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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編3(近世編2) (2 本丸御殿の考察)

図2 弘前城本丸御殿絵図(弘図津・TK526-1)   ○「弘前城本丸御殿絵図(二)」(TK五二六,これら三枚の絵図面には、本丸の南側のいずれにも櫓は描かれていない。,図3 弘前城本丸御殿絵図(弘図津・TK526-2)   ○「弘前城本丸殿中之図」(丙一七-一一九五,図4 弘前城本丸殿中之図(弘図古・丙17-1195)   ○「御本丸建物之図」(TK五二六-三,そろそろ本丸御殿が取り壊されつつあるころのものであろう。 / 2 本丸御殿の考察
資料編1(考古編) (10.弘前城内遺跡)

15年(1610)弘前城が造営され、津軽地方を支配する地点として威容を誇っていたが、その中心部である本丸,の旧天守台下と、東側の三の丸の北部に位置する公園緑地課前の2か所に遺跡があり、前者は藩政時代の本丸造成,(3)調査の経緯  本丸旧天守台下は、本丸の西側下に横たわる蓮池の護岸工事に関連して、昭和55年(1980,また、当城本丸跡の天守閣付近でも、縄文晩期の大洞A式土器と石器が採集されている。,参考文献 弘前市教育委員会『史跡弘前城跡はす池発掘調査報告書』弘前市 1982年3月 福田友之「弘前城本丸跡発見
通史編4(近・現代1) (鷹揚園の命名)

明治四十一年九月、皇太子嘉仁親王殿下(後の大正天皇)が東北地方を行啓、二十三日弘前に御到着、公園に台臨になり、本丸,これを記念すべく、翌四十二年、本丸に「鷹揚園記碑」が建立された。
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

それによれば、     堀越古城 但平城大道筋 一、本丸之内東之方卅間、南廿壱間、西廿間、北五拾弐間半,ニ南北ニ堀有、此堀之広さ拾五間宛、深さ弐間、土手之高さ壱間半宛、但南北二重堀之東西北ニ口有、 一、本丸,それゆえ、ここでは本丸・二の丸などの通称は使わず、曲輪Ⅰ(いわゆる「本丸」)、曲輪Ⅱ(いわゆる「二の丸,一方、曲輪ⅡBは、曲輪Ⅰ(本丸)の東に隣接する広い面積を持った曲輪で、南には曲輪Ⅰ(本丸)へ入るためのもう,一つの虎口E(本丸搦手)が設けられていた。
通史編3(近世2) ((三)住居)

(三)住居 藩主の住居は在国の際は弘前城本丸御殿(藩庁および生活の場)であり、参勤交代により在府の場合,弘前城本丸御殿の間取りなど居館の形式は、寛文~貞享期(一六六一~八八)の改造や拡張によって確立し固定したとみられる,ここでは「弘前城本丸殿中図」(弘図古)によって、弘前城本丸御殿をみることにしたい(図87参照)。,図87.弘前城本丸御殿平面図 ①玄関および御用所 ②公式の儀式などに用いられる表座敷 ③藩主,このほかの建物としては、本丸の入口に門と番所、御玄関の東側の石垣ぎわに供待所(ともまちしょ)(来客の供人
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

立地を概観すると、城の西には駒越川(こまごしがわ)(岩木川)が流れ、本丸の西下を岩木川(西堀)が流れ、,次いで、弘前城そのものをみると、本丸にはすでに天守閣はなく、本丸の南西隅に「天主ノ跡」という記載がみえる,本丸には七棟の建物が描かれ、本丸御殿を示している。,本丸の北には小丸があり、ここには三棟の建物がみえる。,本丸西下にある西の郭には、南西端に未申櫓が描かれているが、これは現存しない。
通史編4(近・現代1) (招魂祭)

招魂祭 これまで上白銀町の招魂社で行われていた招魂祭は、明治三十二年から公園本丸に祭壇を設け、靖国神社,まず、祭壇は、本丸の西寄りに東面して設けられ、正面に「忠肝義胆」と大書した額面を掲げ、その前に大アーチ,拝殿の南側には祭事係と神官や僧侶、北側には遺族の控所があり、来賓控室は本丸南端の延年楼支店に設けている
通史編4(近・現代1) (藩祖の銅像)

このときの記念事業として藩祖為信の銅像建立を決定したが、四十二年一月に完成して到着、二十一日銅像が公園本丸,写真121 本丸の為信公銅像 (明治42年建設当時)  銅像は外崎覚の考証に基づき、彫刻家山崎朝雲
資料編3(近世編2) ([付図])

[付図] 弘前城本丸御殿絵図(寛文十三年)   津軽和徳町周辺絵図(文政十三年)   本所御上屋敷惣御絵図
通史編3(近世2) (瓦の利用)

寛文十三年(一六七三)の「御本丸御絵図」(弘図津)には、本丸の北側三ヵ所、西側二ヵ所および御殿に接して,「国日記」によると、本城(本丸)の御殿と各蔵、二・三・四各丸の城門計五ヵ所、二の丸瓦馬屋・太鼓櫓・腰掛,城内の場合、本丸では一部の建造物の屋根周りや棟瓦に使用された。,図153.弘前城内の瓦  なお、本丸の隅櫓(戌亥・辰巳)については、屋根葺材の記述は認められない,利用は、享保年間よりしだいに銅瓦や栩葺き・こけら葺き等に代えられ、明和六年(一七六九)六月十一日条の本丸金蔵屋根葺
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」(弘前市立図書館蔵八木橋文庫、以下「大道小道之帳」と略称)に「八幡古城」として紹介され、本丸,さらに沼舘は、本丸の北、後長根川との間に「北ノ郭」があった可能性もあげているが、ここは現在水田となっている,第二は、虎口FからEを経て城内に入ると、すぐに主曲輪(本丸)に達してしまうことで、そのような場所を「大手,曲輪Ⅱから曲輪I(本丸)に入るには虎口Cを通る。,この曲輪Ⅳも曲輪I(本丸)と同じく、土塁C、水堀h4が巡っている。
資料編1(古代・中世編) (一 堀越城の立地と現状)

、先に指定されていた弘前城跡と合わせて「津軽氏城跡」として国史跡に指定、保存・整備計画が立てられて、本丸,堀越城跡航空写真 (南西側より撮影・平成4年) 南方より曲輪I(本丸)を望む 曲輪,I(本丸)の虎口D部分 図24 堀越城跡位置図 堀越城跡の航空写真(昭和20年代撮影
通史編2(近世1) (九戸一揆の鎮圧)

九戸城は本丸・二の丸・三の丸・松の丸・石沢館・若狭(わかさ)館によって構成され馬淵川(まべちがわ)に臨,この九戸城の包囲軍は、仕置奉行の蒲生氏郷が村松に、浅野長吉は城の本丸より北の八幡社に、堀尾吉晴はその隣,また城に残された九戸方の兵は本丸から二の丸に移され、その二の丸に仕置軍は容赦なく火をかけ、九戸方の兵はすべてせん
通史編4(近・現代1) (公園の払い下げ)

公園の払い下げ そのころ、天守閣付近の石垣が崩れて、修理のため天守閣を本丸入り口左に移さねばならなかったのを,市ではこれを引き受けるとともに、開設当時、公園本丸に一時的な露店のつもりで許可したものが永住的な料理店,同月、内山覚弥の尽力によって実現した桜の植栽が本丸・二の丸・西の郭一帯に行われた。
資料編1(古代・中世編) (二 大浦城の歴史)

また、弘前市内の誓願寺にある応安四年(一三七一)の板碑は、大浦城跡の本丸石垣より出土したものと伝えられ,(中村良之進『陸奥古碑集』)、『新撰陸奥国誌』にも「本丸の跡、(中略)東に虎口あり石垣残る」と記される,大浦城では、少なくとも本丸の虎口部分には石垣が設けられていたわけで、その際、領内の石碑などが転用された
通史編4(近・現代1) (荒城の桜)

絶えず公園美化のため桜の植樹を主張し続け、この努力が実って、菊池の植栽から二〇年を経た明治三十六年、本丸,さらに、外堀一帯や本丸下西濠へも数百本の桜の若木が植えられ、城内および外濠の桜は二〇〇〇本を数えるほどになっていった
通史編3(近世2) ([口絵])

[口絵] 口絵1 弘前城本丸御殿絵図 寛文13年 口絵2 旧弘前城杉戸唐子図 口絵
通史編2(近世1) (大浦城の構造)

大浦城は、段階を経て整備・拡張されたが、最終段階では本丸・二の丸・三の丸・西の丸・西の郭・南郭の六つの,二の丸に入る虎口には「枡形(ますがた)虎口」というかなり発達した段階の築城技術が取り入れられ、さらに本丸
通史編2(近世1) (堀越城の限界性)

時、為信が関ヶ原で使用する武器・矢・弾薬等を検査するため城内の櫓(やぐら)にいたところ、尾崎ら三人が本丸,この記述によれば、堀越城内に重臣尾崎らの屋敷があったこと、武器・弾薬を置く櫓が本丸にあったことがわかる
資料編1(考古編) (〈地域的な差〉)

根城本丸における竪穴建物跡(SI62)の床面から検出された、鎧や釘・銭貨・瓦質土器を参考までに提示しておく,図3 根城本丸から検出された竪穴建物跡と出土遺物  浪岡城跡北館(図4参照)では、拙稿*38による
通史編4(近・現代1) (公園開設)

第二、本丸ハ高陽ノ地ニシテ遠望ニ適スルヲ以テ、雑草ヲ除キ花樹草ヲ培植シ、散歩眺望ノ地トスヘシ。,こうして二十八年五月二十日に公園は開園され、翌二十一日に本丸で開園式を行った。,まず、七福楼というのが初めで、六月には橡ノ木の料亭酔月楼が本丸に支店を設け、また、一弘亭でも「東京そば
資料編3(近世編2) (3 現存する天守・城門等の考察)

文化財配置図   ○天守--重要文化財  天守は、津軽二代信枚が当初に築城したときは五層であり、本丸西南隅,する東南の二方向には、一階と二階とに張り出しを設け、それぞれに切妻造屋根を架けて変化を付けているが、本丸側,本丸東南に建つ独立天守で、東北地方に残る唯一の遺構であり、江戸時代後期の天守建築の典型とされている。
資料編1(古代・中世編) ([口絵])

豊臣秀吉判物(本文史料一一〇〇号) 堀越城跡全景(上空南東から) 堀越城 曲輪Ⅰ(本丸
通史編3(近世2) ((一)衣服)

津軽弘前藩八代藩主津軽信明(のぶはる)は、天明五年(一七八五)元旦、弘前城本丸御殿において恒例の諸行事,して、神棚と先祖を祀る霊殿を拝み、さらに上の廊下より岩木山を拝礼している(「在国日記」国史津、弘前城本丸御殿平面図
通史編5(近・現代2) (スキーの普及と大会)

公園スキー場は本丸入口の鶴ノ松、亀ノ石の前の斜面を濠に向かって滑降するもので、氷の張った濠に積もった雪
通史編1(古代・中世) (堀越城と城下町)

堀越城は「本丸」を中心として、六つの曲輪から構成されており、築城技法でみると、堀と土塁の組合わせによる,また城の普請においても、曲輪が「本丸」を中心として同心円状に曲輪が配置されるなど、近世的な築城技法によって,この町屋2は、曲輪Ⅰの本丸に堀を挾んで隣接するという非常に重要な場所に当たっており、防御的な視点からみると
資料編3(近世編2) (1 弘前城の歴史)

ここでは、弘前城の本丸居館について知りうる資料として、五枚の絵図を写真とともに掲げ、各々解説を付した。
通史編2(近世1) (福島正則の改易)

福島正則画像  しかし、元和五年(一六一九)六月二日、先に広島城を無届けで修築したことをとがめられ、本丸
通史編3(近世2) (城門番所の警備)

内東門(現存)・内北門(賀田門)、西の郭の埋門(うずみもん)、内北の郭の東門、三の丸の外東門(現存)、本丸
通史編1(古代・中世) (大浦城と大浦城下町)

図63 大浦城と大浦城下町と街道 写真204 大浦城跡航空写真  まず、大浦城は本丸・,その中で、本丸と二の丸部分には「桝形虎口(ますがたこぐち)」と呼ばれる近世城郭築城技法による虎口(出入口
資料編1(古代・中世編) (五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)

都市に典型的な「短冊型地割」が、羽州街道に沿って、①曲輪Ⅳの前川を挾んだ対岸の地区(町Ⅰ)、②曲輪Ⅰ(本丸,前川や水濠(現在は用水路)によって囲まれた曲輪状の地域であり、しかも、それぞれ城の大手虎口や曲輪Ⅰ(本丸
通史編2(近世1) (信枚の築城)

しかし弘前城で石垣が組まれたのは本丸だけであった。
通史編4(近・現代1) (大正期観桜会あれこれ)

百人余りが制服・制帽で隊列を組み、デカンショ節を歌いながら市中を練り歩き、本丸に押しかけると、めいめい
資料編1(古代・中世編) (一 大浦城の立地と現状)

そのため、近年まで保存がよく、比較的明瞭に堀や土塁跡を残していたが、岩木町立津軽中学校(旧本丸・二の丸跡
通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

寛永末年ころ作成されたとみられる「津軽弘前城之絵図」によれば、城内は本丸・内北の郭・西の郭を除いては「,この状況は延宝四年(一六七六)に作成された「御本丸・二・三・四之御郭図」の段階でもあまり変化がなく、二
通史編3(近世2) (勤務の状況)

坊主(ぼうず)(本丸御殿内の給仕その他の雑役に従事)は御広間二人、御用所三人、廊下二人、浪ノ間御次ノ間二人,奥坊主(おくぼうず)・茶道(ちゃどう)坊主など(これらは本丸御殿内の給仕、その他の雑役を担当)は指示によって
通史編3(近世2) (能楽)

四代藩主信政は、延宝二年(一六七四)八月二十一日に弘前城本丸書院前の白砂に能舞台を作らせた(「国日記」,図32.弘前城本丸御殿絵図の能舞台  翌三日には、信政の生母久祥院と三代藩主信義の側室長泉院・全久院
通史編3(近世2) (焼成について)

延宝八年(一六八〇)四月三日、四代藩主信政の九月帰国を控え、本城(本丸)に新築する金蔵(三間〈約五・四
通史編2(近世1) (伏見指月城の普請)

これが木幡山の山上を本丸とする新しい伏見城、すなわち伏見木幡山城である(小和田哲男『城と秀吉』一九九六年
通史編4(近・現代1) (呑気(のんき)倶楽部)

また、この年、本丸には千数百燭ものアーク灯が点じられ、夜桜見物もにぎわった。
通史編4(近・現代1) (城跡の荒廃)

しかし、弘前藩は維新の際勤王派に属したために、処置も穏やかで、本丸と武芸所を取り壊しただけで、城門や矢倉
通史編4(近・現代1) (軍都以前の弘前市)

兵員は旧弘前藩士から募集し、弘前城の本丸が分営とされた。
通史編4(近・現代1) (藩祖三百年祭)

九日夜は花火打ち揚げ、十日昼は弘前公園本丸に高岡神社の遙拝所を設け、四の郭には余興や見世物があり、公園内
通史編4(近・現代1) (弘前観桜会の幕開け)

このため本丸では、毎夜遅くまで各町会から踊り子が出て花見踊りを続け、活動写真も映写され、花見の宴を張る
通史編4(近・現代1) (護憲を巡る動き)

山本権兵衛内閣との妥協に反対して脱党し、政友倶楽部を組織した菊池武徳らの演説会があり、十月十四日弘前公園本丸
通史編3(近世2) ((二)食事)

津軽弘前藩では、日常の藩主の食事は弘前城本丸御殿の台所や料理の間で作られ、膳番が藩主の食べる朝・昼・暮
通史編2(近世1) (堀越城の構造)

堀越城の縄張りは、本丸を中心として、それを取り囲む形で複数の曲輪が配置され、城の中心部に達するにはいくつもの
通史編4(近・現代1) ([口絵])

58 大演習に参加した飛行機 †観桜会花ひらく† 口絵59 芸妓行列 口絵60 本丸
資料編1(考古編) (第7節 出土遺物と生活)

同じく根城跡岡前館では土壙埋葬が数例存在し、本丸では幼児骨だけを埋葬するという特殊な事例が存在する。
通史編3(近世2) (宝暦期の城下)

築城当初から本丸には藩主家、二の丸には家老などの上級家臣、三の丸には中級家臣が住んでおり、城内町を形成
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