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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (材木移出)

津軽領からの材木積出の手続きは、藩の役人(山奉行もしくは山役人)が湊の沖口横目へ、材木の積み出しを求める,これは主に、十三湊からの材木移出と、山から材木を十三湊へ切り出す際の手続きとに分かれており、 ①材木,⑤材木代銀の不正を禁止する(第七条)。 ⑥十三からの移出材木は、必ず現銀で決済する(第十条)。,、留山以外の山地への出入りと材木の伐採を認め、藩営による材木切り出しの方針を変更した(同前一〇〇・一〇,これによって、十三・蟹田での材木切り出しと、各湊への材木集積はより効率的になった(ただし、この後藩は、 / 材木移出
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

また、翌文禄二年四月十日に秋田氏は、秀吉から下命された材木のほかに自分自身の材木の廻漕を敦賀の豪商道川,(どうのかわ)三郎右衛門に命じており、秋田氏は敦賀の道川氏と材木売却をめぐって関係を持っていた。,翌文禄三年六月十七日の秀吉朱印状によれば、「淀船(よどぶね)材木」つまり淀川を運行する淀船建造用の材木,図28.安宅船復元模型  秋田氏は、すでに伏見城普請の材木を廻漕する以前の名護屋参陣中に材木の献上,わりに、その用材である杉板を豊臣政権から賦課されていたのであり、これは伏見城の普請役に代替する役儀として材木調達
通史編3(近世2) (建築材)

建築材 前掲『御用格』元禄十六年(一七〇三)三月条によれば、農民が家を建てるために、山から材木を伐り,これは、従来までの農民の建築に利用されてきた材木の種類は、栗・桂・楢などの雑木であったが、それに檜が加
通史編2(近世1) (十三小廻しの成立と町の盛衰)

まれているが(『御定書』三五)、なかでも、岩木川舟運によって運搬されてきた御蔵米の規定と、それと並んで材木移出,しかも、十三山奉行は、単に材木移出に立ち会うのみならず、「御蔵入之御米」の出船に際しても立ち会うことが,このことは、十三山奉行は、材木の切り出しのための杣(そま)米の請取を管掌していたこととも関係があろうが,つまり、藩にとって、米・材木を運漕する、津軽平野の大動脈である岩木川舟運の終着地としての十三湊の重要性,そして、十三湊は、寛文期においては、「沖之口出米」「沖之口出材木」双方の指示を受けていた領内唯一の湊津
通史編3(近世2) (三不動)

古懸(こがけ)(国上寺)・中野(中野神社)・長谷沢(ながいさわ)(長谷沢神社)の不動尊は、一本の材木
資料編3(近世編2) (4 その他の屋敷)

「御門」を開いて「御長屋」をずらりと並べ、「御土蔵」や「御材木小屋」などが建ち並んでいる。
資料編1(考古編) ((10)工具)

いずれも材木の切断や加工に用いられるもので、出土遺跡も多い。  
通史編2(近世1) (一 青森開港と初期海運)

また、近世前期までの津軽と上方との交易品としては、津軽領から米や大豆等の穀類と材木・海産物が、上方からは
通史編2(近世1) (対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)

青森商人の大村屋庄蔵・西沢善兵衛らは、箱館の外国商人との間に材木の売買契約を結んだ。,これは津軽産の材木のみならず、仙台・秋田両藩産の材木を取り込んだ契約であったが、この契約は、製品の品質
通史編3(近世2) (観音信仰)

第五番札所)・入内(にゅうない)(現青森市入内 小金山(こがねやま)神社、第二十四番札所)の観音は一本の材木
通史編2(近世1) (伏見木幡山城の築城)

同年十二月二十五日に伏見に到着した南部信直は、伏見到着早々に、八戸千代子(ちよこ)宛ての書状で翌慶長三年正月には「御材木,この「御材木」は、伏見作事板のことであるが、この作事板運上の秀吉朱印状を受領するために南部信直は伏見へ
通史編2(近世1) (対外交易の実態)

契約の内容は津軽産の材木二〇〇〇本のほか、仙台・秋田藩の商人も取り込んで、相当数にのぼる材木を輸出するというものであったが
資料編3(近世編2) (1 弘前城の歴史)

また、材木は近くの山々から伐り出されたものと見られるが、大浦城や大光寺城など、旧城郭の建物を解体したものもあったという
通史編1(古代・中世) (擦文文化の終末年代)

また、釧路市材木町(5)遺跡では宋代(九六〇~一二七九年)に製造され、国内では平安時代後半から鎌倉時代前半
通史編2(近世1) (伏見作事板の運上と太閤蔵入地)

から約二五パーセントに当たる一二七八石六升が杣人(そまびと)の飯米(はんまい)、秋田山から船着き場への材木,「秋田家文書」所収の文禄五年分の「於秋田御材木入用之帳」によれば、杉板の運上について「右之板隣郡之衆へ,津軽・南部領内のいずれの山からでも杉を伐採し敦賀まで廻漕するよう命じられているが、同年分の「於秋田御材木入用之帳
通史編2(近世1) (烏帽子山紛争)

」で岩山を掘っており、それが平内村の言い分に相応すること、延宝元年(一六七三)嶋地山で馬門村の百姓が材木,となっていたと認定され、今後「山手」(入山料)として馬門村が毎年永(えい)三貫文を平内村に納めることで、材木
通史編2(近世1) (土着策施行期の廃田開発)

しかしながらこの場合、帰国した人や遊食の者の供給には限界があり、馬・飯料・農道具・萱・材木などの支給や
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

当たる役目を担った方角火消(なお、増援として奉書火消も併用された)、③江戸城や寛永寺・増上寺、米蔵や材木蔵,正月、本所火之番を初めて命じられ、元禄十六年(一七〇三)・宝永二年(一七〇五)の両度に本所(ほんじょ)材木蔵火
通史編2(近世1) (西廻海運による大坂廻米)

しかも、積米の不足を訴えるほど潤沢な雇船が存在し、不足分を材木で補うこともあった(「国日記」元禄二年四月二十九日条
通史編5(近・現代2) (高度経済成長期の工業)

製造品出荷額に関しては、食料品製造業の比率が六三・六%で、最大であり、木材木製品工業、窯業がこれに次いでいる,事業所数では、食料品製造業、木材木製品工業、家具製造業、パルプ及び紙加工業、出版印刷業、窯業の順になっている
通史編2(近世1) (岩木川舟運)

一方、米以外に舟運で運ばれたものには材木があり、寛文八年(一六六八)五月七日付の三世寺御横目衆宛ての布達
通史編2(近世1) (穀物の流通統制)

しかし、藩庁はこの願い出を財政難を理由に却下し、材木や海草を他領に売ることで、米の手配をするよう、いわば
通史編2(近世1) (家中屋敷の郭外移転)

(三の丸・四の郭)、御馬屋(西外の郭)、星場(ほしば)(四の郭)、塩硝(えんしょう)小屋(四の郭)、材木場
通史編2(近世1) (正徳から天明にかけての大名課役)

また火消役は、本所火消役が七回、猿江材木蔵火之番が一回、浅草御蔵火之番を一回務めており、この時期、津軽家
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

太閤蔵入地の代官職を遂行させるとともに、太閤蔵入地からの収益を利用して朝鮮出兵の軍船や伏見城普請用の材木
通史編2(近世1) (土着策と弘前城下)

にかかわる長屋切組を命じられ、さらに諸大工・人夫等を蝦夷地に派遣するように命じられたことから、建築用材木
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

材木入付銀代米  4,857. 8. 7 浜下米駄賃・運賃金代米  
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●文禄四年(一五九五)三月二十七日、豊臣秀吉、南部信直へ朱印状を下し、秋田・津軽・南部領内で材木を伐採,●慶長十一年(一六〇六)正月下旬、堀越城下、町方洪水により、材木流失するという。,●慶長十二年ヵ(一六〇七)三月二十六日、越前北庄城主結城秀康、津軽為信へ鷹と舟材木を所望する。,一六一四)四月十九日、津軽信枚、最上氏の臣出羽本城々主本城満茂へ、越後高田城普請赦免につき、帆柱・渡舟板の材木,翌十一日、加賀材木買衆、能代から津軽へ赴かんとする。
通史編2(近世1) (林政の展開と漆木の栽培)

材木の造成は富国策の一つとしてとられたものであり、その目的は、用材の領外払いによる藩財政の直接的補填を
通史編2(近世1) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

弘前市立図書館蔵一般郷土資料 108 青森県立郷土館蔵 109 弘前市 長勝寺蔵 110 弘前市 海蔵寺蔵 111 鳥帽子山材木
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