心として、曲輪が六つから七つほど設けられるもので、それらの,曲輪は空堀などによって区切られていることが特徴である。,このタイプのものは主曲輪を囲むように曲輪が配置されるものと、主曲輪を囲い込まないものとがみられる。,これら家臣や小領主が居住したと考えられる城館の大きな特徴は、曲輪が二つから三つで構成されており、規模は
通史編1(古代・中世) (大浦氏関係の中世城館跡)

種里城跡においては主曲輪から束になった銭(備蓄銭か)や、光信が居住したと考えられる主殿跡、区画溝によって,また大浦城跡(写真219)も、二ノ丸曲輪で掘立柱建物跡と思われる柱穴や、竪穴建物跡と思われる遺構などが
資料編1(古代・中世編) ([口絵])

天正十八年正月十六日 豊臣秀吉判物(本文史料一一〇〇号) 堀越城跡全景(上空南東から) 堀越城 曲輪,Ⅰ(本丸)土塁 堀越城 曲輪Ⅰ遠景(南東から) 石川大仏ケ鼻城跡遠景(南東から)
通史編1(古代・中世) (藤崎城と中世都市)

藤崎城周辺の天和の絵図面  その絵図でみると、藤崎城は一辺一〇〇メートル×二〇〇メートルの主曲輪,があり(天和四年の藤崎村絵図では「御本丸」と記される)、その北西には「副曲輪(西館)」が設けられている,外構の規模は三六〇メートル×五〇〇メートルで、主曲輪と副曲輪を含めて考えると全体の大きさは、,このような「外構」は地域によっては「町曲輪」とか「宿城」などと呼ばれ、戦国時代の都市的な場所に建設されるが
資料編1(古代・中世編) (一 石川城の立地と現状)

しかし、実は、大仏ケ鼻北西に続く台地上には一三の曲輪(郭)が並び、「石川十三館」と総称されるような巨大,次五兵衛殿館)、9茂兵衛殿館、10孫兵衛殿館(西町館)、11寺山館、12小山館、13新館、の十三の館(曲輪,また13新館は、石川字小山田、JR奥羽本線石川駅南側の台地に位置する1~11の曲輪群とは別個の独立した
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

城域の規模は東西・南北約三五〇メートルで、これに城下町の一部を「町曲輪」として取り込んだ規模の大きな城郭,堀越城跡航空写真 (南西側より撮影・平成4年) 南方より曲輪I(本丸)を望む 曲輪
通史編1(古代・中世) (福村城跡)

構成され、渡り幅は四・七八メートル、長さは一八メートルで、城外から一度三五分(約三分)の上り勾配で本曲輪,この橋脚の検出により福村城跡の大手虎口は本曲輪の南側である可能性が強まってきたといえる。
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

写真204 大浦城跡航空写真  まず、大浦城は本丸・二の丸・三の丸・西の丸・西ノ郭・南曲輪,というように六つの曲輪から成り立っていることが明らかとなった。,この③の町並みを過ぎた地点が大浦城の「三の丸=曲輪Ⅲ」に突き当たる、その曲輪Ⅲとの接点地点で、街道は南側
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

大浦城は、段階を経て整備・拡張されたが、最終段階では本丸・二の丸・三の丸・西の丸・西の郭・南郭の六つの曲輪,(くるわ)によって構成され、それぞれの曲輪には虎口(こぐち)(入口)・水堀・土塁(どるい)が設けられた
資料編1(古代・中世編) ((1)立地と遺構の現状)

東に古館、西に新館の二つの館からなり、古館は南北三つの曲輪から構成される。
資料編1(古代・中世編) (三 大浦城「縄張り」の復元)

地元住民からの聞き取り  基本となる資料は(1)ア及び(2)アで、現状では失われ確認できない土塁・堀跡や曲輪
資料編1(古代・中世編) (三 乳井茶臼館「縄張り」の復元)

べたように、現在、乳井茶臼館跡はその大部分がリンゴ園となり、丘陵全体に段々畑が造成されて、城館に伴う腰曲輪
資料編1(古代・中世編) ((1)立地と遺構の現状)

ほどの急崖をなし、北側は自然の沢と空堀をもって北方の丘陵(海抜約一五〇メートル)から区画された「単郭」(曲輪
通史編1(古代・中世) (本城(根城)の城館跡)

拠点として南部高信によって築城されたもので、大仏ヶ鼻(だいぶつがはな)という山城と「内館」と呼ばれる曲輪
通史編1(古代・中世) (枝城・端城の城跡)

小沢館跡は小沢集落の東方二〇〇メートルほどの南側から延びる舌状台地末端に位置しており、主曲輪は南北一二
資料編1(古代・中世編) (五 乳井地区の城館群と宗教的領域)

石川からの道と街道が合流する地点には、あたかも通行人を監視するかのように、「寺屋敷」と呼ばれる曲輪状の,もとより、乳井茶臼館は合戦に備えた砦、乳井城は三つの曲輪を持つ平時の居館であるが、単に霊場福王寺の周縁部
通史編1(古代・中世) (支城の城館跡)

福村古館跡は、曲輪が三つの平場から構成されており、県内で一般的にみられる家臣居住型城館跡であると考えられるが
通史編1(古代・中世) (安倍氏の柵)

の一つであるが、その場所は、坂上田村麻呂によって鎮守府の置かれた胆沢城と目と鼻の先にあり、土塁・堀・曲輪
通史編1(古代・中世) (文献史料から見た戦国動乱の激化)

油川城は大きな曲輪がひとつ大きく作られ、それに付属するように小さな曲輪が二つ設けられるという構造を示している
資料編1(古代・中世編) (一 乳井茶臼館の立地と現状)

館は、丘陵の先端を掘切り、さらに斜面を同心円状に何段にも削平して平場(腰曲輪)を造るという、典型的な「
資料編1(古代・中世編) ((1) 南北朝時代の「堀越楯」)

であることから考えて、当初の堀越楯は平川沿いの段丘状の高まりを利用して構築されたものであり、西に堀を掘って曲輪
通史編1(古代・中世) (東目屋地域に見られる城館跡)

番館跡も現地踏査では曲輪らしい遺構の確認はできなかったが、空堀と思われる遺構は確認できた。
資料編1(古代・中世編) (二 各城館の位置)

空堀で切断したもの」と述べているが、現地を踏査したところ、空堀らしきものはあるが、台地の先端を切って曲輪
通史編1(古代・中世) (大浦城築城以前の城館跡)

図70 上新岡館跡見取図  愛宕神社が建立されている場所も、本堂を中心にその両側に腰曲輪状の平場
資料編1(古代・中世編) (一 はじめに)

、地表からの丹念な表面観察に過去の記録・地図・写真も加えて、堀・土塁・虎口(こぐち)(城の出入口)・曲輪
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

、本丸を中心に二ノ丸・三ノ丸・東出丸・遊撃(ゆうげき)丸・弾正(だんじょう)丸(浅野長吉の陣所)等の曲輪,さらに浅野長吉との関係を悪化させていたが、その浅野長吉の陣所は為信の陣屋のすぐ背後にある名護屋城の一曲輪
資料編1(古代・中世編) (二 本章で取り上げる中世城館跡)

しかも「石川十三館」と総称される多くの曲輪を持ち、津軽ではおそらく最大規模の中世城館であろう。
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