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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (日雇と松前稼ぎ)

内訳は本家が一一軒、借家が一五軒で借家の方が多いが、本家の二〇パーセント近くが日雇で生計を立てているのは,本家は本来家業を持っていたはずであるが、何らかの理由で家業をやめたものといえる。,本家・借家とも、恐らく日雇先は弘前城下であったものと推定される。  ,「和徳町人別帳」は和徳町全体のデータを記載したものではないが、記載部分によればこの町域には本家が七五軒,本家で日雇の者は八軒で多くなく、借家で日雇のものは一四軒である。
通史編2(近世1) (黒石津軽家の大名昇格)

黒石津軽家の大名昇格 文化六年(一八〇九)四月、本家が一〇万石になって三ヵ月後、幕臣で四〇〇〇石の黒石津軽家,は、本家弘前津軽家の強力な運動によって、一万石に高直しされ、大名に昇格した。,本家に入る貢米のうち、六〇〇〇石を足し与えて、表高(おもてだか)を一万石の大名に上昇させれば、蝦夷地と,大名の分限である一万石にするために、本家の蔵米を充当しようとしたのは、幕府の加増を受けて大名に昇格することが
通史編2(近世1) (弘前藩の副藩主)

(一六五六)、津軽弘前藩主四代信政の襲封(しゅうほう)に伴い、その後見役として発足した黒石津軽家は、本家名代,ただし、安政二年の例のように、弘前藩主名代としての第一優先順位は津軽本家の世子(せいし)であり、それが
通史編3(近世2) (農兵の組織)

前田家に伝わる話では、農兵の徴発に際して本家が尻込みをし、時の当主が自分の姉に婿をもらって、かわりに農兵,これが万助(前田家では紋之助としている)であり、彼は戦後田六〇人役(四町歩)を本家から分地され、別家を,万助にしろ小作人にしろ、本家との関係は養弟であり、養子ではない。,養子にすると相続問題が生じるからであろうが、農兵への代償として四町歩の耕地を割くのは本家としても痛手であったにちがいない
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

黒石津軽家とその分家は、本家である弘前津軽家に発給された領知宛行状にその領知高が明記されている。,これは黒石津軽家(およびその分家)が成立する際、幕府からの承認のもとに本家から知行地を分封された形(内分分知,この場合分知した土地には本家の領主権がなお及んでおり、かつ分家が別途に朱印状の交付を受けることはない。,黒石津軽家の左京信敏分四〇〇〇石、黒石津軽家の分家である一学信純(いちがくのぶずみ)家分一〇〇〇石とも本家,この記載の形式は、文化六年(一八〇九)、黒石津軽家が本家から六〇〇〇石の蔵米を加えられて一万石の大名となった
通史編2(近世1) (信政の襲封と黒石分知)

この分知配当は、幕府の命によって本家の所領を分割配当された「内分」であり、信英の領地はあくまでも津軽領
通史編3(近世2) (塗師の知恵が支えた漆芸)

本家にて青海塗をよくす」と書かれるまでに発達したもので、唐塗や青海波塗などの技法は津軽における漆工芸の
通史編5(近・現代2) (指導者・石岡彦一)

清水村の無産農民も今では自分の苦しい事と資本家、地主の為めに苦められつつある事に目はさめ、全農の支部でなければ
通史編4(近・現代1) (地主・小作関係)

特に、未開拓地の北海道では資本家的及び小作制大地主が土地を所有し、後者においては府県からの開拓農民が多数移住
通史編4(近・現代1) (北部無産社)

このときの藤田謙一に資本家の本質を見、労働運動に走ったと後年述懐していた。
通史編5(近・現代2) (虚弱な少年時代)

同級に八戸市出身の脚本家・北村小松(きたむらこまつ)がいた。十年、今井うらと結婚。
通史編4(近・現代1) (工業建設の意見)

ハサルヘカラス、是等ニ就キ精細ナル調査試験ヲ遂ゲ、無名ニシテ無限ノ宝庫ヲ探ネ、コレヲ発表シ、コレヲ広告シ、大ニ資本家及経営者,タリ、若シ夫レ誘致ノ策ニ至リテハ 一、調査機関ヲ設置スルコト 二、施業上利便ヲ与フルコト 三、資本家
通史編5(近・現代2) (東北振興)

寒地国立園芸試験場の設置、雪害による地方税の負担軽減、金融における低金利促進、中小商工業者への資金融資、中央資本家
通史編2(近世1) (乳井貢と先行思想)

天和元年(一六八一)家老となって津軽大学と称して国政を預かり、代々その子孫は津軽家に仕え、津軽山鹿家の本家
通史編5(近・現代2) (復員・引揚げ対策の開始)

だが、いざ軍需物資の処分が開始されると、その目的が大資本家への大量払い下げであることが判明し、国民の非難
通史編3(近世2) (信政の教養)

天和元年(一六八一)、家老となって津軽大学と称して国政を預かり、代々その子孫は津軽侯に仕え、津軽山鹿家の本家
通史編5(近・現代2) (東門会の佐藤正三)

写真80 満州へ出動する第8師団  一部資本家や政党政治屋の為めに我等国民の国家を左右されるならば
通史編4(近・現代1) (盗伐問題と師団の設置)

中田平次郎(陸羯南の本家)村長の大正三年九月の事で、陸橋につけられた「豊季橋」の「豊」の字がせつない。
通史編2(近世1) (「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)

江戸城中で達せられた津軽黒石藩主津軽順徳(つがるゆきのり)(順承(ゆきつぐ)、一八〇〇~一八六五)の本家弘前津軽家相続
通史編2(近世1) (土着対象地と在宅分布)

 代 2人  庄 屋 11人  五人組 29人  在宅者 14軒  戸 数 782軒  内,本家
資料編3(近世編2) (二 町人の住居)

図46 K家住宅1階・2階平面図 ○S家住宅  浜の町西二丁目  駒越の魚屋であった本家
通史編1(古代・中世) (南部晴政の登場と一族間の対立)

このように強大な勢力を幕府によって認められていた九戸氏のほかにも、室町中期まで本家と並ぶ勢力を保っていた
通史編3(近世2) (一〇代信順の治世)

であったが、無嗣のため黒石藩主九代津軽順徳(ゆきのり)(後に順承(ゆきつぐ))が養子に迎えられ、津軽本家
通史編4(近・現代1) (りんご生産の展開と農業振興)

の振興のために、集落内での共同栽培(「苹果栽培組合規約」、資料近・現代1No.四一八)や東京在住の資本家
通史編4(近・現代1) ((一)北洋の出稼ぎ農民たち)

北の海には資本家の懐中を肥やす魚の大群と、吾々を病?死?
通史編4(近・現代1) (外崎嘉七と島善鄰-りんごの神様と恩人)

一九二四)は、安政六年、清水村樹木(現弘前市)の農業外崎長八の三男として生まれ、明治十二年(一八七九)、本家外崎長七
通史編5(近・現代2) (昭和弘前市民の一側面)

たちが五・一五事件や二・二六事件を起こした要因の一つも、東北地方の貧しい農山村社会が、地主・豪商・資本家
通史編1(古代・中世) (三戸南部氏による領国支配の強化)

一六世紀前半、政康から子安信の時代には、当主の子ども・弟たちが本拠地三戸周辺の要地に配置され、本家を支
通史編3(近世2) (城下での生活)

今日、栗原泰稽(芸)が玄蕃に呼ばれ、銀二〇枚一〇人扶持、家は須藤太次右衛門本家を下さるよう仰せ渡された
資料編3(近世編2) (【解説】)

なお金木屋の本家と別家の関係については、吉村和夫『金木屋物語』(北の街社 一九八六年)を参考にした。 
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