• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 77件
辞書ファセット
/ 2ページ
通史編5(近・現代2) (在日朝鮮人問題)

在日朝鮮人問題 戦前から一貫して内地朝鮮人は左翼勢力と同様、官憲にとって視察取締の対象だった。,とくに当時「朝鮮人集団移入労務者」(強制連行された朝鮮人)に対しては、彼らの反動を恐れて優先的に帰国させる,だが概して内地朝鮮人の動向は平静であり、むしろ日本人の方が朝鮮人に対して必要以上に警戒し、暴行を加えようとする,朝鮮人に対する警戒心の強さは、敗戦前まで植民地としていた朝鮮に対する日本人の態度がどのようなものだったかをよく,朝鮮に対しても、日本政府は朝鮮社会主義人民共和国と国交を断絶することになり、在日朝鮮人の帰国を禁じた。 / 在日朝鮮人問題
通史編1(古代・中世) (夷千島王の朝鮮遣使)

夷千島王の朝鮮遣使 文明十四年(一四八二)四月、足利義政の使者栄弘(えいこう)と夷千島王(えぞがちしまのおう,)の使者宮内卿が、朝鮮国王に対して大蔵経の賜与を求めている(史料八五二・写真161)。,写真161 『朝鮮王朝実録』  義政の使者栄弘は、大和東北山中の土豪狭川(さがわ)氏に出自が求められる,さて、夷千島王の使者については、朝鮮側はこの国の存在を知らない上に、宮内卿が朝鮮側からの質問に適切に答,この夷千島王を名乗る人物については、日本と対等の国として発言していること、朝鮮北部国境地方のようすを知 / 夷千島王の朝鮮遣使
通史編3(近世2) (朝鮮出兵への批判)

朝鮮出兵への批判 秀吉の朝鮮出兵に対して、乳井はそれが「武道ノ正義」にかなった行為か否かを基準に判断,朝鮮、明国は日本に何ら危害を加えていない。,このように朝鮮出兵を大義なき侵略行為として位置づけ、「武道の正義」という命題を前面に押し出して、秀吉の / 朝鮮出兵への批判
通史編5(近・現代2) (女性・学童・朝鮮人の動員)

女性・学童・朝鮮人の動員 太平洋戦争の勃発以降、女性や学童の動員も徹底された。,戦争の長期化に伴い慢性的な動員不足が生じたため、政府は植民地としていた朝鮮国内にも徴兵制を導入した。,それを受けて県は弘前市に対し、朝鮮人の労務動員に対する講習会の開催を指示した。,昭和十八年九月十五日、在市朝鮮人の壮丁錬成講習会が弘前市愛成園で開催された。,当時、朝鮮は日本の植民地とされていたため、朝鮮と日本の流通に関しては、輸出入といわず移出入と呼んだ。 / 女性・学童・朝鮮人の動員
通史編5(近・現代2) (朝鮮戦争による特需と商店街)

朝鮮戦争による特需と商店街 日本経済がドッジ・ラインの苦境から脱出することになった契機は、朝鮮戦争の,昭和二十五年(一九五〇)に朝鮮戦争が起こると、戦争の当事者となったアメリカ軍が必要な物資を日本で調達し,朝鮮戦争の勃発から昭和三十年(一九五五)までに、特需の総額は五七三二億円に上った(前掲『日本資本主義の / 朝鮮戦争による特需と商店街
通史編2(近世1) (秀吉による朝鮮出兵の背景)

秀吉による朝鮮出兵の背景 秀吉は、すでに関白就任直後の天正十三年(一五八五)九月に、日本はいうまでもなく,までも平定するつもりであるため、九州はなおさら自己の権力に服さねばならないこと、および九州平定後には朝鮮,である「高麗(こうらい)国」に軍隊を派遣させることを主張し、さらに朝鮮と琉球の服属を要求した。,秀吉は、惣無事令により奥羽の地に至るまで天下統一を実現させ、さらに中国侵略のために朝鮮と琉球をその先導役 / 秀吉による朝鮮出兵の背景
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

一五八七)五月、九州平定を終えた秀吉は、対馬の領主宗義調(そうよししげ)・義智(よしとし)父子に対して朝鮮国王,目的はいうまでもなく中国征服であるが、秀吉はその途中にある朝鮮は対馬の属国と考えており、当然朝鮮は関白,しかし、一方の朝鮮側では宗氏は朝鮮に服従しているとみなし、また、宗氏自身朝鮮との交易で利益を得ており、,命じた(北島万次『豊臣秀吉の朝鮮侵略』一九九五年 吉川弘文館刊)。,文禄二年三月十日、秀吉は朱印状によって名護屋参陣の諸大名に新たに朝鮮出兵の軍編成を公表した。
資料編1(考古編) ((2)鉄生産と鉄製品)

(2)鉄生産と鉄製品 我が国の鉄生産の技術は、5世紀後半以後中国大陸から朝鮮半島を経由して入ったとされている,それ以前の弥生時代においては、朝鮮半島からの製品輸入に依存しているが、この時期の本県での出土例はない。
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

伏見築城と奥羽大名 豊臣秀吉は、文禄二年(一五九三)九月二十三日、奥羽の大名らが朝鮮半島に渡海することなく,これは、西国大名が朝鮮への出兵を命じられたことに代わる奥羽の諸大名に課せられた軍役(ぐんやく)の一種であり,朝鮮侵略と伏見城普請とは、軍役の全国的な分担関係によって成り立っていたのである(中川和明「豊臣政権の城普請,これより先、秋田実季は、文禄元年十一月八日に秀吉から、朝鮮出兵用の軍船である大安宅船(おおあたけぶね),秀吉は奥羽仕置と同時に秋田領の杉に目をつけ、それを朝鮮出兵や政権の中枢である伏見城の普請・作事に利用しようとしており
通史編4(近・現代1) (『曠野の花』に描かれた笹森儀助)

『曠野の花』に描かれた笹森儀助 明治三十二年(一八九九)、東亜同文会の嘱託(しょくたく)として朝鮮へ,これもお国への御奉公ですよ」と大きな袋を座席へゆっくり縛りつけながら、「最初はわし一人で朝鮮にゆき、元山,(ウォンサン)(北朝鮮江原道の港湾都市)の奥で韓国人の教化運動をやっとりましたがナ、そのうち義和団(ぎわだん
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

●朝鮮・成宗二年(文明三・一四七一)、朝鮮国で『海東諸国紀』勅撰。,●朝鮮・成宗七年(文明八・一四七六)七月二十六日、対馬島主宗貞国、朝鮮国に書を遣し、応仁の大乱勃発と奥州,●朝鮮・成宗十三年(文明十四、一四八二)四月九日、「夷千島王遐乂」と称する者、将軍義政の遣使に随行して,朝鮮国に使者を送り、大蔵経を求める。,●朝鮮・成宗十三年(文明十四、一四八二)四月二十五日・五月十二日、朝鮮国政府、「夷千島王遐乂」の使者に
通史編4(近・現代1) (帰郷してのち)

帰郷してのち 朝鮮における教育活動を終えて帰国したとき、笹森はすでに五十七歳だったが、青森市長の職が
通史編1(古代・中世) (西と南の認識)

ただ高麗と表記される朝鮮半島を含むものがあることに注目される。  
通史編1(古代・中世) (人間との共生動物の分布)

典型的な南アジアタイプの遺伝子をもち(甲斐犬・沖縄犬も同様)、中部以西の柴犬や紀州犬・土佐犬などは、逆に朝鮮系
通史編4(近・現代1) (日露開戦と第八師団の派遣)

戦場こそ朝鮮半島や中国大陸であり、青森県はそこから最も遠い位置にあった。,けれども八月になって、朝鮮蔚山(ウルサン)沖の海戦で日本がウラジオストク艦隊を大破し、制海権を奪ってからは
通史編5(近・現代2) (第五十九銀行の復活)

それと同時に、西田の後援者である前朝鮮銀行総裁美濃部俊吉が相談役となり、中央における第五十九銀行の顔役,専門家を招致し、経営管理体制を整備するよう再三にわたって指導されたこともあり、美濃部の推薦で、以前、朝鮮銀行総裁席秘書
通史編4(近・現代1) (日清戦争と郷土部隊の出征)

日清戦争と郷土部隊の出征 明治二十七年(一八九四)、朝鮮で甲午農民戦争が起こり、朝鮮は清国に出兵を要請,日本もこれに対抗する形で軍隊を朝鮮に派遣した。日清両国の緊張は一気に高まり、それは各地に波及した。
通史編1(古代・中世) (北東アジア人の渡来)

彼らは朝鮮半島を経由して(あるいは中国大陸から直接渡ってきた可能性もあるが)北九州にやってきたと推測されるが
通史編5(近・現代2) (米穀の統制と自作農創設)

米穀の統制と自作農創設 昭和十二年(一九三七)、日中戦争開始以降、特に同十四年の朝鮮の干ばつによる凶作,しかし、全国的には「内地」米の不足分は、次第に朝鮮・台湾などの「外地」米の移入で対応するようになった。
通史編3(近世2) (蘭学堂)

他に化学精錬場の設立、朝鮮人参の栽培、火薬の調整等々実に幅広く活躍した。
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

もし、上杉国替時の家康人数書立が、「太閣様御置目」のごとくと称する朝鮮出兵時の軍役に依拠して大名たちに,第一次朝鮮出兵の際、文禄二年(一五九三)三月十日付の豊臣秀吉朱印状(東京帝国大学編纂兼発行『大日本古文書, 浅野家文書』一九〇六年)は、朝鮮における諸大名の配置を、まだ渡海していない大名も含めて(そしてこの中,慶長五・六年の奥羽地方における大名動員の基本方針が、朝鮮出兵時の軍役を踏襲するものであったとするならば
通史編1(古代・中世) (湊安藤氏の誕生)

またこの時代、朝鮮では、日本がアムール川河口対岸のサハリンから東シナ海に及ぶような広大な地域を勢力圏としていると,考えており、北の「蝦夷」問題は明朝のみならず、朝鮮にとっても日本との外交・国境問題であった。
資料編1(考古編) (-古代後期Ⅱ期(9世紀後葉~10世紀前葉)-)

また、10世紀中葉(10世紀第Ⅱ四半期か)には、朝鮮半島の白頭山火山を噴出源とする苫小牧降下火山灰(白頭山火山灰
資料編2(近世編1) (『志学幼弁』十巻)

巻九の「雑問」中の豊臣秀吉の朝鮮出兵と赤穂四十七士への糾弾は痛烈であり、乳井の真骨頂が遺憾無く発揮されている
資料編1(考古編) (2.N2(中期中新世中期-後期中新世前期、15~7Ma))

台湾に延びる宍道褶曲帯が一層明瞭となり、島根半島などが陸化して朝鮮半島と日本との間がほとんど閉塞する。
通史編1(古代・中世) (ふたつの広域火山灰)

と記載された十和田a火山灰、もうひとつは、小川原湖の湖底堆積物から九二三~九三八年冬期の降下とされた朝鮮半島起源
通史編1(古代・中世) (津軽奪還を目指して)

夷千島王遐叉(えぞがちしまのおうかさ)」の使者「宮内卿」と称する者が、将軍足利義政が派遣した日本国王使とともに朝鮮,しかし、使者の宮内卿は夷千島のようすを聞いてもわからないほどの者であり、また朝鮮側に提出した書契は宮内卿
通史編2(近世1) (三 鷹献上と鷹保護)

当時における鷹の最大の供給地としては、松前蝦夷地と奥羽地方が供給地全体の七割近くを占め、対馬を経由した朝鮮鷹
資料編1(考古編) (3.14世紀の様相)

ほかの中国陶磁器としては、「利市」「招財」のスタンプをもつ壺(図9-2・3)があり、朝鮮の製品には三島手
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

名護屋参陣を果たし、それから約一ヵ月過ぎた五月二十五日、南部信直は八戸氏に宛てた書状で(遠野南部家文書)、朝鮮,図22.ネギ畑の中に残る津軽氏陣屋跡(上)と石垣跡(左)  名護屋城は、あくまでも朝鮮半鳥,しかし、奥羽の大名らはそのほとんどが朝鮮への渡海を免除され、名護屋城での長期にわたる在陣を命じられていたのであり,信直は、豊臣政権の朝鮮出兵に賛成しその戦果に諸手を挙げて喜びをあらわにしているが、ここからは豊臣政権の,それほどまでに朝鮮出兵とは、奥羽の諸大名を秀吉の天下に捕らえ込んでいく大きな出来事であった。
通史編2(近世1) (近世大名と大名課役)

全国各地の関所番、幕府からの預人(あずかりにん)の管理、預地の管理、皇族・勅使や公卿の下向時の饗応役、朝鮮通信使
通史編2(近世1) (福島正則の改易)

文禄元年(一五九二)の文禄の役には朝鮮に渡海して、竹島で代官を務め、兵粮輸送などにも携わっている。
通史編5(近・現代2) (鉄道敷設の請願)

その理由としては、岩崎および深浦が朝鮮・満洲ならびにウラジオストクに最短航路の軍事上重要な港であり、またその
通史編5(近・現代2) (インフレとヤミ経済)

しかし、ドッジ・ライン強行により昭和二十四年後半から不況となり、朝鮮戦争の特需も農業県の本県にマイナス
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

それは、すでに文禄元年(一五九二)からの朝鮮出兵へ向けて日程が具体化しており、それに必要な金(きん)や,奥羽諸大名の領地安堵はこの国家的戦略に添って決定されたのであり、安東氏や津軽氏に対してこれ以降朝鮮出兵
通史編2(近世1) (秋田安東実季の名護屋参陣)

秋田安東実季の名護屋参陣 天正十九年から朝鮮出兵へ向けて準備が本格化していたが、翌文禄元年、奥羽・「
資料編1(考古編) (4.15世紀の様相)

また、朝鮮製の粉青沙器が多く見られるようになるのもこの時期である。
通史編1(古代・中世) (阿倍比羅夫の登場)

「北征」などというと、戦闘のイメージが強くなり、一説によれば、やがて朝鮮半島で百済救援のため戦火をあげる,大和政権軍の水軍の予行訓練であったとか、朝鮮半島の利権を失った大和政権が失地回復のために北方の軍事征服
資料編1(考古編) (2.弥生時代の初期稲作について)

図22 稲作伝播のルート  朝鮮半島を経由した稲作は、やがて九州北部に伝来し、その栽培技術の難関
通史編3(近世2) (草創期三代)

調興は朝鮮外交でのいわゆる国書改竄(かいざん)事件の罪により、寛永十二年(一六三五)に津軽へ流刑となった
通史編2(近世1) (知行安堵)

この諸国御前帳は、翌年の朝鮮への出陣と連動し、九月以降の軍役量の基礎となっているものであるという。,奥羽大名の朝鮮出兵の際の軍役は、およそ二〇〇石につき一人(渡海人数はその半分の四〇〇石につき一人)であった
通史編2(近世1) (伏見指月城の普請)

普請当初は隠居所にふさわしく小規模のものであり、また当時朝鮮出兵も重なって、その造営はあまり進んではいなかった
通史編5(近・現代2) (全農青森県連合大会)

これは朝鮮・台湾からの移入米が一〇〇〇万石を突破し、内地の米配給量がかえって増えた一方、大衆の購買力がますます
通史編3(近世2) (「天地の大用」)

この点で注目されるのは、乳井の、豊臣秀吉の朝鮮出兵と赤穂四十七士に対する痛烈な批判である。
通史編1(古代・中世) (食の道具)

ここで使われる陶磁器は、ほぼ一〇〇パーセント中国・朝鮮や日本列島各地から搬入された製品である。
通史編5(近・現代2) (新制中央高校の誕生)

二十五年には朝鮮戦争が勃発して、建築資材の高騰や県財政の逼迫などで、幾度か挫折の危機に見舞われたが、創立五十周年記念協賛会
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

これは文禄元年(一五九二)の朝鮮侵略に際して、本州北端から九州の肥前名護屋へ、当該地域の大名が出陣するのを
通史編2(近世1) (九戸一揆の意義)

できたことにより、秀吉は奥羽・「日の本」までに至る仕置を現実化することができ、これを土台としてこの直後の朝鮮出兵
資料編1(考古編) (第4節 中世・近世の生活用具)

小杯,染付碗・皿・鉢・小杯,赤絵碗・皿(以上中国製陶磁器)/粉青沙器(ふんせいさき)碗・皿・壺(以上朝鮮製陶磁器
通史編5(近・現代2) (ソ連からの引揚げ督促)

しかしこれ以後も難航したのが、ソ連支配下のシベリア・樺太(現サハリン)・千島・北朝鮮からの引揚問題であった
/ 2ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました