機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 57件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 2ページ
通史編3(近世2)
(最勝院)
最勝院
最勝院
(さいしょういん)は、天文元年(一五三二)、弘信僧都が堀越村に創建し、為信が神宮寺別当,享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)には「勧修寺宮院室密乗院兼金剛山光明寺
最勝院
,
最勝院
は社家頭小野若狭・長利薩摩を通じて領内の神職大半を支配し、心応院を通じて修験のほとんどを支配するという /
最勝院
資料編3(近世編2)
(●最勝院 五重塔 銅屋町--重要文化財)
●
最勝院
五重塔 銅屋町--重要文化財 大円寺六世京海が、津軽統一の過程で戦死した敵味方の者を供養するために,図11
最勝院
五重塔平面図 (『重要文化財
最勝院
五重塔保存修理工事報告書』より転載) 図,12
最勝院
五重塔立面図・断面図 (『重要文化財
最勝院
五重塔保存修理工事報告書』より転載) / ●
最勝院
五重塔 銅屋町--重要文化財
通史編3(近世2)
(真言宗)
真言宗 真言宗は
最勝院
が僧録所であり、八幡宮(現弘前八幡宮)別当も兼職し、社家頭を通して領内の神職をも,図194.真言宗本末関係図 藩では、
最勝院
・百沢寺・国上寺・橋雲寺・久渡寺を津軽における真言宗,
最勝院
の弟子歓果が安政三年(一八五六)に容疑をうけ、町同心によって揚屋(あがりや)入りが俗人の身分にして,しかし、
最勝院
から脱衣・還俗すると、宗法では僧侶に復帰できない規定なので、揚屋にあっては僧衣を脱ぎ、外出
通史編3(近世2)
(八幡宮)
最勝院
が別当で、神仏習合のあり方から
最勝院
本堂に安置した八幡宮の本地仏は阿弥陀如来、勢至・正観音菩薩であった,藩主は
最勝院
へ立ち寄り、それから社参するのを常とした(「国日記」元禄十四年三月十八日条)。,神主小野氏は、別当
最勝院
の支配を受け、熊野宮(現熊野奥照(くまのおくてる)神社)神主長利氏とともに社家頭
通史編3(近世2)
(心応院)
しんのういん)は、「社堂縁起」(資料近世2No.四一三)によれば、慶安三年(一六五〇)、木戸道壺(どうこ)が
最勝院
日雅,元禄十五年(一七〇二)の「堂社縁起修験道由緒」には、
最勝院
に属する山伏七人がみえ、その中心は心応院とみられるが,寺社領分限帳」(同前No.三九九)には、大行院支配となっているが、弘化二年(一八四五)に心応院が病死の時に
最勝院
支配
通史編3(近世2)
(神仏分離の準備)
しかし、同年八月に弘前藩を頼って奥羽鎮撫総督府参謀醍醐忠敬(だいごただゆき)が来弘し、
最勝院
(さいしょういん,)(弘前八幡宮の別当)を陣所とすると、
最勝院
とその末寺の僧侶は弘前八幡宮への社参を禁止され、
最勝院
の梵鐘,ただ、この例はあくまで醍醐の在陣中に限定されていたし、
最勝院
の具申によってなされた極めて限定されたもので,図77は明治二年八月~同四年十二月の神職組織であるが、このふたつを比べると、薬王院(やくおういん)や
最勝院
,社家長には旧
最勝院
社家頭の小野磐根(いわね)(旧名若狭)と長利薩雄(おさりさつお)(旧名薩摩)が任命された
通史編3(近世2)
(神道)
にあっては、弘前城下の形成に当たり、八幡宮(現弘前八幡宮)を大浦城下から移転させて、弘前総鎮守とし、別当
最勝院
,また、社家頭の下の神職は、
最勝院
の支配下にあって「両部神道」に属することになる。,寺社奉行は宝暦七年(一七五七)、山村父子を寺社奉行の直接支配に変更したが、
最勝院
・社家頭の働きかけによって,吉田家は津軽弘前藩のように、
最勝院
・社家頭の下に置く神職組織を奇異なものとしてみていた。,、吉田家からは
最勝院
の存在はみえてこないためであった。
通史編3(近世2)
(大円寺)
明治五年(一八七二)、神仏分離により
最勝院
が大円寺の場所へ移り、大円寺は高伯寺(こうはくじ)(現南津軽郡大鰐町,図224.
最勝院
五重塔
通史編3(近世2)
(弘前八幡宮小野家)
八幡宮の別当
最勝院
は、寺社奉行のもとにあって、領内神職の約九〇パーセントを配下に置き、社家頭を通して神職,宝暦改革や幕末の稽古試しの際、綱紀粛正を進める中で自らの権力強化を企てるが、
最勝院
の支配下にあって徹底,彼らは社家領からの飛脚による下達を組下神職へ廻状にするほか、
最勝院
の呼び出しに付き添って出頭する役目を
資料編3(近世編2)
([口絵])
はる詫状(本文史料232号) 永代相渡田方証文(弘前大学附属図書館蔵小山内文書)
最勝院
五重塔龍舎内,に納入された結縁交名(左)と結縁一族連名願文(下) (弘前市・
最勝院
蔵) 公私自分留書(弘前大学附属図書館蔵弘前八幡宮文書
通史編3(近世2)
(修験)
最勝院
の修験支配のあり方は不明であるが、ここに属する修験は七人いて、その中心は心応院であった。,このことは
最勝院
を通して社家頭に伝えられたが、社家頭は祈祷は依頼する施主である檀那の信仰によるという立場
通史編3(近世2)
(山王宮)
『奥富士物語』は、
最勝院
住職の霊夢に山王大権現が現れたことから再建したとしている。
通史編3(近世2)
(二代信枚)
くまのおくてる)神社)の地が城の鬼門に当たるとして八幡(やわた)村(現中津軽郡岩木町)から移転させ、別当
最勝院
,また、幕府から一三年間預けられていた天台宗の僧慶好院(金勝院)の意見を取り入れ、
最勝院
を大寺とし五山の,五山は真言宗
最勝院
、百沢寺(ひゃくたくじ)、国上寺(こくじょうじ)(現南津軽郡碇ヶ関村)、橋雲寺(きょううんじ
通史編3(近世2)
(醍醐忠敬の弘前転陣)
醍醐総督府参謀の本陣は
最勝院
境内に置かれ、また、八幡宮の神楽殿も休息所として使われることに決まった。,この間、
最勝院
の社務は大善院で執行されることになった。,
最勝院
は、四月に一等銃隊の操練場所の補充地として充てられた寺院境内の一つであった。
通史編3(近世2)
(英学寮)
藩知事津軽承昭は進取の知識を洋学に求め、稽古館の教育を刷新し、
最勝院
に敬応書院を設けて皇・漢・英の三教科
通史編3(近世2)
(藩政後期)
それは社家頭とその上級役職である
最勝院
の権限を強化することを意味した。 ,これは
最勝院
配下の神職に限られているが、大行院支配下でも実施されたことが伝来する書上の控から判明する。,
最勝院
配下の社家頭が、社家隊に他の別当寺院に属する神職も加えて編成し、命令系列の一元化を図っているのは
通史編3(近世2)
(稲荷宮)
津軽一統志」によれば、創建を不詳とし、元和年間(一六一五~二三)に信枚が再建して、社領三石を寄進し、
最勝院
塔頭
通史編3(近世2)
(住吉宮)
この時、寺社奉行直接の取り扱いで唯一神道をもって祀ったことから、両部(りょうぶ)神道に属する
最勝院
・社家頭
通史編3(近世2)
(深沙宮)
天正十四年(一五八六)、為信が参拝し祈願所としたが、翌年別当延命院を追放し、
最勝院
に兼帯させたという。
通史編2(近世1)
(由緒書から)
(たきだんじ)の高僧を津軽に招き、橋雲寺(きょううんじ)・百沢寺(ひゃくたくじ)の開山とし、さらには
最勝院
通史編3(近世2)
(大社の神仏分離)
最勝院
は、弘前八幡宮(現市内八幡町)の別当を免じられ、堂塔は破壊され、明治五年(一八七二)に大円寺(だいえんじ,)(現
最勝院
、市内銅屋町)へ移った。
通史編3(近世2)
(神宮寺)
天正十四年(一五八六)、為信が参拝し祈願所としたが、翌年、領内統一の妨げになるとして別当延命院を追放、真言宗
最勝院
通史編3(近世2)
(熊野宮)
神主長利氏は、八幡宮別当
最勝院
の支配のもと、八幡宮神主小野氏とともに社家頭を務めた。
通史編3(近世2)
(非人小屋の設置と餓死者の処理)
、和徳町(わとくまち)・貞昌寺(ていしょうじ)(現市内新寺町)・大円寺(だいえんじ)(現市内銅屋町、
最勝院
所在地
通史編5(近・現代2)
(弘前城の史跡指定)
弘前城のある弘前公園一帯、長勝寺はじめ禅林三十三ヶ寺一帯、
最勝院
と鏡ヶ池一帯の三地区に対し、市当局は昭和二十七年
資料編3(近世編2)
(協力機関及び協力者一覧(各機関・個人ごとに五十音順、敬称略))
青森県立郷土館(青森県青森市) 熊野奥照神社(青森県弘前市) 国文学研究資料館史料館(東京都品川区)
最勝院
通史編3(近世2)
(協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))
青森県中津軽郡岩木町) 国文学研究資料館史料館 国立公文書館 国立国会図書館 護穀神社(青森県弘前市)
最勝院
通史編3(近世2)
(藩政中期四代信政)
寺社の縁起は、真言宗
最勝院
を除いて、寺社の手で元禄十四年(一七〇一)・十五年に成立したものが残っている,大円寺(現
最勝院
)五重塔は寛文四年(一六六四)から築造されたが、九輪の金物が不足したため、領内奉加をもってこれに
通史編5(近・現代2)
(弘前観光協会の設立)
最勝院
には最北の五重塔があり、長勝寺や八幡宮には国宝建造物がある。
通史編2(近世1)
(町年寄の由緒)
50石 50石 50石 50石 30石 50石 50石 寛文12年 (
最勝院
無住時
通史編3(近世2)
(寺院の動向)
現南津軽郡大鰐(おおわに)町蔵館)の高伯寺(こうはくじ)が無住となり、その跡地に大円寺が移転し、大円寺跡に
最勝院
,その他、
最勝院
のような大寺院ではなく、各村には小さな庵や堂社が多数あった。
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
明治二年(一八六九)、政府の神仏混淆(しんぶつこんこう)廃止の方針から、神輿渡御に
最勝院
と修験の供奉するのを,正徳二年(一七一二)、
最勝院
より山車行列が途中で踊りを披露するので、神輿の帰りが遅くなり神楽の奉納に支障,弘前八幡宮祭礼図②花籠を引く女子 目録を見る 精細画像で見る 図24.弘前八幡宮祭礼図③神主(左)と
最勝院
住職
通史編2(近世1)
(樋口善兵衛の報告書)
そのうち、二〇〇〇枚はすでに受け取っていたが、残りの一万五〇〇〇枚を、弘前の
最勝院
へ求めるように藩士樋口善兵衛
通史編3(近世2)
(先祖供養)
先祖供養 大円寺の五重塔(現
最勝院
五重塔)は寛文四年(一六六四)に建立が始まったが、資金不足で九輪ができず
通史編3(近世2)
(江戸時代末期の建築)
地元の技術者が担当した成果は
最勝院
の五重塔に表れており、工事が著しく遅れた理由の一つに挙げられるかもしれない
通史編3(近世2)
(民衆の動揺)
弘前と大館の間は約三六キロメートルほどの距離だが、八月二十七日には大円寺(だいえんじ)(現
最勝院
)五重塔
通史編3(近世2)
(為信)
また、為信は
最勝院
眼尊に勧められて勝軍地蔵を信仰し、慶長七年(一六〇二)京都の愛宕山を浅瀬石(現黒石市
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
(1) 岩木山三所大権現 延暦十五年 真言宗百沢寺 坂上田村麻呂の奉祭 (2) 八幡太神宮 不詳
最勝院
,(いちべつ)して理解されるように、古代~中世に建立された寺院の総数は五八にも及び、そのうちの百沢寺、
最勝院
,一方、百沢寺、
最勝院
、大円寺、そして高伯寺はいずれも移転を繰り返した寺院である。,』が「往日有二山東腰内村一」(写真139)と伝えるように、もともとは十腰内村に開基されたものであり、
最勝院
,一方の「寺院」の項の
最勝院
も、「初め大浦種里村の一森に在り、文禄中、堀越村に移り、正保四年、今の南溜池
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
また、為信は実父守信の菩提寺として耕春院(こうしゅんいん)(現宗徳寺(そうとくじ))、そのほか、
最勝院
通史編3(近世2)
(江戸時代中期の建築)
江戸時代中期の建築
最勝院
(さいしょういん)の五重塔は、平成三年の台風によって甚大な被害を受けて、解体修理,『重要文化財
最勝院
五重塔(災害復旧)保存修理工事報告書』(一九九五年)によると、その貫は「――解体しない
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
小人町、神明宮社家は若党町、元穢多町は楮町新町となり、誓願寺々中・同門前町・誓願寺前・紺屋町新割町・
最勝院
寺中
通史編2(近世1)
(南溜池の掘削と藩兵の訓練)
(さがらちょう)と新寺町(しんてらまち)の間(現南塘(なんとう)町)に位置し、付近には弘前高等学校、
最勝院
通史編3(近世2)
(掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)
東京大学史料編纂所蔵 190 中津軽郡岩木町 求聞寺 191 国文学研究資料館史料館蔵津軽家文書 192 弘前市
最勝院
蔵,弘前市立博物館蔵 221 弘前市 本行寺 222 弘前市 法立寺 223 弘前市 天満宮 224 弘前市
最勝院
通史編1(古代・中世)
(二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)
表3「弘前中世寺院」 名称 宗派 本寺 開基年次 開基 開山 建立地 現在地 備考
最勝院
真言宗,久渡寺 真言宗
最勝院
未詳 円智 坂本村 (弘前市) 坂元 慈覚大師の聖観音を安置していた。
通史編4(近・現代1)
(組織的活動-化育社)
菊池楯衛の没後、大正九年(一九二〇)四月、旧津軽産業会のメンバーが中心となり、
最勝院
の境内に顕彰碑が建立
通史編4(近・現代1)
(肉食と牛乳)
弘前の牛乳業者の始まりであった舘山の店は、紙漉町から
最勝院
に向かってきた突き当たりであった。
通史編2(近世1)
(寺社政策)
社家においては、惣禄所(そうろくじょ)
最勝院
と社家頭(しゃけがしら)八幡宮小野家・熊野宮長利(おさり)
通史編3(近世2)
(小社の神仏分離)
②産土神や廃社にある仏像は、すべて
最勝院
に持参すること。
通史編4(近・現代1)
(戸籍法と戸籍区)
蔵主丁 大浦町 同細小路 亀甲町 若党丁 春日丁 馬喰丁 座頭町 小人町 神明宮社家 田茂木町 田町
最勝院
寺中
通史編3(近世2)
(盆踊り)
寛政元年(一七八九)には、
最勝院
から町奉行に、門前と禰宜(ねぎ)町で四、五年前より十八日から二十日まで
/ 2ページ