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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (朝鮮出兵への批判)

朝鮮出兵への批判 秀吉の朝鮮出兵に対して、乳井はそれが「武道ノ正義」にかなった行為か否かを基準に判断,このように朝鮮出兵を大義なき侵略行為として位置づけ、「武道の正義」という命題を前面に押し出して、秀吉の / 朝鮮出兵への批判
通史編2(近世1) (秀吉による朝鮮出兵の背景)

秀吉による朝鮮出兵の背景 秀吉は、すでに関白就任直後の天正十三年(一五八五)九月に、日本はいうまでもなく / 秀吉による朝鮮出兵の背景
資料編2(近世編1) (『志学幼弁』十巻)

巻九の「雑問」中の豊臣秀吉の朝鮮出兵と赤穂四十七士への糾弾は痛烈であり、乳井の真骨頂が遺憾無く発揮されている
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

これより先、秋田実季は、文禄元年十一月八日に秀吉から、朝鮮出兵用の軍船である大安宅船(おおあたけぶね),秀吉は奥羽仕置と同時に秋田領の杉に目をつけ、それを朝鮮出兵や政権の中枢である伏見城の普請・作事に利用しようとしており
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

もし、上杉国替時の家康人数書立が、「太閣様御置目」のごとくと称する朝鮮出兵時の軍役に依拠して大名たちに,第一次朝鮮出兵の際、文禄二年(一五九三)三月十日付の豊臣秀吉朱印状(東京帝国大学編纂兼発行『大日本古文書,慶長五・六年の奥羽地方における大名動員の基本方針が、朝鮮出兵時の軍役を踏襲するものであったとするならば
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

第一軍約一万数千人が釜山(プサン)に上陸、釜山城次いで東莱城(トンネソン)を攻め落とし、ここに第一次朝鮮出兵,図13.肥前名護屋城跡全景 図14.肥前名護屋城復元模型  この朝鮮出兵に際し伊達政宗,文禄二年三月十日、秀吉は朱印状によって名護屋参陣の諸大名に新たに朝鮮出兵の軍編成を公表した。,津軽為信、南部信直、そして「日の本」領主蠣崎(松前)慶広らの大名衆の軍事動員を実現していたのであり、この朝鮮出兵
通史編2(近世1) (浅利頼平の比内帰還)

それは、すでに文禄元年(一五九二)からの朝鮮出兵へ向けて日程が具体化しており、それに必要な金(きん)や,奥羽諸大名の領地安堵はこの国家的戦略に添って決定されたのであり、安東氏や津軽氏に対してこれ以降朝鮮出兵
通史編2(近世1) (秋田安東実季の名護屋参陣)

秋田安東実季の名護屋参陣 天正十九年から朝鮮出兵へ向けて準備が本格化していたが、翌文禄元年、奥羽・「
通史編2(近世1) (伏見指月城の普請)

普請当初は隠居所にふさわしく小規模のものであり、また当時朝鮮出兵も重なって、その造営はあまり進んではいなかった
通史編3(近世2) (「天地の大用」)

この点で注目されるのは、乳井の、豊臣秀吉の朝鮮出兵と赤穂四十七士に対する痛烈な批判である。
通史編2(近世1) (九戸一揆の意義)

できたことにより、秀吉は奥羽・「日の本」までに至る仕置を現実化することができ、これを土台としてこの直後の朝鮮出兵
通史編2(近世1) (知行安堵)

奥羽大名の朝鮮出兵の際の軍役は、およそ二〇〇石につき一人(渡海人数はその半分の四〇〇石につき一人)であった
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

信直は、豊臣政権の朝鮮出兵に賛成しその戦果に諸手を挙げて喜びをあらわにしているが、ここからは豊臣政権の,それほどまでに朝鮮出兵とは、奥羽の諸大名を秀吉の天下に捕らえ込んでいく大きな出来事であった。
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

前述のように、秋田領内に設定された太閤蔵入地は、まさにこの杉板廻漕のために設定されたものであって、朝鮮出兵
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

隣郡之衆」に編成することにより、太閤蔵入地の代官職を遂行させるとともに、太閤蔵入地からの収益を利用して朝鮮出兵
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