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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (東亜連盟)

東亜連盟 佐藤正三は、昭和十三年一月十日召集され、旭川歩兵第二六連隊に入営、三ヵ月後、満州の駐屯地チチハル,日本の維新革命-東亜連盟結成こそこのフランスたらしめざる道と、次に伊東六十次郎の『東亜連盟結成編』に入,写真83 戦場の佐藤正三  東亜連盟は石原莞爾の唱えた日中提携の理論で、昭和十三年に公にされた。,られ、ついに十六年九月協会は解散し、東亜連盟同志会と改称して国防論を主とすることとなった。  ,「閣議決定により東亜連盟論禁圧を声明。奇怪なる哉。帝国の前途愈々暗澹(たん)たり。 / 東亜連盟
通史編5(近・現代2) (東亜連盟同志会の活動)

東亜連盟同志会の活動 このころ、佐藤正三を中心とした東京在住の養生会員を主要構成メンバーとした東亜連盟東京研究会,東亜連盟同志会になってから弘前は地方協議会を結成し、その組織、運動論議などで盛り上がっていた。,昭和十九年一月、東亜連盟同志会の指導者中山優の求めに応じて、佐藤は「大東亜戦争ノ戦争指導ニ就テ」を書き / 東亜連盟同志会の活動
通史編5(近・現代2) (弘前へ帰る)

弘前へ帰る 昭和十九年三月帰郷、五月東亜連盟青森支部の事務長となり、在職中の国策会社東亜通商を辞職、,指導者は佐藤正三の先輩で東亜連盟県支部長の鳴海理三郎だった。,昭和十九年、東亜連盟同志会の鳴海理三郎、小田桐孫一、佐藤正三らはいずれも弘前中学校の教師となったが、やがて,このころ、酵素農法の普及を図っていたが、養生会の活動も不活発となり、東亜連盟の活動も本部鶴岡の全国大会
通史編5(近・現代2) (戦後の佐藤正三)

佐藤は、二学期が始まった直後、弘中大陸班員が福士校長と敗戦原因で紛議を起こした責任をとって辞表を出し、東亜連盟活動,一月四日、マッカーサー元帥は国家主義団体として東亜連盟同志会の解散を命じた。,には青森県りんご協会に就職、二十四年二月、地方文化運動の一環として同人誌『道標』創刊、二十八年十月には東亜連盟再建
通史編5(近・現代2) (東門会の創立)

後輩の鳴海理三郎、佐藤正三、小田桐孫一らは東亜連盟活動をした。
通史編5(近・現代2) (帝大合格と結婚)

東亜問題研究会(のち東亜思想戦研究所)嘱託(しょくたく)として英国綜合経済研究所への出席が多く、さらに東亜連盟関係者
通史編5(近・現代2) (太平洋戦争始まる)

昭和十七年一月二日から四日まで、東亜連盟協会中央講習会が安房(あわ)小湊であり、石原莞爾、中山優らの講義
通史編5(近・現代2) (故郷(くに)を思う心)

そして政治的には五・一五事件、二・二六事件、東亜連盟活動などで志士的行動に身を投ずる人物を生んだ。
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