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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (東北振興)

東北振興 昭和二年(一九二七)五月二十二日、東北振興会が再結成された。,東北振興会は八年十一月に活動の一環として、東北各県および中央の有志者、新聞関係者を招致して実行座談会を,そこで新聞社が、凶作問題に対する義捐金の募集や東北救済の特集記事、政財界人の東北振興論を特集すると、東北,の凶作対策として、九年十二月に東北振興調査会(後の内閣東北局)を設置し、東北振興を国策として取り上げたのはこうした,として仙台市に東北興業株式会社と東北電力株式会社を設立した。 / 東北振興
通史編1(自然・原始) (北麓~東麓)

北麓~東麓 大鳴沢および赤倉沢流域には、標高五〇〇~六〇〇メートル付近を扇頂部とする火山麓扇状地が展開,鈴木(一九七二)の、東半部に展開する火山麓扇状地に相当する。,弥生面は北麓の徳明川から東麓の弥生地区まで弧状に分布し、西麓の岩屑なだれ堆積面よりも緩傾斜であり、かつ / 北麓~東麓
通史編1(古代・中世) (東北地方北部の群集墳)

東北地方北部の群集墳 後期の東北地方南部がこのような情勢にあったのと前後して、東北地方北部でも七世紀代,東北地方北部に分布する群集墳の規模からみて、それらが族長層の墳墓であるにしては多く、家族成員すべての墳墓,円形周溝墓というほぼ同一規模の墳墓が造られていることなども考慮すると、さきの被葬者の問題も合わせて、東北地方北部,七・八世紀代の県東側では、八戸市根城跡第一一〇号住居跡出土の一括土器群が七世紀前半~中葉の所産と考えられ,、東北地方南部の古墳時代後期土器に対比されるものとしては最古の良好な例として知られるのに対し、津軽地方 / 東北地方北部の群集墳
通史編5(近・現代2) (東北庁設置の要望)

東北庁設置の要望 日中戦争が始まると、経済は統制色を帯び、軍需工場の設置も始まったが、弘前市においては,日中戦争の開始以前の昭和十年(一九三五)に、弘前商工会議所は日本商工会議所連合会において東北庁設置の要望,東北庁設置要望ノ件 一 我カ国産ハ輓近著シク長足ノ進歩ヲ遂ケ、凡ユル障壁ヲ突破シ「躍進日本」ノ産業ハ,ヲ一丸トシ、産業経済ヲ統制スル最高行政官庁、即チ内閣直属ノ東北庁ヲ設ケ、恒久ニ関スル行政ヲ以テ、財政経済,ヲ以テ編成セシ第八師団将兵ヲ以テ戦局ヲ告ケタルカ如キ、既ニ全世界ノ均シク認ムル処ナルニ、夫何ゾ東北民ヲ / 東北庁設置の要望
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳時代)

東北地方の古墳時代 古墳時代とは、一般的には古墳の造営に象徴される時代を指す。,東北地方南部まで広い範囲に展開をみた。,〇度以北を目安とする東北地方北部では独自の文化が形成されていった。,写真1 遠見塚古墳  古墳を指標として概観した東北地方のこの時代のなかで、東北地方北部では三世紀末,そして五世紀末の東北地方北部には、日本最北の前方後円墳である岩手県角塚(つのづか)古墳がただ一基、北上川中流域 / 東北地方の古墳時代
通史編5(近・現代2) (東北女子大学の開学)

東北女子大学の開学 学校法人柴田学園では、かねてより四年制女子大学の設置を計画していたが、昭和四十四年,(一九六九)二月八日、東北女子大学の設置が文部省によって認可された。,東北女子大学は、昭和四十九年四月から家政学科のほかに、児童学科を増設した。,これは東京以北唯一の児童学科として注目される。,写真207 東北女子大学(豊原・昭和50年頃) / 東北女子大学の開学
通史編1(古代・中世) (北東アジア人の渡来)

北東アジア人の渡来 ところが稲作農耕が日本列島に持ち込まれた弥生時代になって、人口が急増する。,その北方人とは、先に触れた極端な寒冷地適応を遂げた新モンゴロイドたちであった。,、その原郷は北東アジアであるとされる。  ,渡来人の上陸地点は主に北部九州である。,写真17 土井ヶ浜遺跡人骨(山口県豊北町) / 北東アジア人の渡来
通史編1(古代・中世) (東北地方の古墳文化)

東北地方の古墳文化 中央政府を基準とした日本史の時代区分では、弥生時代に続いて、三世紀末ころから古墳時代,現在、東北地方最古の古墳とされているのは、会津坂下町(あいづばんげまち)の杵(きね)ガ森古墳で全長四六,残念ながら東北地方では、この会津大塚山古墳のほかに、その内部構造まで詳細に知られる古墳がまだ知られていないので,、確かなことはいえないが、早くも四世紀中には、東北南部のかなり広い地域が大和政権の影響下に入っていたとみてよいであろう,青森県域はもちろん、東北地方北部においては、南部とは対照的に、大和政権の文化の影響は極めて薄かったといえよう / 東北地方の古墳文化
通史編3(近世2) (東北戊辰戦争の終結)

東北戊辰戦争の終結 前述のように、野辺地戦争は、弘前藩の惨敗であった。,こうして、東北地方一帯が鎮静化し、弘前に本陣を置いていた奥羽鎮撫総督参謀醍醐忠敬も引き揚げを開始した。,列藩同盟諸藩の降伏による東北戦争の終結を受けて「家内年表」(『青森市史』)には「人気大ニ落着静謐ニ相成候,また、続々と解兵が続いていることもあり、東北戊辰戦争の終結は、一時的にしろ平和の到来を予感させるものであった / 東北戊辰戦争の終結
通史編5(近・現代2) (東北縦貫自動車道の全通)

東北縦貫自動車道の全通 東北縦貫自動車道は、青森線の十和田-碇ヶ関区間(二八・一キロメートル)が昭和六十一年七月三十日,この結果、東北縦貫自動車道の浦和-青森間(六七四・七キロメートル)が全線開通し、首都圏と青森市が一本の,この区間は、青森・秋田県境の山岳地帯を通るため、難工事であり、特に全長四二六五メートルと東北最長の坂梨,東北縦貫自動車道の全通により、首都圏と青森県は約二時間短縮されて約七時間半で結ばれることになり、地元では,また、弘南バスをはじめ国鉄、岩手県北、岩手中央の各バスでは、前年の春以来、東北新幹線に接続する特急バス / 東北縦貫自動車道の全通
通史編5(近・現代2) (東北女子短期大学の開学)

東北女子短期大学の開学 昭和二十五年(一九五〇)三月十四日、東北女子短期大学の設置が文部省から認可された,短期大学制度第一回認可校で、これまでの東北女子専門学校が昇格したものである。,写真143 柴田学園本部と東北女子短期大学(上瓦ヶ町・昭和25年ごろ)  昭和二十七年三月には、 / 東北女子短期大学の開学
通史編1(古代・中世) (田村麻呂は東北人の英雄か)

田村麻呂は東北人の英雄か しかし田村麻呂は、地元の蝦夷の側から見れば征服者であって、なぜ田村麻呂が東北地方,にたつとき、現在のわれわれは、アイヌではないのであるから、田村麻呂はそのアイヌを追い払い、われわれの先祖を東北地方,こうしたことが背景にあって、田村麻呂信仰が東北地方全体に浸透していったものと思われる。  ,もちろん田村麻呂はなんといっても英雄であって、そうした英雄に対する伝説というものは洋の東西を問わず生じやすいこともある / 田村麻呂は東北人の英雄か
通史編5(近・現代2) (連続する災害と東北振興政策)

連続する災害と東北振興政策 金融恐慌の影響が去らない昭和六年(一九三一)、北海道と東北地方を中心にやませが,こうした東北各地の災害と運動を背景に、昭和九年十二月二十六日、政府は内閣に東北振興調査会を設立し、東北振興政策,政府は国費をもって東北地方の救済と振興に着手したのである。,、中園裕「東北振興-地方からの声」沼田哲編『東北の成立と展開』岩田書院、二〇〇二年を参照)。  ,東北振興問題を考える場合、大手全国紙をはじめとする新聞・雑誌メディアが全国各地で起きた東北振興運動を積極的 / 連続する災害と東北振興政策
資料編1(考古編) (2.東北地方における土器の出現)

2.東北地方における土器の出現 東北地方における最古の土器の発見は、前述のように、柏倉亮吉・加藤稔により,実施された山形県東置賜郡高畠町に所在する日向洞穴の調査からである。,その後、この種の土器は同県下の洞穴並びに岩陰遺跡から続々と発見されるにいたり*12、山形県が東北地方のみならず,、東日本における土器発祥地的な観を呈していたのである。 / 2.東北地方における土器の出現
通史編3(近世2) ((一)東北諸藩と弘前藩)

(一)東北諸藩と弘前藩 新政府は二月九日、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を東征総督に、,弘前藩は、あくまでも戦争の回避と藩体制の保全を第一としながらも、東北諸藩のこの動きには逆らうことができなかった / (一)東北諸藩と弘前藩
資料編1(考古編) (第3節 東北日本弧の古地理)

第3節 東北日本弧の古地理 1970年代以降、島弧としての日本をプレートテクトニクスの立場から解釈する / 第3節 東北日本弧の古地理
資料編1(考古編) ((1)東北地方南部以南との交易・交流)

(1)東北地方南部以南との交易・交流 先に述べたように、土器文化は、7・8世紀においては東北地方北部全域,当然のことながら、生活上の文物の多くは徐々に関東や北陸以南の律令支配地と様相を同じくしていく。,精神文化に至るまで東北地方南部地域との大きな相違は認められなくなる。,10世紀後半から11世紀代は津軽地方を中心として東北地方北部地域が独自文化圏を形成した時期であり、各種,12世紀は、奥州藤原氏が、平泉を拠点として東北地方のほぼ全域を支配した時期でもある。 / (1)東北地方南部以南との交易・交流
通史編1(古代・中世) (北の認識)

北の認識 なお北については、右の史料にみえるものとしてはすべて佐渡で一致している。,を、北陸道の延長として北と考える意識がなお残っていることに注意される。  ,秋田家系図』(史料一一五三)冒頭の、著名な安藤氏の始祖説話のなかで、安日王が流されたのは津軽・外浜・安東浦,を包括する「北海浜」であった。,現在も使用される「東奥」「北奥」という用語とも関わって興味深い。 / 北の認識
通史編1(自然・原始) (南東麓)

南東麓 基本的には北麓から連続する弥生面が分布するが、蔵助沢、後長根沢、そして多沢川から鶏川にかけては,百沢面は南麓には広く分布するが、南東麓においては緩傾斜面であって、水田として利用され、扇端部には扇状地性,なお、昭和五十年(一九七五)八月の百沢土石流は岩木山神社東縁の蔵助沢で発生し、青森県災害史上最大の被害 / 南東麓
通史編5(近・現代2) (東奥美術展)

東奥美術展 昭和五年(一九三〇)と六年の春に、六花会、北溟会、白曜会と続く一連の団体の活動を継承する,昭和六年の秋には、青森県下全域を対象として、東奥日報社が主催する「東奥美術展」が東奥美術社を包括する形,東奥日報社は東奥美術展を開催するまでに、大正十五年(一九二六)十月に一万二〇〇〇号の発刊を記念して、同,この成果を踏まえた上での、昭和六年の東奥美術展の開催であった。  ,東奥美術展は、大正六年に前田照雲が立ち上げた六花会から始まる、北溟会、白曜会、東奥美術社と、県下の美術 / 東奥美術展
通史編2(近世1) (関東・奥惣無事令)

その意味で、関東惣無事令は、北条氏のみならず、北関東の諸大名をも対象とするものであった。,図1.豊臣秀吉画像  関東惣無事令は、北条氏を中心とした北関東の諸大名間の紛争をその対象としていた,このころ、北条氏の北進と対峙(たいじ)していた北関東の諸大名は、豊臣政権による介入を望んでいたという政治的,もちろん、北奥羽の地域が、これとまったく無関係にあったとは思われない。,次に、このころの北奥羽大名の様子についてみてゆくことにしよう。 / 関東・奥惣無事令
通史編1(古代・中世) (境界の北進)

境界の北進 世界の現実の地形についての地理的知識が普及した現在とは異なり、日本の中世以前の社会にあっては,また湾曲しながらも基本的に南北に細長く伸びる日本列島の場合には、中央政府の領域支配の拡大とともに、南北,とくに古代以来、ながく征討の対象であった北方世界についての認識の変化については、国家史的に見ても大変興味深,前節までに詳しく見たように、津軽地方が国家の郡制に編成されたことによって、日本の北(これまでも触れてきたように,、当時の認識としては東)の境界は津軽海峡あたりにまで北進し、都人からは、それ以北は人知のおよばぬ極めて / 境界の北進
通史編5(近・現代2) (伊東重)

伊東重 津軽のナショナリズムに直接的に影響を与えたのは、医師伊東重(安政四-大正一五 一八五七-一九二六,伊東は藩医家久の子、東奥義塾に学び、ジョン・イングから受洗、明治十九年東大医学部を卒業した。,と、国内では西日本の薩長勢力に支配され、国際的には欧米白人に抑圧されている東北人、つまり津軽の人々に気合,二十六年『東京医事新誌』は四回連載した。,かくて伊東は明治二十七年養生会を組織し、明治三十年旧稿に増補して『養生哲学』を東京南江堂書店から発売した / 伊東重
通史編1(自然・原始) (東西系の断層)

東西系の断層 東西系の断層は弘前市街地南部の泉質組成が異なる温泉の分布域に推定できる。,この場合、北落ちで変位は数百メートルとなる。 / 東西系の断層
通史編3(近世2) (戦線の北上)

戦線の北上 ここで、全国的な戊辰戦争期の動向を確認しておきたい。,中心として結成された彰義隊(しょうぎたい)は反政府的な色彩を濃くし、徳川慶喜が一時身を寄せていた上野東叡山寛永寺,奥羽攻防の要として重要な意義を持つのが東北地方の玄関口ともいえる「白川関(しらかわのせき)」である。,閏四月、政府軍は北越地方の平定に動き出した。,その後は、会津方面へと主戦線が移動し、政府はようやく東北平定に全力を傾けることができるようになった。 / 戦線の北上
通史編2(近世1) (中世の北国海運)

資料古代・中世No.一一四二・一一四三)、平安末期に起源があるとされる(古田良一「津軽十三湊の研究」『東北大学文学部研究紀要,この「関東御免津軽船」については、十三湊に根拠を置いた安藤氏の支配下にあるとする説と、安藤氏とは無関係,そして、鎌倉時代の末には、小浜や敦賀を拠点として、西は「筑紫船」、東は「津軽船」という航路ができていた,可能性が示されている(大石直正「関東御免津軽船」北海道・東北史研究会編『北からの日本史』二集 一九九〇,における近世城下町の成立」北海道・東北史研究会編『海峡をつなぐ日本史』一九九三年 三省堂刊)。 / 中世の北国海運
通史編1(古代・中世) (「東夷征討」祈願)

「東夷征討」祈願 このような清新で改革の機運に満ちた時代の雰囲気のなかで、年号が「延久」と改められる,その直後、後三条天皇は国家鎮護の軍神である石清水八幡宮に行幸し大般若経を供養して「征討東夷」の祈願を行,このように、この時期、九世紀以後も「蝦夷の地」のまま残った北奥羽地域(現在の青森県全域と秋田県の北部、,岩手県の北部および海岸地域)に加えて、津軽海峡を越えた北海道南部までも対象にした、北方蝦夷征討の壮大な,、征討東夷之故也」の誤写であったかもしれない(現在伝えられているものは近世の写本である)。 / 「東夷征討」祈願
通史編5(近・現代2) (東門会の創立)

東門会の創立 さらに養生会を有名ならしめたのは、明治三十年一月十三日、幼年養生会(一般に東門会という,彼らは毎朝未明に起きて弘前城東門前に集合、歌を歌い、遊戯をした。,昭和二年一月、伊東重の死去のあと東門会会長となった関久次郎の時代に、会は早起励行、自治協同のほかに養生興国,彼と石原莞爾の指導理論と北一輝の「日本改造法案大綱」は行き詰まった戦時中、知識人養生会員とその周辺に影響,後輩の鳴海理三郎、佐藤正三、小田桐孫一らは東亜連盟活動をした。 / 東門会の創立
通史編2(近世1) (秀吉の東国への停戦令)

、佐竹氏など北関東の大名と関係が深かった)・下野塩谷(しもつけしおのや)氏・常陸佐竹(ひたちさたけ)氏,など、北関東の諸大名に対して朱印状を発給した。,その内容は、①下野佐野(さの)氏の家督を北条氏忠(うじただ)が継承することの承認、②徳川家康の赦免(当初,現在、このときに奥羽の諸大名に発給された秀吉の「御書」は確認されてはいないが、北関東の諸大名に朱印状を,そして、北関東での山上道牛のような役割は、小笠原貞慶に任されていたが、五月二十日に上杉景勝が上洛した後 / 秀吉の東国への停戦令
通史編2(近世1) (北奥羽の大名の動向)

一方、北羽の安東(秋田)氏の場合、現在のところ、このころの統一政権とのかかわりを示すような史料は知られていないが,の「蝦夷沙汰(えぞのさた)」に密接にかかわるものであるといわれ(遠藤巌「秋田城介の復活」高橋富雄編『東北古代史,豊臣政権の東国政策は、特に家康の臣従以前は増田長盛(ましたながもり)・石田三成を機軸とし、上杉―佐竹・,宇都宮・結城(ゆうき)―蘆名(あしな)の系列が形成され、これをもとに推進されており、これに近い南部・安東氏,ここでみたように、南部・安東(秋田)氏のような北奥羽の大名は、中央の状況に対して敏感に反応していることがうかがわれる / 北奥羽の大名の動向
通史編1(古代・中世) (古墳文化及ばぬ北の世界)

東北北部には、このころ逆に北の世界の北海道特有の文化の影響が目立つようになる。  ,の文化を代表する土器が、これらの地域を中心に、東北地方でも広く見つかるようになってくる。  ,その北海道からの南下のルートとしては、函館の東の汐首(しおくび)岬あたりから、下北半島大間(おおま)崎,は、かなりの密度で北東北を覆っていたらしい。,写真21 阿光坊遺跡9号墳  いずれにしろ東北地方には稲作の不適地が現在でもなお広がっており、また / 古墳文化及ばぬ北の世界
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

伊東梅軒 幼少の陸羯南、伊東重を感化した人物に、伊東重の隣家に住む伊東広之進(梅軒(ばいけん)文化一二,伊東梅軒は、四年の遊歴生活を終えて憂国の士となった。,嘉永五年三月、東北歴遊の吉田松陰、宮部鼎蔵と一夜国事を談ずることとなる。,写真79 養生幼稚園松陰室  伊東梅軒家は明治二十一年祐宗の死後隣家の伊東重(しげる)に売却され,なお、伊東梅軒が羯南の竹馬の友伊東重の素読を垣根越しに指導した話も伝わる。 / 伊東梅軒
通史編1(古代・中世) (北畠親房の政権構想)

北畠親房の政権構想 後醍醐(ごだいご)天皇(写真152)は、正慶二年(元弘三年、一三三三)六月、北条氏滅亡,を受けて京都に帰ると、同年八月に北畠顕家(きたばたけあきいえ)を陸奥守(むつのかみ)に任じ、建武政府の,鎌倉幕府滅亡後、急速に武士勢力を吸収しつつある足利尊氏を押さえるために、関東の背後の陸奥国を重視し、奥州武士,郡奉行所へ登用された武士は、関東武士団の庶流中、白河(結城)宗広(しらかわ(ゆうき)むねひろ)・伊達行朝,それは北畠氏が、かつてこの地を独占的に支配していた北条氏の権力構造をそのまま継承・発展させようとしていたことによるものとも / 北畠親房の政権構想
通史編1(古代・中世) (三 北奥宗教界の中世的転回)

、以下、東と略称)、七代定雅(東)、八代定親(東)、九代隆弁(寺)、一〇代頼助(東)、一一代政助(東),そしてかの北条時頼が東国巡遊の際、かつて寵愛してやまなかった当該地出身の唐糸のことを想うあまり、廃れていたこの,「北条時頼袖判盛阿奉書」(写真145・史料五七一) 写真145 北条時頼袖判盛阿奉書 (一,カ二男ヲ津軽に置ケル、彼等カ末葉也」(『異本伯耆巻』)という三つの史料が伝えるように、東国、とりわけ北辺,そして、この北奥の地を、「鎮魂供養の地」として、時頼の東国廻国におけるひとつの傍証と見なすのは、思い過 / 三 北奥宗教界の中世的転回
通史編1(古代・中世) (北の富の搾取)

北の富の搾取 このように蝦夷の朝貢・饗給に代わる交易雑物制の登場は、北の世界に大きな変動をもたらした,閉鎖的社会に押し込め、すでに律令国家によって郡郷制に編成された地内に住む俘囚と、律令国家の支配が及ばなかった北東北,の「奥地」の蝦夷とを分断し、北方の蝦夷から名目的には交易であっても、その軍事力を背景に実質的には収奪と,もともとこの世界では古くからさまざまな交流があったことが証明されているが、そうしたルートを利用して、強力に北方,おそらくこうしたことによる緊張状態の形成が、北の世界にかなり不安定な要素をもたらし、蝦夷の集落が防御を / 北の富の搾取
通史編1(古代・中世) (稀有な北の富)

稀有な北の富 そうした全国的な再編成のなかでは北の蝦夷の世界も例外ではなく、たとえば陸奥国から中央政府,北の世界に対しては、他の地域では決して入手できない北方の特産物が交易品として指定されている。,これらのうち熊皮は日本では北海道にしか生息しないヒグマの皮であると推測され、阿倍比羅夫の時代にも「羆皮,また独犴皮も北方の犬の毛皮(おそらくオホーツク文化の産品。,砂金はいわずと知れた東北の象徴的な産品の一つ。 / 稀有な北の富
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の啓蒙活動)

東奥義塾の啓蒙活動 青森県は創県以来、野田大参事と菱田権令の確執、維新政府の近代化政策への一部弘前士族,の存在、第二は新渡戸傳(つとう)の三本木原の開拓、第三は広沢安任の北郡谷地頭の牧牛場だった。,この中で、保守勢力にとって東奥義塾の開化主義教育やキリスト教は好ましくなかった。,これらが素地をなして、東北の国会開設運動で義塾が中心となったと菊池は語る。,を作り、隔週土曜日の午後弁論会を開き、学生は治国平天下を自らもって任じていたので、重点は政治経済論か東北振興策 / 東奥義塾の啓蒙活動
通史編2(近世1) (東蝦夷地直轄下の勤番体制)

東蝦夷地直轄下の勤番体制 寛政十年(一七九八)三月、幕府は目付渡辺久蔵以下、一八〇余人に及ぶ大規模な,調査隊を編成し、東蝦夷地・西蝦夷地、そして国後(くなしり)島・択捉(えとろふ)島まで調査を行った。,)以北シレトコ(現北海道知床岬(しれとこみさき))まで、および国後島・択捉島などの島々を七ヵ年の間、御用地,幕府は津軽弘前藩と盛岡藩の二藩の兵を要地に駐屯させるという方針を立て、同年十一月、両藩に東蝦夷地警衛を,に勤番所を設け、盛岡藩はウラカワ以東を担当して、ネモロ(現北海道根室市)・クナシリ・エトロフに勤番所を / 東蝦夷地直轄下の勤番体制
通史編5(近・現代2) (東門会の佐藤正三)

東門会の佐藤正三 昭和六年正月二日、東門会の指導者だった佐藤正三(さとうしょうぞう)は、官立弘前高等学校,そこへ伊東六十次郎から『日露戦争の世界史的意義』が贈られてきた。,伊東からは「日本男児は血と涙の苦闘の後に来る幸福者にならねばならぬ。,九月廿六日 晩七時から伊東六十次郎兄の「満州問題の世界史的考案」の講演会が第一大成小であり。,青森県の現状は今や上北、下北、東郡は御承知の通り食ふものもないと云ふ有様です。 / 東門会の佐藤正三
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

この後、表4にも明らかなように、戸沢氏は翌天正十九年一月十七日に仙北の北浦郡において四万四三五〇石の知行,約三万石の領知を認められ、ほかに約一万五〇〇〇石の太閤蔵入地の管理を任された(長谷川成一『近世国家と東北大名,12月19日 本堂道親  8,983石3斗1升 天正18年12月19日 戸沢九郎 出羽国仙北之内北浦郡,44,350石 天正19年1月17日 湊安東太郎 出羽国檜山郡一織・秋田郡之内 52,439石2斗7,松前)氏も、文禄二年(一五九三)一月五日、名護屋に参陣し、夷島の支配権を公認する秀吉朱印状を獲得し、安東( / 北奥羽の領知確定
通史編4(近・現代1) (三 東奥義塾とキリスト教)

三 東奥義塾とキリスト教 明治五年(一八七二)の学制頒布により、日本の教育制度は大きく変わった。,ここでは、弘前での私立教育のうち、明治初期の東奥義塾を中心に記述する。,東奥義塾は旧藩学校を継承して設立され、津軽地方の教育体制の中心であったとともに、同地方ヘキリスト教や自由民権運動,が広まる拠点でもあった(なお、東奥義塾に関連する研究及び研究史については北原かな子『洋学受容と地方の近代 / 三 東奥義塾とキリスト教
通史編4(近・現代1) (関東大震災後の巡錫布教)

関東大震災後の巡錫布教 大正八年十一月一日、釈宗演は遷化した。六十一歳。,宗演は若狭高浜生まれ、明治四年、十二歳で親戚であった京都妙心寺の釈越渓について出家、のち鎌倉円覚寺の今北洪川,東奔西走、仏教界の大同団結を図った。佐藤禅忠は彼の衣鉢を継いだ。  ,大正十二年九月一日の関東大震災で、東慶寺は鐘楼を残して仏殿・書院・庫裡すべてが全壊した。,昭和五年、病身ながら震災復興の浄財を得るため、観音像ら三百余幅を描いて青森県や北海道を巡錫布教して歩いた / 関東大震災後の巡錫布教
資料編1(古代・中世編) ((1) 南北朝時代の「堀越楯」)

(1) 南北朝時代の「堀越楯」 堀越城の名が初めて文献に見えるのは、南北朝時代、建武三年(南延元元年,津軽における南北両党の合戦はその後も続き、十四世紀後半に津軽曽我氏は南部氏によって滅ぼされるが、「堀越楯,が行われた際に、二の丸跡の東部から、東西に走る幅三~六メートル、深さ一~二メートルの薬研堀の跡が、五本見,その場合、堀の発見された場所が平川寄りの東の地区であることから考えて、当初の堀越楯は平川沿いの段丘状の,高まりを利用して構築されたものであり、西に堀を掘って曲輪を設け、さらに東西に走る堀で内部をいくつかに区分 / (1) 南北朝時代の「堀越楯」
資料編1(古代・中世編) (第2章 北方関係非編年史料)

第2章 北方関係非編年史料 (一) 東方の境界観念(含む、流刑地)   (二) 日の本、日の本将軍 / 第2章 北方関係非編年史料
通史編5(近・現代2) ((一)北の文学連峰)

(一)北の文学連峰 青森県の近・現代文学を鳥瞰するとき、津軽の風土がいかに多くの文学者を世に送り出しているかということに,勝本清一郎は石坂洋次郎(いしざかようじろう)の初期の作品に触れながら「葛西善蔵と同じに、どうもそこに東北的,だざいおさむ)、石坂洋次郎、寺山修司(てらやましゅうじ)、長部日出雄(おさべひでお)という津軽出身の作家を含む東北出身,東北の血を持った文学者たちに、なにかロシア文学的な、つまり鈍重で深遠で思想的であり、土着的でユーモラス,すなわち〈北の文学連峰〉と称するゆえんである。   / (一)北の文学連峰
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

一 古代における北奥の宗教世界 現在の弘前市内における中世寺社を語ることは、必ずしも中世の弘前宗教界,における東国講読師の補任・東国天台別院・東国出身者による天台座主の独占という東国と天台宗との不離不即の,の中尊寺は、東北の諸政治・諸信仰・諸文化、もろもろの祈りと願いとを一まとめにし、法華経を根本所依とする,、利生遠及二北狄境一。,『津軽一統志』が「古跡」として「十三湊 当城北小泊崎並其中間者山也。 / 一 古代における北奥の宗教世界
通史編1(古代・中世) (北奥における建郡)

北奥における建郡 延久北奥蝦夷合戦に始まった北奥世界の再編成の成果として、もっとも注目されるものが、,古代国家がついに達成できなかった、北奥での郡郷制の施行である。,図30 北奥の郡郷制  ここで注目されるのは、秋田城と関係の深い河北郡を除いて、他のすべての新郡,これは北奥の建郡に関心が向けられ、南方には手が回らない状況、逆にいえば北奥諸郡の収益が南方の両郡からの,たとえば、平泉藤原氏の時代になると、擦文土器や内耳鍋が姿を消し、美濃・常滑・瀬戸・猿投(さなげ)といった東海地方 / 北奥における建郡
通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

奥法(おきのり)・馬(うま)・江流末(えるま)・平賀(ひらか)・田舎(いなか)・鼻和(はなわ)各郡、東卒都浜,細かく地名を検討すれば、奥法・平賀・田舎各郡と、鼻和郡のうち岩木山の東南麓の地名は詳しく記されている。,の北側、北津軽郡、東津軽郡を北畠具永がそれぞれ支配していたということになる。  ,浪岡北畠氏が一定の勢力を保つことができたのは、檜山へ移動した下国安東氏と南部氏両者の緩衝勢力として、幕府,具運の子息顕村(具愛)(あきむら(ともちか))は、下国安東愛季の娘を正室として姻戚関係を結び、安東氏との / 「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏
資料編1(古代・中世編) (五 東目屋地区の中世城館の特徴)

五 東目屋地区の中世城館の特徴 一、二でも述べたように、東目屋地区は弘前市内でも特に中世城館跡が密集,享徳二年(一四五三)に安藤義季が敗死したとされる「狼倉館」は、東目屋盆地のすぐ北の岩木山麓にあり、また,東目屋盆地の東にそびえる高館山にも高館城跡が残り、安藤勢が立てこもったと伝える。,坂本館から北に向かえば、そこは狼倉館のあった場所である。,こうした平時の居館と「詰の城」がセットになっているのも、東目屋では国吉館だけである。 / 五 東目屋地区の中世城館の特徴
通史編4(近・現代1) (東奥共同会の設立)

東奥共同会の設立 明治十五年(一八八二)十一月、青森県会議員で東奥義塾塾長の本多庸一は旧藩主の津軽家,これは、本多ら東奥義塾のグループが東奥共同会を作って自由民権運動を進めたことに対する弘前の保守士族の反撃,明治十四年六月四日の『青森新聞』に東奥共同会の会則が掲載されている。,その主義は、東奥の人民一致協同して国権を伸暢(しんちょう)し、日本帝国の安全を図るを主眼とし、第二に民権,5 ~俸禄問題を巡り士族と県当局の間に紛争起こる  8 権令菱田重禧免官となり、後任に北代正臣発令 / 東奥共同会の設立
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