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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(辻番・自身番・木戸番)
武家町と町人町は区画が明確に分けられており、町人町の境には
木戸
が設置され、
木戸
では怪しい者の通行の警戒,図7.自身番屋・
木戸
・
木戸
番屋
木戸
は慶安二年(一六四九)ころの「弘前古御絵図」(弘図津)によれば,
木戸
は朝夕の開閉に念を入れ、盗人などの情報があれば、すぐ
木戸
の通過を厳しく検査しなければならない。,○
木戸
では日が暮れてから提灯を持たない者を通してはならない。,このように、
木戸
には
木戸
番のほかに
木戸
番を補佐する役割かと思われる添番もおり、
木戸
は厳重に管理されていたのである / 辻番・自身番・
木戸
番
通史編2(近世1)
(町方支配)
城下の治安は、町内ごとに
木戸
(きど)を設置することで、夜間の出入りの規制・不審者の詮議を行った。,
木戸
は、慶安期には六一ヵ所、正徳期には四九ヵ所に設置され、番人が常駐するのが二一ヵ所、そのほか小人や雇入,元禄六年(一六九三)には、九三ヵ所の
木戸
(うち二三ヵ所が立詰め)があり、元禄九年(一六九六)には、新たに,黒石町から大浦町へ抜ける道に
木戸
が一ヵ所建てられている(同前No.一一五〇)。,これら
木戸
の維持は、すべて町役をもって充当された。
通史編1(古代・中世)
(東目屋地域に見られる城館跡)
この国吉館跡がこの地域の中心となり、その区域内の東西の端には関所(
木戸
)のような性格をもった城館として,そのようなことから考え、この二つの館跡が関所(
木戸
)のような役割を担っていたと思われる。
通史編3(近世2)
(心応院)
心応院(しんのういん)は、「社堂縁起」(資料近世2No.四一三)によれば、慶安三年(一六五〇)、
木戸
道壺
通史編2(近世1)
(堀越城の構造)
この土塁は、城下町の入口に設けられた防御施設の名残であり、そこには本来、町の入口として
木戸
(きど)が置,この東西の二つの
木戸
に守られた地域こそ、かつての堀越城下町の範囲であった。
通史編4(近・現代1)
(歌舞伎・新派劇)
尾上松鶴一座は『義経千本桜』を見せ、九月の中村芝鶴・実川八百蔵一座の狂言は、『桔梗旗揚』、『嫗山姥廊囃』で、
木戸
通史編2(近世1)
(近世中期の三人の藩主)
における藩政では、飢饉・洪水などで荒廃した領内の立て直しを図ったり、寛保三年(一七四三)には、弘前横町
木戸
際
通史編1(古代・中世)
(阿津賀志山の合戦)
しかしこうした緒戦での戦果にもかかわらず、奥州軍の勢力は強く、大
木戸
の国衡本陣には達することができないまま,九日の夜、頼朝は自ら大軍を率いて出陣することを決め、翌十日早朝には
木戸
口に到着、激戦が繰り広げられた。
通史編1(古代・中世)
(鳥取越えの奇襲と安藤次)
朝霧のなか、突然、大
木戸
の国衡の陣の背後の山上から鬨(とき)の声が挙がり、大量の矢が射掛けられてきたのである
通史編1(古代・中世)
(阿津賀志山の防塁)
阿津賀志山防塁(福島県国見町) 写真95 『扶桑見聞誌記』口五丈 さらに堀の奥の大
木戸
,ここを守る大将軍は泰衡の異母兄西
木戸
太郎国衡で、国衡はこの地を通る当時の幹線道路「奥大道」をふさぐ形で
資料編1(古代・中世編)
(五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)
おそらく、この土塁は、城下町の入口に設けられた防御施設の名残であり、そこには本来、町の入口として
木戸
が,この東西二つの
木戸
に守られた地域こそ、かつての「堀越城下町」の範囲だったに違いない。
通史編4(近・現代1)
(学事奨励と天皇御巡幸)
天皇は
木戸
孝允、岩倉具視の二人を供奉官として教室に臨まれ、熱心に授業を視察され、生徒全員に対し賞として
通史編4(近・現代1)
(明治九年の巡幸)
弘前関係では、武田熊七(金木屋)が
木戸
内閣顧問から褒詞を伝達されている。
通史編1(古代・中世)
(種里城を中心とした城館群)
これら将軍塚と呼ばれる「塚」や「屋敷跡」と呼ばれている場所は、種里城の外郭部分の
木戸
のような役割を持った
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
また、山車も大型化し、塩分町入口の
木戸
を含めて四ヵ所の
木戸
の片側を引き抜いた。
通史編1(古代・中世)
(種里城と町)
そして、その集落の「守り神」とされている「八幡宮」が、実は種里城内に入るための出入り口(
木戸
)の役割も
通史編2(近世1)
(町役)
つ町人には、地子銀(じしぎん)・出人足(だしにんそく)(人足役)・時鐘撞茂合(ときかねつきもやい)・
木戸
番
通史編3(近世2)
(盆踊り)
(4)十三日から十六日の晩までは、
木戸
は九打(午前零時ころ)で閉じる。
通史編1(古代・中世)
(堀越城と城下町)
に街道を挟むように「村隠」という七尺(二・一メートルほど)の土塁が築かれていたことが記された場所は「
木戸
通史編3(近世2)
((二)相撲興行)
元禄人間模様』(二〇〇〇年 角川書店刊)によると、元禄十五年(一七〇二)、大坂橋通りで一〇日間興行された時、
木戸
銭
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
この場所には柵と
木戸
が設けられ、ⅡB・ⅡCを区画していたであろう。
資料編1(考古編)
(〈注及び参考文献一覧…第3章〉)
*219 横浜町教育委員会 『檜木遺跡発掘調査報告書』 1983年 *220 平賀町教育委員会 『
木戸
口遺跡発掘調査報告書
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