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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)
となったのが、西軍に味方した豊臣政権の五大老の一人である会津の上杉景勝と、それに対する東軍の出羽山形の
最上義光
,そして伊達政宗・佐竹義宣・
最上義光
・南部利直ら東北・関東の大名が国元に戻った後(「政宗君治家記録引証記,七月七日、家康は
最上義光
に書状を発し、その中で会津への出陣日を七月二十一日とし、諸将が同心して義光のもとに,また米沢から会津に侵入する先陣を
最上義光
が務め、これらの軍勢の兵糧は最上氏から借りることを命じた(資料近世,しかし上方の様子が奥羽に伝わると、少なからざる動揺が走ったらしく、諸大名は、
最上義光
との間に、家康・秀忠父子
通史編2(近世1)
(人質徴収)
伊達政宗に宛てられた木下吉隆からの書状では、秀吉が宇都宮に到着し出羽・奥州の仕置を行うために、政宗と
最上義光
,最上氏も、八月に
最上義光
が妻子を伴って上洛を果たしているが(「伊達家文書」五六六号)、これは、大名自身
通史編2(近世1)
(奥羽大名の名護屋参陣)
加賀宰相前田利家の配下には南部信直・本堂忠親(ほんどうただちか)、蒲生氏郷の配下には
最上義光
・大崎義隆,誓紙の中に、津軽為信・南部信直らの署名と花押が認められ、蒲生氏郷(がもううじさと)・
最上義光
(もがみよしあき,名護屋在陣の諸将たちは、
最上義光
をはじめ一様に安堵の気持ちを国元へ報じていたことから、秀吉は渡海の中止
通史編3(近世2)
(為信)
図242.大光寺三重塔跡 為信は、元亀元年(一五七〇)、
最上義光
(もがみよしあき)への対面の途中羽黒山
通史編2(近世1)
(関東・奥惣無事令)
また、天正十六年(一五八八)十月二十六日、家康は伊達政宗に書状を遣わして、
最上義光
(もがみよしあき)との
通史編2(近世1)
(知行安堵と検地)
この時に知行給与を受けた大名は、伊達政宗(だてまさむね)・
最上義光
(もがみよしあき)のほかに、佐竹義重
通史編2(近世1)
(関ヶ原の戦いと津軽氏)
めたものであるが、そのなかの「もくそ(牧使)城とりまき候衆」、すなわち牧使城を攻囲する軍勢として、蒲生氏郷、
最上義光
通史編2(近世1)
(中世の北国海運)
さらに慶長二年(一五九七)六月に、
最上義光
(もがみよしあき)が能代から船材を酒田の商人を使って取り寄せていることが
資料編1(古代・中世編)
([十六世紀])
●永禄十年(一五六七)、大浦為信、「庄内」
最上義光
と好誼を結ぶという(庄内大宝寺氏との通交を誤り伝えるものか,●天正十六年(一五八八)八月五日、仙北の本堂道親、南部信直の斯波御所攻略を賀するとともに、
最上義光
の仙北介入
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
また、
最上義光
(もがみよしあき)は由利郡の小名である由利五人衆に対して、自身に従い参陣するよう催促している
通史編2(近世1)
(伏見滞在と派閥抗争)
秀吉政権はすでに妻子の上洛を強制し、天正十八年八月には、奥羽の有力大名である伊達政宗、
最上義光
、南部信直
資料編1(古代・中世編)
(第一章 綱文・史料一覧)
・寛永諸家系図伝・参考諸家系図・石井三庵政満覚書 306 ●永禄十年(一五六七)、大浦為信、「庄内」
最上義光
, 344 ●天正十六年(一五八八)八月五日、仙北の本堂道親、南部信直の斯波御所攻略を賀するとともに、
最上義光
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