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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (曹洞宗)

曹洞宗 曹洞宗の僧録所は長勝寺であった。,曹洞宗は、総持寺峨山門下二五哲により全国に広まり、その中の三派の教線が領内に及んだ。,図197.曹洞宗本末関係図  領内の禅宗寺院は曹洞宗のみで、後に黄檗宗(おうばくしゅう)が加わったが,「国日記」寛文五年(一六六五)二月二十七日には、曹洞宗関東触頭総寧寺・大中寺・龍穏寺よりキリシタン禁止 / 曹洞宗
通史編3(近世2) (藩主の位牌を盗む)

藩主の位牌を盗む 曹洞宗盛雲(せいうん)院(現市内西茂森一丁目)隠居、海中(かいちゅう)の弟子である,義道(ぎどう)は、天保十四年(一八四三)五月に津軽家の菩提寺で、曹洞宗僧録所の長勝寺(ちょうしょうじ)
通史編3(近世2) (長勝寺)

領内曹洞宗の僧録所であったが、その存在は寛文五年(一六六五)曹洞宗関東触頭によって認められた(同前No,藩主家は曹洞宗を信仰してきたが、信枚が天台宗に改宗し、後に建立される報恩寺を菩提寺に改めた。
通史編3(近世2) (耕春院)

耕春院 耕春院(こうしゅんいん)(現宗徳寺)は、「長勝寺並寺院開山世代調」によれば、曹洞宗現空派に属,を為信に命じられて田舎館村に住み、信枚は二世連室に帰依していたため、惣五郎の葬式の導師を頼み、東根の曹洞宗寺院
通史編3(近世2) (津梁院)

信枚はそれまでの曹洞宗から天台宗に改宗し、正室に家康の養女満天姫(まてひめ)を迎え、家康に影響力を持つ,信建は海蔵寺の僧侶に帰依していたが、萬隆寺(ばんりゅうじ)(曹洞宗、現東京都台東区)の僧侶を支援していたため
通史編5(近・現代2) (禅林街・太平高等学校)

昭和二十一年四月、長勝寺専門僧堂の本堂を教室として開設された太平中学は、曹洞宗宗務庁が終戦の年の暮れ、,ぐらいであったが、生徒数の増加とともに独立した校舎を建て、独特な校風の学校として、その経営は、授業料や入学金のほか曹洞宗宗務庁
通史編3(近世2) (万蔵寺)

北条時頼が衰退していた午堂教院を臨済宗護国寺に改めたとか、霊台寺に改めたなどと記され、戦乱の中で衰微し、曹洞宗万蔵寺
通史編3(近世2) (伊勢参り)

同行の女房の話と所持していた川龍院(曹洞宗)の寺請証文から、近くの曹洞宗鎮徳寺(現福井市)に頼んで土葬,また、正徳五年(一七一五)荒町の善兵衛(六十一歳)が、伊勢・高山へ参詣の帰り、桑名宿で病死し、海蔵寺(曹洞宗
通史編3(近世2) (隣松寺)

隣松寺 隣松寺(りんしょうじ)は、津軽における曹洞宗大源派の本寺で、「長勝寺並寺院開山世代調」によると
通史編3(近世2) (常源寺)

創建には諸説があり、真言宗の寺院で熊野・稲荷宮を司っていたのを曹洞宗に改めたとか、和徳讃岐の建立とか、
通史編3(近世2) (三代信義)

(資料近世1No.五五八)は僧侶の酒乱、外泊、在方へ住居することを長勝寺に取り締まらせるものであり、曹洞宗
通史編3(近世2) ((一)藩主家の菩提寺)

この時から曹洞宗長勝寺は大浦(津軽)氏の菩提寺となり、五〇石ともいわれる寺領の寄進を受けた。,また、寺領二〇〇石を寄進し、僧録所として領内曹洞宗を統括させた。  
通史編3(近世2) (信枚)

信枚は、それまでの津軽家が菩提寺としてきた曹洞宗から天台宗に改宗した。
通史編3(近世2) (キリシタン改め)

同五年には幕府よりキリシタン改めの方法を示す布令が届いたが、長勝寺へは曹洞宗関東触頭からも布令があった,曹洞宗からのものは、藩権力の及ばない朱印地内のキリシタン改めを念頭に置いたものとみられる。
資料編3(近世編2) (●革秀寺 藤代一丁目)

近世初頭における禅宗寺院の大規模な本堂建築であり、津軽地方における曹洞宗本堂の典型として、価値の高い遺構
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

長勝寺 曹洞宗 金沢宗徳寺 大永六 (一五二六) 大浦盛信 種里 (鯵ケ沢町) 西茂森 大浦盛信,(弘前市) 同右 同右   名称 宗派 本寺 開基年次 開基 開山 建立地 現在地 備考 宝泉院 曹洞宗,護国寺は、堂教院→霊台寺→護国寺と名を改め、臨済宗から改宗して曹洞宗の満蔵寺となった。,(弘前市) 同右 同右   名称 宗派 本寺 開基年次 開基 開山 建立地 現在地 備考 月峰院 曹洞宗
通史編3(近世2) ((二)本末制と僧録制)

浄土宗は増上寺、浄土真宗は築地本願寺・浅草別院、曹洞宗は関三刹の宗寧寺(下総)・大中寺(下総)・龍穏寺
通史編3(近世2) (為信)

このように為信の信仰は、津軽惣鎮守の岩木山三所大権現であり、格翁に導かれた曹洞宗であった。
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

禰宜町(ねぎまち)、伊勢大神宮(神明宮)、西には浄土宗の誓願寺、南西には長勝寺・耕春院をはじめとする曹洞宗寺院,南西の曹洞宗寺院の集まる区域は台地になっており、北側は斜面で、南側は寺沢川が流れる。
通史編4(近・現代1) (出生の真実と仏苗学園)

そこで愛蔵は湊迎寺から父のもとにやってきたが、父は養家や妻の心を思いやって、今度は愛蔵を深浦の曹洞宗宝泉寺
通史編3(近世2) (二代信枚)

岩木山麓の西根から、耕春院(現宗徳寺)を中心にした下寺(したでら)には八甲田山麓の東根から、合わせて曹洞宗寺院三三
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

亡父光信の菩提寺として、種里(たねさと)(鯵ヶ沢(あじがさわ)町)に創建した長勝寺や海蔵寺をはじめとする曹洞宗寺院,曹洞宗もやはり、鎌倉中期には玉泉寺の了然法明が羽黒山方面に教化していたといわれる。  
通史編1(古代・中世) (四 執権時頼の東国廻国をめぐって)

祖父時頼と孫貞時がこの「大事」を通して密接不離に結びついていたことは、弘前市の長勝寺(曹洞宗)の梵鐘から,をみるように、「平堂教院」→「靈臺寺」→「護国寺」→「滿蔵寺」と寺名のみならず、その宗派名も天台宗→臨済宗→曹洞宗,』は「貞観中、慈覚大師の開山と称すれど、享禄三年(一五三〇)、田名部円通寺、宏智聚覚和尚中興の後は、曹洞宗,奥州南部宇曾利山之絵図  これによると、恐山は古代において、最澄の高弟円仁=慈覚大師によって開かれた後、享禄三年に曹洞宗
資料編3(近世編2) (●長勝寺 西茂森一丁目)

その建立年代についてはいくつかの説があるが、ほぼ、慶長年間(一五九六~一六一五)の後半と見られ、曹洞宗
通史編3(近世2) (江戸時代初期の建築)

ともに曹洞宗(そうとうしゅう)寺院であり、津軽家の菩提寺や為信の菩提寺であったりと、津軽家との関係も深
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

10) 袋宮寺 同右 天正年中 (11) 報恩寺 同右 江戸輪王寺 明暦三年 (12) 長勝寺 曹洞宗,) 海蔵寺 同右 同右 明応年中     寺院名 宗教名 本寺 創立年次 備考 (16) 清安寺 曹洞宗,(26) 正法院 同右 同右 蓬田村 (27) 宗禅寺 同右 同右 荒川村 (28) 全龍寺 曹洞宗,(49) 宝積院 同右 隣松寺     寺院名 宗教名 本寺 創立年次 備考 (50) 誓願寺 曹洞宗
通史編1(古代・中世) (三 北奥宗教界の中世的転回)

その後、幾星霜を経て「滿藏寺」と改名して曹洞宗寺院となり、現在も曹洞宗の名刹・長勝寺門内に存在する。
通史編2(近世1) (高照神社「御告書付」の開始)

長勝寺(曹洞宗)は津軽家の菩提寺であり、津軽氏の先祖崇拝の中心的寺院である。
通史編1(古代・中世) ([付図])

年3月29日 (S,60年11月15日 堀越城跡追加) 下白銀町1ほか 弘前市ほか 2 市 〃 曹洞宗津軽山革秀寺
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●寛永六年(一六二九)八月十三日、長勝寺へ曹洞宗法度が下される。
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