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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (幕府・朝廷の攻防)

幕府・朝廷の攻防 鳥羽・伏見戦争に勝利した新政府は、この戦争を仕掛けたのは旧幕府軍であり、徳川慶喜の,朝廷への「反状」は明白であるとして、朝敵として慶喜を追討することを布告した。,津軽弘前藩に対しては、十一日に京都において留守居役が呼び出され、朝廷から上京を促す達書(『弘前藩記事』,これは、率兵上京を促すものであったが、それ以上に一刻も早く朝廷側へ与同することを目的とするものであった,さらに一月十五日、朝廷よりの官軍協力命令(資料近世2No.五〇七)が東北諸藩に向けて出された。 / 幕府・朝廷の攻防
通史編1(古代・中世) (大光寺楯の合戦)

大光寺楯の合戦 元弘三年から翌年初めにかけて、ついに大光寺楯を中心に朝廷方と幕府方との間で戦いが始まった,朝廷方合戦奉行は早河禅門(ぜんもん)、それに工藤貞行(さだゆき)・尾張弾正左衛門らがしたがった。
通史編1(古代・中世) (奥州惣奉行制の確立)

頼朝は京都の朝廷に対する鎌倉の軍事権門として、全国の武士を指揮統制する地位に立ったのである。,頼朝は朝廷から陸奥・出羽両国を知行する「奥州羽州地下(じげ)管領」権=奥州総地頭職権を獲得した。  
通史編2(近世1) (公家との関係)

公家との関係 従来、江戸時代における朝廷・公家勢力は、元和元年(一六一五)の「禁中並公家諸法度」で幕府,確かに、幕藩体制下における朝廷・公家の姿にそうした側面があることも事実である。,、最近になって武家社会と公家社会の関係についての研究が盛んになり、その研究の進展につれて、江戸時代の朝廷,そして、天皇や朝廷は権威を有しており、幕府も彼らに掣肘(せいちゅう)を加えながらその権威の独占的利用に,朝廷における実務型官僚といった性格が強かったであろう。
通史編1(古代・中世) (津軽、「日本史」の舞台へ)

義務としては大和政権に対する朝参と毎年の貢納が、それに対する反対給付としては、朝廷よりの饗応・賜物があった,朝貢といっても、実際には蝦夷の貢納品と朝廷よりの賜物とを交換する交易的な側面があり、蝦夷の側にも経済的,えなかったからであるが、そうしたなかで、大和政権から冠位を授けられるということは、他の蝦夷集団から自己を守るために朝廷,こうして両者の利害が一致して、七世紀中ごろには、津軽蝦夷の朝廷への服属が実現したのである。  
通史編3(近世2) (幕末の政情と近衛警備)

嘉永六年(一八五三)を契機に幕末の政情は急展開し、列強に押されて開国の途をたどろうとした幕府は、これを嫌う朝廷,や、朝廷を後押しすることで自己の発言力を増そうとした西南雄藩を中心とする尊皇攘夷(そんのうじょうい)派,将軍徳川慶喜,大政奉還を請う(翌日許可) 12月9日 朝廷,王政復古の大号令。,戊辰戦争開始(~明治2年5月)  そのため、朝廷は諸大名に対して京都守衛を命じ、弘前藩には元治元年(,この警備兵は七月十六日に京都に到着し、即座に藩の京都留守居役から近衛家と朝廷に報告が届けられた。
通史編3(近世2) ((一)衣服)

(一)衣服 武士の礼服としては、将軍の上洛参内(じょうらくさんだい)(京都の朝廷へ挨拶に参上すること,)や将軍宣下(せんげ)(朝廷から将軍に任じられること)など朝廷関係の重い儀礼の場合には、将軍以下一般大名以上
通史編2(近世1) (一 時慶卿記(ときよしきょうき))

慶長期の政治情勢や、豊臣・徳川両氏と朝廷との関係を知るうえで基本的な文献史料。
通史編3(近世2) (奥羽列藩同盟の成立)

奥羽列藩会議が仙台において、鎮撫総督府に内容を告げて盟約をすると前文で述べてあるが、これは、奥羽列藩同盟が朝廷,こうして奥羽諸藩の強い連携と総督府とのつながりを重ねて明示することで、朝廷に離反するものではないと内外
通史編1(古代・中世) (夷島流刑と東夷成敗権)

つまり夷島流刑とは、いったん京都の朝廷内の組織である検非違使庁によって逮捕された「京中強盗・海賊張本」
通史編4(近・現代1) (帰田法の帰結)

夫々分賦、追々移住、諸費等に至まで多分の金穀を発し、切実に世話致候儀、旧知事広く宇内人民の情勢を推し、深く朝廷之御旨趣,に可奉副、誠精之発洩する処に、其告諭書に相見候通の次第に有之、即今本庁に於田地分賦の高並土着人員、朝廷,より種々の浮説を醸し、其実婦女子村居を厭ふの俗情に出候儀、何等の狂惑にて右様妄迷の挙動に立至候や、上は朝廷遠下
通史編1(古代・中世) (蝦夷管領)

による蝦夷沙汰の具体例としては、先に夷島流刑について説明したが、幕府の夷島支配については、頼朝からの朝廷,への奏請と、朝廷による認可がその前提として存在していた。,鎌倉殿の夷島流刑といった行為は、まさに鎌倉殿が京都の朝廷より付与された「東夷成敗権」に基づくものなのであり
通史編1(古代・中世) (藤原保則の登用)

したがって、義をもって徳化し、朝廷の威信を示せば、野心は和らぎ、武力なくして収束できる」と、的確な情勢判断
通史編3(近世2) (旧弘前藩の債務処理)

『津軽承昭公伝』では朝廷よりの貸付金の内、残高六万四〇〇〇両、大坂負債額二一万三四七八両一歩二朱と永(,費目 債務件数 債務額(金) 同(銀) 同(銭) 同(その他) 備 考 1 朝廷の部 4 80,554
通史編3(近世2) (弘前藩の対応)

弘前藩の対応 このように、両極に立った戦争説明と出兵命令が幕府・朝廷の双方から出されたが、そのために,図45.馬上の津軽承昭  しかし、この中では、藩は幕府側にも朝廷側にもつくことを明示してはいなかった
通史編1(古代・中世) (持寄城の合戦)

顕家のもとには、安藤氏が外浜を押領しようとしているとの噂が入っており、安藤氏が朝廷方に協力するかどうかも
通史編3(近世2) (新政府からの借財と藩札の発行)

これに先だって京都留守居西舘孤清(にしだてこせい)が朝廷に国高並の一〇万両の拝借を願い出ているが、これに,も弘前藩の苦しい立場に理解を示したが、それを主張するためには藩主津軽承昭(つぐあきら)が即刻上京して朝廷,その方法は朝廷から貸与された三万両分の太政官札を信用の裏付けとし、発行を弘前の御用達商人武田熊七(くましち
通史編3(近世2) (廃藩置県後の処理)

こうした経緯の後、明治五年十月に朝廷から藩札交換分として金一〇万円が下され、翌六年正月の藩札引換令(ひきかえれい
通史編3(近世2) (松前徳広の領内落去)

十一月二十四日、藩は松前落城の様子と領内の防備状況を朝廷に報告し、官軍の応援を要請した(資料近世2No,甘んじるような振る舞いをすれば、他藩から士風が衰退しているとあなどられ、藩の恥となるばかりではなく、朝廷,青森沿岸に防御のため砲台を築くとともに、十二月九日、朝廷よりミニエー銃一〇〇〇挺を借用し(同前No.五六二,そして、神東太郎が東京へ赴き、朝廷に対して軍艦の調達と進軍の際の先鋒の任命を願い出、大村益次郎と話し合
通史編3(近世2) (藩論の統一)

七月五日に帰藩した西舘は、朝廷からの勤皇遵守の令書(資料近世2No.五三六)を示した。,こうして藩論が統一されたことで、朝廷(政府)を頂点とする勤皇体制が明確となり、藩としての今後の課題は、
通史編3(近世2) (戦争の波紋)

青森商人滝屋善五郎は二月四日の日記に、大坂で徳川慶喜が朝敵になり、蒸気船で江戸へ逃げ去った、譜代大名は残らず朝廷方
通史編1(古代・中世) (治承・寿永内乱下の秀衡)

きつつある頼朝が、東国の主=「東海道の惣官」として、「奥六郡の主」秀衡をその下に位置づけて、陸奥から朝廷,への公式貢納物である貢馬・貢金を、朝廷の勅定を名目に頼朝を経由して行うように命じたもので、秀衡にとっては
通史編3(近世2) (維新期の弘前藩)

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は早い時期に恭順の姿勢をみせていたが、根強い一部の旧幕府勢力の反抗と朝廷側
通史編3(近世2) (神道)

神職が本所吉田家と結びつくことは、天皇・朝廷の官位制度の中で身分を確定することであり、領内においても自己,神職の上京は慶応三年(一八六七)に戊辰戦争で見合わせとなり、明治三年(一八七〇)、明治政府の朝廷の官職受領廃止
通史編3(近世2) (戊辰戦争直後の課題)

戦功として同六月二日、一万石が永世禄として与えられ、箱館戦争の戦功として九月十四日に一万石が三ヵ年限で朝廷
通史編1(古代・中世) (斉明天皇五年の「北征」)

朝廷に与する蝦夷の団結を固め、ここを拠点に、残された北の渡嶋地域の完全な帰順を目指したのである。  
通史編1(古代・中世) (後方羊蹄の所在地)

蝦夷までが大和政権と朝貢関係を結ぶにいたって、「北征」に一応の目途(めど)をつけた比羅夫は、いったん朝廷
通史編3(近世2) (政争の激化と第三次改革)

六月十八日に再び藩知事承昭は告諭を発布したが、その中で自分は朝廷の家臣であり、改革が進まないと官職も取,こうして、弘前藩の職制も朝廷の指示する藩治職制に徹底的に対応した組織に改編されたのである。
通史編1(古代・中世) (安倍氏の滅亡)

近年、朝廷の威光を軽んじ、旧主をないがしろにした態度は、人の道に背くことはなはだしく、道理にも背いている
通史編1(古代・中世) (浪岡城攻略)

山科家は浪岡北畠氏の朝廷取り次ぎ役的な立場にあったともみられる。
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦の実相)

もちろんその経緯は、頼俊が朝廷に提出した延久二年十二月の陸奥国解や、応徳三年の申状(史料四六一)にはまったく,義家は早速事態を朝廷に言上するとともに、頼俊の蝦夷征討戦からの召喚を要求する。,これを受けた朝廷は義家の議を入れ、頼俊の追討使解任の宣旨が発されることとなった。
通史編1(古代・中世) (斉明天皇四年の「北征」)

斉明天皇四年四月条  この斉明四年次の北征の論功行賞として、七月に、征討に協力した二百人余りの多数の蝦夷が朝廷,津軽・渟代郡領(長官)任命を行ったかのように書かれているのは、もちろん阿倍氏家記の誇張で、叙位や任官は朝廷
通史編3(近世2) (京都詰藩士による視察報告)

しかし、山崎の関門を守る津(つ)藩は勅使を迎え、結果として朝廷に帰順を誓った。
通史編3(近世2) (討庄応援部隊の解兵)

つまり、奥羽諸藩の同盟の成立と、これが朝廷に反抗するものではない点を強調したうえで、解兵処置は嘆願書提出
資料編1(古代・中世編) ((1) 南北朝時代の「堀越楯」)

曽我貞光は、津軽曽我氏の嫡流で、鎌倉幕府滅亡後、いちはやく朝廷側につき、元弘三年(一三三三)から翌建武元年
通史編2(近世1) (「津軽一統志」以降の修史事業)

)であることが明記され、さらに遠い先祖をたどれば朝敵長髄彦の兄安日(あび)に行き着き、その後の子孫は朝廷
通史編3(近世2) (大政奉還時の状況)

官位復旧と同藩兵力の入京差し止めを解除するための措置であり、大政奉還には薩長の兵力が必須とされたため、朝廷
通史編1(古代・中世) (泰衡の死)

ことここに至っては、京都の朝廷も頼朝の行動を認めざるを得なかったのである。
通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

じてなされてきた武家への官位授与が、幕府の弱体化、将軍権力の失墜という政治状況によって、申請者が公家に頼り直接朝廷側,朝廷側もこれに対して官位を濫発するようになる。
通史編3(近世2) (軍事情勢の膠着)

西館らにとって、勤皇とは理念的に朝廷を尊崇(そんすう)することであっても、実際にそれが軍事力を動員できるとなると
通史編3(近世2) (近隣諸藩の動向)

図58.箱館奉行所  松前藩では、五稜郭の警備を請け負うなど、朝廷に対して恭順の意を示していたが
通史編1(古代・中世) (粛慎とは何者か)

比羅夫はこのときの粛慎との戦闘の成果として、生羆(しくま)・羆皮を朝廷に持ち帰っている。
通史編1(古代・中世) (陸奥国と出羽国)

写真39 多賀城復元模型 多賀城は「遠の朝廷」と呼ばれた。  
通史編1(古代・中世) (平泉藤原氏)

本州最北端まで朝廷の支配下に置かれ、成立間もない北方の経営には、地域の実情を知る人物が不可欠だった。
通史編2(近世1) (初代為信の動向)

その理由は、大坂の豊臣氏との緊張関係、朝廷対策つまり征夷大将軍宣下、西国の有力外様大名対策、そして江戸城,慶長十二年(一六〇七)二月十二日為信は朝廷に刀五〇腰を献上しており(資料近世1No.二二四)、これが綱広作
通史編3(近世2) (野辺地戦争の動機)

勤皇を表明している弘前藩に攻撃をしかけた時点で、朝廷に対する盛岡藩の罪状が決定しかねないからである。
通史編3(近世2) (各藩使者の来弘)

、両者の戦争経過説明に食い違いがあり、不明な点があることを挙げ、また、すでに大政奉還をした徳川慶喜が朝廷
資料編1(考古編) (〈2〉津軽地方で生産された須恵器)

それ以後古墳時代後期においては、朝廷及び地方豪族の支配の下に各地で生産され、さらに7世紀後半以後10世紀
通史編1(古代・中世) (蝦蛦)

毎年日本の朝廷に入貢しております」 高宗「エミシの国に五穀はあるのか」 使人「ありません。
資料編3(近世編2) (【解説】)

戦端が開かれてすぐに弘前藩は旧幕府・朝廷の両方より参陣を求められるが、時の同藩がとった方針はまず領内を,朝廷は後日、官軍賄い方に係わる費用はこれを償還するとしたが、財政基盤が脆弱な新政府にとってそれは不可能
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