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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(朱子学批判)
朱子学
批判 そして興味深いことに、乳井は、武士社会にこのような臆病卑屈な風潮を蔓延(まんえん)させた,を安んずることに専念して、「治乱済度ノ為ニ己ヲ捨ル意地」を喪失した「朱子ガ腰抜ケ学問」にあるとして、
朱子学
,
朱子学
に政治論がなかったかといえば、事実はそうではない。,『大学』の八条目にあるように、
朱子学
の最終課題は「治国・平天下」にあった。,
朱子学
が本来「腰抜ケ学問」か否かは大いに議論の余地を残そう。 /
朱子学
批判
通史編3(近世2)
(学風の変化)
学風の変化 当藩では
朱子学
よりも徂徠学に共鳴し、経世済民(けいせいさいみん)的発想の強い徂徠の思想を,果たしていた津軽永孚が、寛政十一年(一七九九)六月に失脚すると、彼の影響力は薄れ、間もなく徂徠学から
朱子学
,寛政十二年、学校総司取扱となった伴才助建尹が学風を
朱子学
に改めることを進言しており、文化六年(一八〇九,)には、聖堂に留学して
朱子学
を修めた葛西善太が江戸で国元の学風改めの命を受け(「国日記」文化六年十月七日条
通史編2(近世1)
(「今日唯今」の重視)
「今日唯今」の重視 乳井は
朱子学
の観念性を批判する。,このように
朱子学
の存在論の根底にある先験的な「天理」の観念を認めない乳井が、そこから導き出されるところの,
朱子学
では民を治めるのに先立って自分の身を修めよと説く。,しかし、だからといって身が修まるのを待っていたならば、今この目の前にいる飢えた民はどうなるのか、と乳井は
朱子学
通史編3(近世2)
(幕末期の稽古館)
兼松は藩の命により昌平校に入り、
朱子学
の立場を取りながらも西洋の新知識に多大な関心を持っていた古賀侗庵
資料編2(近世編1)
(『大学文盲解』二巻)
つまり乳井は、
朱子学
者が目の前の政治的課題(治国・平天下)をおざなりにして個々人の「心」を練る(誠意・
資料編2(近世編1)
(『五蟲論』一巻)
自序によれば、素行が
朱子学
を批判したかどで赤穂に流謫され、その地で童子に託して「聖教」の旨を明らかにせんとしたことにならって
通史編3(近世2)
(教科目)
というのも、それは、
朱子学
が尊重するそれらの経典の価値を認めない、徂徠学の教育方針が貫かれていることを
通史編3(近世2)
(山崎蘭洲)
蘭洲は、「修辞」のみに拘泥し、「道」を「修める」ことを怠ったものとして徂徠学を批判した、篤実な
朱子学
者
通史編3(近世2)
(信明の学校構想)
彼は徂徠の人間観や教育観を忠実に継承し、心の内的な自己統制を前提とする
朱子学
的思考を退け、人間の心は外,定信は聖堂の刷新に乗り出し、寛政二年(一七九〇)五月に
朱子学
を「正学」とする旨を林家(りんけ)に通達した,定信は本人が思うほどに
朱子学
者ではなかった。
通史編3(近世2)
(稽古館の儒学者たち)
当時古学派が隆盛であった稽古館の学風を
朱子学
に改革せんことを家老大道寺隼人に進言した。 ,葛西善太も山崎蘭洲の門人で、江戸に上って昌平坂学問所に学び、帰藩後学校小司となり、藩校の学風を古学から
朱子学
資料編2(近世編1)
(第二節 乳井貢の思想【解説】)
思想的には、
朱子学
を空理空論として徹底的に批判し、山鹿素行、荻生徂徠、太宰春台に見られる実学的な学風に
通史編3(近世2)
(信政)
素行は当時の
朱子学
を批判して古学を提唱した儒者であったが、兵学者でもあった。
通史編2(近世1)
(乳井貢と先行思想)
このような事実を考え合わせると、寛政八年(一七九六)の藩校稽古館(けいこかん)の創設に伴い、しばらくして
朱子学
通史編3(近世2)
(信政の教養)
惟足の神道説は吉田神道を基礎としつつも、その仏教的色彩を除き、
朱子学
との習合を推し進め、理学神道をもって
通史編3(近世2)
(信寿・信著・信寧時代)
同時に、彼は
朱子学
に対して批判的立場をとった当代きっての学者、思想家でもあった。
通史編2(近世1)
(乳井の略歴)
それは
朱子学
で説くところの道徳の体現者としての聖人とは決定的にかけ離れている。
資料編3(近世編2)
(二 思想)
加えて、「聖人は必ず制度を正ふして民をしてその処を立てしむる也」という一節からも、彼は聖人を
朱子学
で説
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