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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (幕府・朝廷の攻防)

勝利した新政府は、この戦争を仕掛けたのは旧幕府軍であり、徳川慶喜の朝廷への「反状」は明白であるとして、朝敵,筆頭に会津(あいづ)藩松平容保(まつだいらかたもり)、桑名(くわな)藩松平定敬(まつだいらさだたか)ら朝敵,そして旧幕府勢に朝敵の名を負わせ、他藩を扇動したにもかかわらず、新政府側には戦利がなかったが、徳川慶喜
通史編1(古代・中世) (系譜認識の変化)

高丸・安倍氏、いずれも、中央からの支配強化に対して激しく抵抗した強烈なイメージに包まれており、まさに朝敵,中央政権に組み込まれるようになると、秋田氏のなかでも「勅免の論理」が振りかざされるようになり、かつての朝敵
通史編3(近世2) (各藩使者の来弘)

つまり、第一に、戦争の口火を切ったことをもって「朝敵」とするが、両者の戦争経過説明に食い違いがあり、不明,とはいえないのではないかという疑惑があること、慶喜は恭順の意を示しており、かつて御所へ向けて発砲した長州藩もいったんは「朝敵,」とされたが、汚名を返上して現在に至っているのに、明白ではない発砲前後の事情をもって徳川慶喜を「朝敵」,じることはできないのではないかということ、そして、内乱が勃発すれば、諸外国が傍観しているわけはないであろうとの予測を根拠として、「朝敵
通史編1(古代・中世) (仲麻呂鬼伝説)

四系統の安藤氏系図のなかでは、この『下国伊駒安陪姓之家譜』が、朝敵のイメージの強い人物をそのままストレート,に系譜のなかに取り入れる傾向が強くみられるが、この系図はまさに朝敵のオンパレードといった感がある。
通史編3(近世2) (藩論の統一)

京都でも弘前藩が朝敵側についたとみる疑いが強く、事態を憂慮した京都留守居役の西舘平馬(にしだてへいま),西舘平馬は、京都で会津・米沢・庄内・仙台藩等、同盟の中心藩が京都役宅を没収されたうえ、入京を禁止され、朝敵,となった事実を告げ、政府の勢いが強大である以上、反政府色の濃くなった同盟に固執することの危険性と朝敵となることの
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

この二人は、朝敵諸藩に対して強硬な態度を通し、会津征討を高圧的に強行した。,しかも前年幕府から江戸市中取り締まりを命じられ、薩摩藩邸を焼き打ちにして朝敵とされた庄内(しょうない)
通史編2(近世1) (「津軽一統志」以降の修史事業)

系譜は表題を「安倍系図」とし、先祖が藤原秀栄(ひでひさ)であることが明記され、さらに遠い先祖をたどれば朝敵長髄彦,津軽家にとっては、先祖が蝦夷の血を引く朝敵であるということなど承認したくない由緒であった。
通史編3(近世2) ((一)箱館戦争の開始)

こうして、東北地方における戦争は奥羽朝敵諸藩の降伏で終了したが、休む間もなく箱館戦争に突入することになったのである
通史編3(近世2) (戦争の波紋)

戦争の波紋 当時の様子について、青森商人滝屋善五郎は二月四日の日記に、大坂で徳川慶喜が朝敵になり、蒸気船
通史編3(近世2) (総督軍の集結)

秋田城下明徳館(めいとくかん)に陣を置いた総督府の中では、会津・庄内討伐に加え、仙台・米沢藩ら新たに朝敵
通史編3(近世2) (庄内征討応援命令)

鳥羽・伏見の戦い後の一月十日に発表された朝敵諸藩の中にも庄内藩の名は挙げられておらず、出兵するには是非
通史編1(古代・中世) (蝦夷か蝦夷の支配者か)

が、自らの先祖による「えぞが島」の安藤氏からの簒奪(さんだつ)、すなわち下剋上を正当化する(安藤氏は朝敵
通史編3(近世2) (戦線の北上)

会津藩とともに朝敵として厳重処罰の矢面に立たされた藩に桑名(くわな)藩があった。
資料編3(近世編2) (【解説】)

その一方で、当初より勤皇色が強かった秋田藩と、反対に戊辰戦争は薩摩・長州藩の私怨から出たもので、朝敵とされた,京都留守居西館平馬が弘前藩が宗家と仰ぐ近衛忠熈(ただひろ)・忠房(ただふさ)父子と岩倉具視の書状を担って帰藩し、朝敵,この戦いで弘前藩は死傷四九名を出して惨敗したが、時に会津・庄内・仙台・米沢藩ら朝敵側は降伏しており、盛岡藩
通史編3(近世2) (松前徳広の領内落去)

のうち北郡・三戸郡・二戸郡の取り締まりを命じられ、二十九日には、津軽承昭が奥州触頭に任命されるとともに、朝敵諸藩,ただ、一度は朝敵ではないかという疑いをかけられた弘前藩にとっては、野辺地(のへじ)戦争の敗戦がいまだ尾
通史編3(近世2) (近隣諸藩の動向)

まず、秋田藩については、先述したように、弘前藩とは連絡が密であったが、京都から仙台藩等が朝敵の対象となった
通史編4(近・現代1) (弘前県から青森県へ)

つまり、維新に勲功のあった大藩は県名に藩名をつけ、朝敵や日和見(ひよりみ)の大藩は藩名をつけず郡名とか
通史編3(近世2) (庄内征討命令をめぐって)

四月十日には、ともに朝敵として征討の対象となった会津藩と庄内藩の間に会庄同盟が結ばれた。
通史編3(近世2) (戦局の展開と兵員の不足化)

奥羽列藩同盟形成を強く主張していた仙台藩や米沢藩、朝敵とされた会津藩や鶴岡藩等は周辺の勤皇諸藩に進攻を
通史編1(古代・中世) (三 北奥宗教界の中世的転回)

云二義顕一、云二泰衡一、非二指朝敵一、只以二私宿意一誅亡之故也。,平泉中尊寺を模した永福寺の修理をめぐって、時頼は頼朝の奥州平定の往事に思いを馳(は)せ、その戦乱は「さしたる朝敵
通史編1(古代・中世) (三 中世寺社の存在形態)

右、当社者、田村将軍造起之処也、雖然燈油料田等令不作河成悉以隠没、而可令御祈禱退転之間、光貞去年奉為朝敵退治
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