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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編3(近世編2) (●最勝院 五重塔 銅屋町--重要文化財)

●最勝院 五重塔 銅屋町--重要文化財 大円寺六世京海が、津軽統一の過程で戦死した敵味方の者を供養するために,図11 最勝院五重塔平面図 (『重要文化財 最勝院五重塔保存修理工事報告書』より転載) 図,12 最勝院五重塔立面図・断面図 (『重要文化財 最勝院五重塔保存修理工事報告書』より転載) / ●最勝院 五重塔 銅屋町--重要文化財
通史編3(近世2) (大円寺)

五重塔は寛文四年(一六六四)から建立を始め、その後、領内に奉加が認められ、同七年にようやく完成した。,明治五年(一八七二)、神仏分離により最勝院が大円寺の場所へ移り、大円寺は高伯寺(こうはくじ)(現南津軽郡大鰐町,図224.最勝院五重塔
資料編3(近世編2) ([口絵])

はる詫状(本文史料232号) 永代相渡田方証文(弘前大学附属図書館蔵小山内文書) 最勝院五重塔龍舎内,に納入された結縁交名(左)と結縁一族連名願文(下) (弘前市・最勝院蔵) 公私自分留書(弘前大学附属図書館蔵弘前八幡宮文書
通史編3(近世2) (先祖供養)

先祖供養 大円寺の五重塔(現最勝院五重塔)は寛文四年(一六六四)に建立が始まったが、資金不足で九輪ができず
通史編3(近世2) (民衆の動揺)

弘前と大館の間は約三六キロメートルほどの距離だが、八月二十七日には大円寺(だいえんじ)(現最勝院)五重塔,そこで藩は五重塔から碇ヶ関(いかりがせき)方面を見渡す調査をしたところ、近隣の寺社の杉類が邪魔でよく見通
通史編5(近・現代2) (弘前観光協会の設立)

最勝院には最北の五重塔があり、長勝寺や八幡宮には国宝建造物がある。
通史編3(近世2) (江戸時代末期の建築)

地元の技術者が担当した成果は最勝院の五重塔に表れており、工事が著しく遅れた理由の一つに挙げられるかもしれない
通史編3(近世2) (江戸時代中期の建築)

江戸時代中期の建築 最勝院(さいしょういん)の五重塔は、平成三年の台風によって甚大な被害を受けて、解体修理,もとは大円寺(だいえんじ)の五重塔として、明暦二年(一六五六)に着手されたが、なんらかの事情により、その,『重要文化財 最勝院五重塔(災害復旧)保存修理工事報告書』(一九九五年)によると、その貫は「――解体しない
通史編3(近世2) (藩政中期四代信政)

寺社の縁起は、真言宗最勝院を除いて、寺社の手で元禄十四年(一七〇一)・十五年に成立したものが残っている,大円寺(現最勝院)五重塔は寛文四年(一六六四)から築造されたが、九輪の金物が不足したため、領内奉加をもってこれに
通史編2(近世1) (南溜池の掘削と藩兵の訓練)

(さがらちょう)と新寺町(しんてらまち)の間(現南塘(なんとう)町)に位置し、付近には弘前高等学校、最勝院,(さいしょういん)五重塔、弘前大学医学部附属病院などがあり、現在では水が抜かれ、南塘グランドの名称で市民
通史編3(近世2) (居開帳)

最勝院は、享保八年(一七二三)、本地堂・講堂を建立し、国家繁栄の護摩供養を行う計画を立て、完成の際には,があること、本寺御室仁和(おむろにんな)寺(現京都市)に宮門跡(みやもんぜき)が入寺する法要があること、五重塔
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