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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編4(近・現代1) (請願建白文の審議)

出席したのは、本多庸一、笹森要蔵(鎮西学院長笹森宇一郎や国務大臣で東奥義塾塾長だった笹森順造の父)、石岡三郎,もっとも、この建白文は「青森県陸奥国八郡有志人民三千人の委員本多庸一等」という書き出しであったが、元老院,に提出された建白文は「三千人の委員」が「二十一名の総代」となり、「本多庸一、中市稲太郎等」と変わっている
通史編4(近・現代1) ([付図])

14年〉 5 文明開化〈明治10年頃〉ジョン・イングと教え子 6 自由民権運動~本多庸一,「国会開設建言書」〈明治13年〉 7 弘前事件~本多庸一の弁明書〈明治15年〉 8,13年〉   【掲載史料の所蔵および典拠】 6 明治13年公文附録元老院之部二「青森県士族本多庸一等建白国会開設一件,」独立行政法人国立公文書館蔵 7 樺山資紀文書46「本多庸一答申書」国立国会図書館蔵 8 弘前市蔵
通史編4(近・現代1) (蝦夷の月)

蝦夷の月 本多庸一が旧藩主津軽家へ提出した紛紜に対する弁明の答申書の第二項に「国会開設請願ノ趣意」があり,感慨の意を洩らせしことを思い出で 或は今熊伏す野道の 秋の夜の月と観つつあり抔 独りごちて笑ひし」(本多庸一先生遺稿,故郷を政治によって救おうとした自由民権家本多庸一に希望を与えてくれたのは山田秀典だった。
通史編4(近・現代1) (生い立ち)

重治は伝道者を志し、恩師本多庸一の青山学院に学んだが、明治二十四年の神学部卒業試験に合格できず退校となった,しかし、本多庸一の計らいで伝道の仮免状をもらって北海道八雲に派遣された。,十二月の寒空に外套も着ていない重治を見て、本多庸一は自分の着ていた外套を脱いで渡した。  
通史編4(近・現代1) (保守派との合同団結)

保守派との合同団結 明治十四年十月二日、本多庸一は野呂源太辞任による中津軽郡県会議員に当選した。,東郡館山漸之進、中郡笹森儀助、北郡工藤行幹(ゆきもと)、下北郡一町田大江、西郡蒲田昌清、県会議員赤石行三、同本多庸一
通史編4(近・現代1) (キリスト教)

キリスト教 弘前はメソジスト派合同の際に初代監督となった本多庸一をはじめ、数々のキリスト者を送り出した,マックレーに比べると彼のキリスト教布教は成果を上げたことになるが、その背景には、弘前でその人柄を広く慕われた本多庸一,本多庸一が横浜公会のジェームズ・バラの下で洗礼を受けていたことから、最初は公会としてのスタートであった,(明治九年一月十五日付バラ宛本多庸一英文書簡、横浜開港資料館所蔵資料)  所属教派の問題も、結局は東奥義塾
通史編4(近・現代1) (後藤象二郎の青森県遊説)

回天社と菊池九郎・長尾義連・田中耕一・村谷有秀ら一五人、大館への迎人は榊喜洋芽、村谷有秀で、最高責任者は本多庸一,柾木座(のちの東宝映画館)で政談演説会を開いたが、聴衆二千五、六百人、場内立錐の余地のない盛会で、弁士に本多庸一
通史編5(近・現代2) (伊東重)

伊東は『養生新論』を陸羯南や本多庸一に贈ったところ、ちょうど羯南が新聞『日本』紙上で国際論を展開して条約改正運動,を牽引していたときで、全く同感と言って、より大冊にすることを求め、本多庸一も賛同して『青山評論』で批評
通史編4(近・現代1) ([口絵])

岩木橋と岩木山 †東奥義塾と自由民権運動† 口絵3 東奥義塾校舎 口絵4 塾長本多庸一,口絵5 外国人教師ジョン・イングを囲んで 口絵6 自由民権運動に関する本多庸一答申書
通史編4(近・現代1) (東奥共同会の設立)

東奥共同会の設立 明治十五年(一八八二)十一月、青森県会議員で東奥義塾塾長の本多庸一は旧藩主の津軽家,写真8 本多庸一 「封建の世は知らず、今日は全国一家の如く三千五百万同胞を称するの時なり 文運日,東奥共同会の主要メンバーは、菊池九郎、本多庸一のほか榊喜洋芽(さかききよめ)、田中耕一、伴野雄七郎(とものゆうしちろう
通史編4(近・現代1) (東洋宣教会ホーリネス教会)

明治四十年七月二十六日帰国したが、留守中にメソジスト三派が合同して日本メソジスト教会となり、本多庸一が,翌四十五年三月二十六日、中田の恩師本多庸一が長崎で死去した。
通史編4(近・現代1) (在府町の偉人たち)

維新の後、八〇戸の在府町から、明治キリスト教の指導者本多庸一、『南島探験』の笹森儀助、大倉喜八郎と組んで
通史編5(近・現代2) (昭和初期の弘前女学校)

初代本多庸一を除いては、外人女性校長によって学校経営がなされていたが、日本人校長の出現は一つの転機ともなった
通史編4(近・現代1) (県内遊説)

十三年二月七日、運動推進のため東奥義塾に有志百余が集まり、委員として本多庸一・菊池九郎・赤石行三・八木沢彰六郎,時の流れの中になお識見、人望を失わない旧藩重臣杉山龍江を首領に、その下に参謀長として工藤行幹、参謀に本多庸一
通史編4(近・現代1) (女子教育)

弘前における女子の私学教育は、その後函館に開かれた遺愛女学校、その分校として明治十九年に本多庸一等によって
通史編5(近・現代2) (山鹿学の影響)

明治キリスト教の大指導者本多庸一にしろ、大正二年(一九一三)に弘前教会堂に建てられた碑文で「東奥に生れし
通史編4(近・現代1) (弘前の紛紜の始まり)

檄文は本多庸一が草稿を練った。,合同問題は、本多庸一が大道寺議長や郡吏員に対して申し入れたことを契機として山田県令が乗り出したのだから
通史編4(近・現代1) (弘前女学校の創設)

そこで、牧師本多庸一は、子女を函館に遊学させている事実から弘前においても容易に募集できると考え、元寺町
通史編4(近・現代1) (私学東奥義塾の終焉-公立への移管)

一時金一万円を交付する代わり年額三〇〇〇円の補助金は停止され、キリスト教との関連を厳しく追及された塾長本多庸一
通史編5(近・現代2) (在府町に生まれる)

在府町には、後に親交を結ぶことになる探検家・笹森儀助(ささもりぎすけ)と、東奥義塾時代に師弟関係となる本多庸一
通史編4(近・現代1) (不平の源流)

工藤行幹・櫛引英八・長尾義連・館山漸之進・赤石行三の名を挙げ、密議に与(あずか)り、気脈を通ずる者として、本多庸一
通史編4(近・現代1) (伝道の日々)

基督教青年会同盟委員長の本多庸一は、福音同盟会の小崎弘道とともに従軍布教師または軍隊慰問師を派遣することについて
通史編4(近・現代1) (第一回通常県会)

それにしても、十三年三月の本多庸一らの国会開設の建白書は、青森県下の有志三千人の代表と唱え、二十二年五月
通史編4(近・現代1) (草創期の外国人教師たち)

同地での四年間の宣教活動の後、帰国途中に立ち寄った横浜で東奥義塾関係者と出会い、教師として本多庸一とともに,イングに寄り添うようにして弘前での活動を支えた本多庸一は、後に渡米してイングと再会し、その喜びを、「互
通史編3(近世2) (弘前の民衆)

それでも明治十年代の政界を主導していったのは大道寺繁禎(しげよし)・本多庸一(よういち)・菊池九郎・笹森儀助
通史編4(近・現代1) (掲載写真・図版の典拠・所蔵一覧)

口絵6 樺山資紀文書46「本多庸一答申書」国立国会図書館蔵 口絵12 『鷹ケ丘城』(大正4年)弘前市立図書館蔵
通史編4(近・現代1) (新編 弘前市史 通史編4(近・現代1) 目次)

  一 弘前不平士族 …………………………………………………  30   二 津軽の自由民権運動-本多庸一
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