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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の出自)

津軽曽我氏の出自 平賀郡を中心に活躍した津軽の中世武士としてよく知られているのが曽我氏である。,この津軽の曽我氏が、治承四年(一一八〇)の源頼朝挙兵による石橋山(いしばしやま)合戦に際して、頼朝に敵対,元禄十一年(一六九八)の自序をもつ『奥羽永慶軍記』に、この曽我氏を駿河国有度(うど)の領主伊原左衛門尉,の末裔とするのは誤りで、れっきとした平姓曽我氏の一族である。  ,しかし当初においては関東に所領を有していた形跡がなく、曽我氏庶流として早くから得宗被官となり、東北地方 / 津軽曽我氏の出自
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の滅亡)

津軽曽我氏の滅亡 観応元年(正平五年、一三五〇)十一月、足利尊氏との確執から弟直義(ただよし)が南朝,しかし南部氏自体はその勢力を保ち、詳細は不明であるが曽我氏をはじめとした津軽方面の豪族を滅ぼして、津軽地方,曽我氏が南部氏の前に屈することとなった具体的な経過は、それを伝える古文書がまったく残されていないため不明,ただ本来、津軽曽我氏に伝来しているはずの所領や軍忠関係をはじめとしたさまざまな古文書が、現在は遠野南部家文書 / 津軽曽我氏の滅亡
通史編1(古代・中世) (曽我氏系図の復原)

曽我氏系図の復原 津軽曽我氏については、平賀郡を中心として鎌倉時代から南北朝時代にかけての比較的豊富 / 曽我氏系図の復原
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・鼻和郡)

津軽曽我氏の所領・鼻和郡 文和四年(一三五五)の「あへのうちめうあ(安倍氏妙阿か)譲状」(史料七一三,比定地不詳)を譲られた「ゆわたてとの」(史料七一七にみえる「岩楯殿」と同一人物か)は、その呼称から岩楯曽我氏,その推測によれば、曽我氏の所領がこのころ鼻和郡にもあったことになる。 / 津軽曽我氏の所領・鼻和郡
通史編1(古代・中世) (鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏)

鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏 元弘三年(一三三三)閏二月の後醍醐天皇の隠岐脱出に始まり、同年五月の足利尊氏,南北朝の動乱に至るまで、この津軽の地でも、そうした中央の政情激変の一端を担う戦乱が続くことになり、津軽曽我氏,図41 南北朝期における津軽の楯  津軽曽我氏の嫡流である光頼(光称(こうしょう))・光高(のちの,この年三月までは鎌倉幕府方の年号「正慶二年」を文書に使用していた曽我氏も、六月からは後醍醐方の年号「元弘三年 / 鎌倉幕府滅亡と津軽曽我氏
通史編1(古代・中世) (南北朝の動乱と曽我氏)

南北朝の動乱と曽我氏 建武三年(延元元年、一三三六)正月、足利尊氏の御教書(みぎょうしょ)を受けた安藤家季,が合戦奉行となると、津軽曽我氏嫡流の貞光(さだみつ)もそれにしたがって、手始めに藤崎城・平内城を攻め、,このころの遠野南部家文書など曽我氏関係の文書には、「将軍家御教書に応じて」という文面がしばしばみえる( / 南北朝の動乱と曽我氏
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・平賀郷)

津軽曽我氏の所領・平賀郷 次に平賀郷(平賀町・大鰐町付近)について見てみよう。,父広忠の時の例に任せての知行を、北条義時から安堵されているので(史料五五三)、岩楯と同じく広忠の時から曽我氏 / 津軽曽我氏の所領・平賀郷
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・名取郡)

津軽曽我氏の所領・名取郡 光弘は宝治元年(一二四七)七月、宝治合戦の勲功の賞として陸奥国名取郡土師塚 / 津軽曽我氏の所領・名取郡
通史編1(古代・中世) (津軽曽我氏の所領・岩楯村)

津軽曽我氏の所領・岩楯村 津軽曽我氏の津軽地方における所領は、文書で確認できるもののすべてが津軽平賀郡 / 津軽曽我氏の所領・岩楯村
通史編1(古代・中世) (津軽平賀郡への入部)

津軽平賀郡への入部 曽我氏が津軽における拠点としたのが、中世の津軽三(四)郡の内の津軽平賀郡である。,曽我氏が北条氏の地頭代として平賀郡に入部したことが確認できるのは、建保七年(一二一九)、曽我広忠の時のことである,これが曽我氏が津軽に地頭代職を得た最初なのか、あるいはそれ以前からすでに得ていたのかについては定かでない,これに関係するのが、曽我氏が得宗北条氏の被官となった時期の問題である。,曽我氏と北条氏との関係については、従来、仇討ちで有名な曽我兄弟が、祖父および父のことがもとで源頼朝を憚
通史編1(古代・中世) (高麗氏から伝領した所領)

高麗氏から伝領した所領 曽我氏は姻戚関係を通じて高麗氏からも所領を伝領した。,このように姻戚関係を通じて得た所領は、いずれも相論の対象になりやすく、確実に曽我氏に伝領されていったことがわかるのは
通史編1(古代・中世) (嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)

また一人おいて「平經廣(つねひろ)」なる人物がみえるが、平姓であるのでこれも津軽曽我氏であろう。,写真114 十三湊新城記  とするとその間に入る「沙弥行心(ぎょうしん)」も、配列からみて津軽曽我氏,この津軽曽我氏は、仇討ちで有名な曽我兄弟の義父曽我太郎祐信(すけのぶ)の一族であるが、当初においては関東,執権義時のころには平賀郡岩楯村・平賀郷の地頭代職を得ていたことが古文書で知られているが、津軽曽我氏については,安保氏もまた、曽我氏のように御家人でもあり御内人でもあった。  
通史編1(古代・中世) (嫡流と庶流)

また従来の地元の研究では、鎌倉時代末期の元弘の乱の過程で曽我氏が後醍醐方と北条方とに分裂し、「大光寺合戦,」を皮切りとする津軽での合戦が始まった際、庶流惟重の系統は後醍醐方につき、嫡流助光の系統と推測される曽我氏,現存する古文書からみるかぎりでは、津軽曽我氏に関する所領の譲与・安堵・伝領などがすべて惟重の系統で行われていることから
通史編1(古代・中世) (討幕の論功行賞)

しかし建武政権下でよくあるごとく、曽我氏が姻戚の片穂氏から伝領した沼楯の所領の安堵をめぐって不手際があり,北畠顕家の扱いが、南部氏に厚く曽我氏や安藤氏に薄かったのは事実である。  
通史編1(古代・中世) (曽我貞光とその家族)

なお大光寺系と呼ばれる曽我氏の孫二郎貞光(史料六五二)とは別人である。  ,図40 復原・曽我氏系図
通史編1(古代・中世) (北条得宗領の形成)

なかでも津軽平賀郡が、早く北条義時の時代に得宗領化していることが、自らの地頭代として曽我氏を任命した文書
資料編1(古代・中世編) ((1) 南北朝時代の「堀越楯」)

曽我貞光は、津軽曽我氏の嫡流で、鎌倉幕府滅亡後、いちはやく朝廷側につき、元弘三年(一三三三)から翌建武元年,津軽における南北両党の合戦はその後も続き、十四世紀後半に津軽曽我氏は南部氏によって滅ぼされるが、「堀越楯
通史編1(古代・中世) (所領の経営)

平賀郡は、地頭代曽我氏が、郡政所を通さず直接に北条氏に対して所当進納を請負う「別納請所」であるからである,このことから津軽曽我氏も鎌倉近辺に経済活動の拠点を持っていたであろうことが推測されている。  
通史編1(古代・中世) (得宗被官の入部)

得宗被官の入部 さてこうした経緯のなかで、曽我氏や安藤氏・工藤氏・横溝氏、その他の得宗北条氏の被官(
通史編1(古代・中世) (姻戚から伝領した所領)

姻戚から伝領した所領 次に、曽我氏の姻戚から伝領された所領について見てみよう。
通史編1(古代・中世) (得宗領の分割)

得宗領の分割 県下の鎌倉武士たちについては、室町期になって南部氏が入手した曽我氏関係の古文書が多数残
通史編1(古代・中世) (曽我惟重とその妻)

曽我惟重とその妻 仁治二年(一二四一)に曽我氏が知行する岩楯村内の「亡夫墓堂(燈油)仏聖田」のことを
通史編1(古代・中世) (片穂家から伝領した所領)

片穂家から伝領した所領 光頼夫人「ありわう」御前の実家片穂家からはかなりの所領が曽我氏に伝領された。,いったんすべて片穂惟秀(かたほこれひで)夫人で「ありわう」の母である尼「たうしやう」一期分となったのちに曽我氏,、駿河国有度郡鎌田郷の郷司職半分は「そうりやうちきやうのものにつくへきなり」とされ、そのせいか、以後曽我氏関係
通史編1(古代・中世) (一族の分裂)

それによれば曽我氏も工藤氏・小川(河)氏も、いずれも一族分裂して戦ったさまがうかがわれ、降人にも預人にも
通史編1(古代・中世) (安藤高季の活躍)

もっとも安藤氏の場合も曽我氏などと同様、一族揃(そろ)って建武方についたのではなく、北条余党に与(く)
資料編1(古代・中世編) (一 銅鐘)

また、平高直・平経広・沙弥道性は曽我氏、丹治宗員は鹿角地方(秋田県)に地頭職を持つ御家人の一族と推定される
資料編1(古代・中世編) ((1)南北朝時代の「石川楯」)

していたと思われ、給主曽我光高は、国府=建武政府側について奮戦したが、もと得宗被官で平賀郡に勢力を持つ津軽曽我氏
通史編1(古代・中世) (奥羽の特殊産物)

すでに曽我氏の所領経営のところでその一端を述べた。
資料編1(古代・中世編) ([十三世紀])

曾我氏の過書。
通史編1(古代・中世) (曽我貞光の奮戦)

同年三月には北条一族と称するものを筆頭に、南部氏や成田氏・工藤氏らの南朝方が大挙して曽我氏本拠の大光寺外楯
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

十二月二十五日、小林時重、曾我氏等の手負を合戦奉行安藤高季に注進する。,●延元元年(一三三六南建武三)正月、曾我氏等と南部氏の戦闘。
通史編1(古代・中世) (新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)

370    一 奥羽の建武新政 ……………………………………………  370    二 南北朝期の津軽曽我氏
通史編1(古代・中世) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

北条時頼説話の分布と成立要因」『伝承文学研究』45号 1996年 三弥井書店刊 図40 小口雅史「津軽曽我氏
通史編1(古代・中世) (四 執権時頼の東国廻国をめぐって)

「沙弥道性」「沙弥行心」「平經廣」は、平姓の津軽曽我氏であろう。
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

曾我氏の過書。,十二月二十五日、小林時重、曾我氏等の手負を合戦奉行安藤高季に注進する。,………………………… 南部家文書 199 ●延元元年(一三三六南建武三)正月、曾我氏等と南部氏の戦闘。
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