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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(東北振興)
東北
振興 昭和二年(一九二七)五月二十二日、
東北
振興会が再結成された。,
東北
振興会は八年十一月に活動の一環として、
東北
各県および中央の有志者、新聞関係者を招致して実行座談会を,そこで新聞社が、凶作問題に対する義捐金の募集や
東北
救済の特集記事、政財界人の
東北
振興論を特集すると、
東北
,の凶作対策として、九年十二月に
東北
振興調査会(後の内閣
東北
局)を設置し、
東北
振興を国策として取り上げたのはこうした,として仙台市に
東北
興業株式会社と
東北
電力株式会社を設立した。 /
東北
振興
通史編5(近・現代2)
(東北庁設置の要望)
東北
庁設置の要望 日中戦争が始まると、経済は統制色を帯び、軍需工場の設置も始まったが、弘前市においては,日中戦争の開始以前の昭和十年(一九三五)に、弘前商工会議所は日本商工会議所連合会において
東北
庁設置の要望,
東北
庁設置要望ノ件 一 我カ国産ハ輓近著シク長足ノ進歩ヲ遂ケ、凡ユル障壁ヲ突破シ「躍進日本」ノ産業ハ,ヲ一丸トシ、産業経済ヲ統制スル最高行政官庁、即チ内閣直属ノ
東北
庁ヲ設ケ、恒久ニ関スル行政ヲ以テ、財政経済,ヲ以テ編成セシ第八師団将兵ヲ以テ戦局ヲ告ケタルカ如キ、既ニ全世界ノ均シク認ムル処ナルニ、夫何ゾ
東北
民ヲ /
東北
庁設置の要望
通史編1(古代・中世)
(東北地方の古墳時代)
東北
地方の古墳時代 古墳時代とは、一般的には古墳の造営に象徴される時代を指す。,築造は三世紀中葉過ぎないし後半から七世紀後半に及ぶとされ、大和地方を中心として南は九州地方中部、北は
東北
地方南部,そこでまず、この時代の
東北
地方全般を概観しながら津軽地方の様子をみてゆくことにしたい。 ,古填時代前期には、
東北
地方南部では四世紀に属する福島県会津大塚山(あいづおおつかやま)古墳や宮城県遠見塚,写真1 遠見塚古墳 古墳を指標として概観した
東北
地方のこの時代のなかで、
東北
地方北部では三世紀末 /
東北
地方の古墳時代
通史編5(近・現代2)
(東北女子大学の開学)
東北
女子大学の開学 学校法人柴田学園では、かねてより四年制女子大学の設置を計画していたが、昭和四十四年,(一九六九)二月八日、
東北
女子大学の設置が文部省によって認可された。,同年三月一日、
東北
女子大学初代学長に前弘前大学学長佐藤煕が就任、三月三十一日には大学新校舎が落成、五月二十日弘前市民会館,
東北
女子大学は、昭和四十九年四月から家政学科のほかに、児童学科を増設した。,写真207
東北
女子大学(豊原・昭和50年頃) /
東北
女子大学の開学
通史編3(近世2)
(東北戊辰戦争の終結)
東北
戊辰戦争の終結 前述のように、野辺地戦争は、弘前藩の惨敗であった。,こうして、
東北
地方一帯が鎮静化し、弘前に本陣を置いていた奥羽鎮撫総督参謀醍醐忠敬も引き揚げを開始した。,列藩同盟諸藩の降伏による
東北
戦争の終結を受けて「家内年表」(『青森市史』)には「人気大ニ落着静謐ニ相成候,また、続々と解兵が続いていることもあり、
東北
戊辰戦争の終結は、一時的にしろ平和の到来を予感させるものであった /
東北
戊辰戦争の終結
通史編5(近・現代2)
(東北縦貫自動車道の全通)
東北
縦貫自動車道の全通
東北
縦貫自動車道は、青森線の十和田-碇ヶ関区間(二八・一キロメートル)が昭和六十一年七月三十日,この結果、
東北
縦貫自動車道の浦和-青森間(六七四・七キロメートル)が全線開通し、首都圏と青森市が一本の,この区間は、青森・秋田県境の山岳地帯を通るため、難工事であり、特に全長四二六五メートルと
東北
最長の坂梨,
東北
縦貫自動車道の全通により、首都圏と青森県は約二時間短縮されて約七時間半で結ばれることになり、地元では,また、弘南バスをはじめ国鉄、岩手県北、岩手中央の各バスでは、前年の春以来、
東北
新幹線に接続する特急バス /
東北
縦貫自動車道の全通
通史編1(古代・中世)
(東北地方の古墳文化)
東北
地方の古墳文化 中央政府を基準とした日本史の時代区分では、弥生時代に続いて、三世紀末ころから古墳時代,現在、
東北
地方最古の古墳とされているのは、会津坂下町(あいづばんげまち)の杵(きね)ガ森古墳で全長四六,残念ながら
東北
地方では、この会津大塚山古墳のほかに、その内部構造まで詳細に知られる古墳がまだ知られていないので,、確かなことはいえないが、早くも四世紀中には、
東北
南部のかなり広い地域が大和政権の影響下に入っていたとみてよいであろう,青森県域はもちろん、
東北
地方北部においては、南部とは対照的に、大和政権の文化の影響は極めて薄かったといえよう /
東北
地方の古墳文化
通史編5(近・現代2)
(東北女子短期大学の開学)
東北
女子短期大学の開学 昭和二十五年(一九五〇)三月十四日、
東北
女子短期大学の設置が文部省から認可された,短期大学制度第一回認可校で、これまでの
東北
女子専門学校が昇格したものである。,写真143 柴田学園本部と
東北
女子短期大学(上瓦ヶ町・昭和25年ごろ) 昭和二十七年三月には、 /
東北
女子短期大学の開学
通史編1(古代・中世)
(田村麻呂は東北人の英雄か)
田村麻呂は
東北
人の英雄か しかし田村麻呂は、地元の蝦夷の側から見れば征服者であって、なぜ田村麻呂が
東北
地方,にたつとき、現在のわれわれは、アイヌではないのであるから、田村麻呂はそのアイヌを追い払い、われわれの先祖を
東北
地方,こうしたことが背景にあって、田村麻呂信仰が
東北
地方全体に浸透していったものと思われる。 / 田村麻呂は
東北
人の英雄か
通史編1(古代・中世)
(東北地方北部の群集墳)
東北
地方北部の群集墳 後期の
東北
地方南部がこのような情勢にあったのと前後して、
東北
地方北部でも七世紀代,
東北
地方北部に分布する群集墳の規模からみて、それらが族長層の墳墓であるにしては多く、家族成員すべての墳墓,円形周溝墓というほぼ同一規模の墳墓が造られていることなども考慮すると、さきの被葬者の問題も合わせて、
東北
地方北部,八世紀代の県東側では、八戸市根城跡第一一〇号住居跡出土の一括土器群が七世紀前半~中葉の所産と考えられ、
東北
地方南部 /
東北
地方北部の群集墳
通史編5(近・現代2)
(連続する災害と東北振興政策)
連続する災害と
東北
振興政策 金融恐慌の影響が去らない昭和六年(一九三一)、北海道と
東北
地方を中心にやませが,こうした
東北
各地の災害と運動を背景に、昭和九年十二月二十六日、政府は内閣に
東北
振興調査会を設立し、
東北
振興政策,政府は国費をもって
東北
地方の救済と振興に着手したのである。,、中園裕「
東北
振興-地方からの声」沼田哲編『
東北
の成立と展開』岩田書院、二〇〇二年を参照)。 ,
東北
振興問題を考える場合、大手全国紙をはじめとする新聞・雑誌メディアが全国各地で起きた
東北
振興運動を積極的 / 連続する災害と
東北
振興政策
資料編1(考古編)
(2.東北地方における土器の出現)
2.
東北
地方における土器の出現
東北
地方における最古の土器の発見は、前述のように、柏倉亮吉・加藤稔により,その後、この種の土器は同県下の洞穴並びに岩陰遺跡から続々と発見されるにいたり*12、山形県が
東北
地方のみならず / 2.
東北
地方における土器の出現
資料編1(考古編)
(第3節 東北日本弧の古地理)
第3節
東北
日本弧の古地理 1970年代以降、島弧としての日本をプレートテクトニクスの立場から解釈する / 第3節
東北
日本弧の古地理
通史編3(近世2)
((一)東北諸藩と弘前藩)
(一)
東北
諸藩と弘前藩 新政府は二月九日、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王を東征総督に、,弘前藩は、あくまでも戦争の回避と藩体制の保全を第一としながらも、
東北
諸藩のこの動きには逆らうことができなかった / (一)
東北
諸藩と弘前藩
資料編1(考古編)
((1)東北地方南部以南との交易・交流)
(1)
東北
地方南部以南との交易・交流 先に述べたように、土器文化は、7・8世紀においては
東北
地方北部全域,しかし、律令国家による
東北
経営は、陸奥国あるいは出羽国の設置とともに、多くの城柵や官衙を拠点として、点,9世紀に入ると律令国家の支配地は、青森県を含む
東北
地方の全域にまで及んだと見られ、生活様式だけでなく、,精神文化に至るまで
東北
地方南部地域との大きな相違は認められなくなる。,12世紀は、奥州藤原氏が、平泉を拠点として
東北
地方のほぼ全域を支配した時期でもある。 / (1)
東北
地方南部以南との交易・交流
通史編1(古代・中世)
(田村麻呂と青森)
中央政府の
東北
経営が、現在の青森県域内の地にかかわるようになってくるのは、文室綿麻呂の時代まで待たなくてはならない,しかしながら、現青森県域にも、
東北
地方一般にそうであるように、少なからず坂上田村麻呂伝説が存在する。,
東北
地方には日本武尊・源義家・源義経といった数多くの英雄伝説が存在するが、田村麻呂の伝説は、もっとも
東北
地方
通史編5(近・現代2)
(鉄道の高速化)
減少に歯止めをかけるため、輸送サービスの質的向上を目的に、昭和五十年十一月一日から弘南鉄道弘南線では、
東北
地方,昭和五十七年六月には
東北
新幹線が盛岡-大宮間で開業したが、盛岡以北の着工のめどが立たないままでの開業ということから,青森県内の反応は冷ややかで、弘前駅には「祝
東北
新幹線開業」の垂れ幕一本が掲げられただけで、市内においても,一方、昭和六十一年六月には
東北
縦貫自動車道青森線の碇ヶ関-十和田(秋田県)間の開通により、青森-浦和(,埼玉県)間六七四・七 は七時間半で直結されることとなり、
東北
新幹線の開業とは対照的にお祝いムード一色
通史編5(近・現代2)
(高速交通体系の整備)
高速交通体系の整備 昭和四十一年七月、
東北
地方の高速交通体系の整備として、
東北
縦貫自動車道建設(岩槻,一方、同年六月、弘前市議会では平野部路線誘致を決議、市議会
東北
縦貫自動車道対策特別委員会を発足させ、平地路線,の成立に伴い、
東北
・北海道新幹線鉄道建設の最優先着工を要望する意見書が弘前市議会から政府へ提出された(,受けて、
東北
と北陸の両経済連合会が「日本海沿岸新幹線」の早期実現のため、政府の鉄道建設審議会に要望書を,このように
東北
縦貫自動車道および新幹線誘致に関しては、その実現に向けて弘前市の強い意気込みがあったが、
通史編5(近・現代2)
(移民問題の背景)
とくに凶作にあえぐ
東北
地方では、人口調整の意味からも積極的な移民政策が講じられていた。,距離的にも青森県や
東北
地方は満州国に近く、その意味で移民政策は大変重要視された。 ,募集地には第二・第八・第一四師団があり、
東北
各師団の管区に一致していた。 ,故に某地方から募集するとすれば、先づ
東北
地方を選ぶのが適当である」という理由が挙げられたことだろう。,その意味でこの移民政策は、
東北
救済の意味合いを強くもっていたのである。
通史編1(古代・中世)
(青森県内の田村麻呂伝説)
青森県内の田村麻呂伝説
東北
地方には田村麻呂建立といわれる観音が多くあるが、青森県内にも、小金山(こがねやま,延暦十二年は田村麻呂が征夷副使(大使は大伴弟麻呂)として、初めて
東北
に下った年で、同十五年は、田村麻呂,
東北
地方の田村麻呂関係寺社では多くが延暦十五年以降建立とされており、十二年まで遡るものはめずらしい。,実は県内でも
東北
地方全体を見渡しても、この大同二年創建説が一番多いのであるが(「大同」自体、
東北
地方では,こうした伝説が、天台宗の教線の
東北
地方への広がりとともに、当地に伝えられていたらしい。
通史編1(自然・原始)
(津軽への稲作の伝来)
弥生時代の始まりが西日本において今から約二四〇〇年前、
東北
北部などで約二三〇〇年前とすると、津軽地方へ,北九州などで大規模な稲作農耕の開始期と
東北
北部とは遅くみても一世紀の差であり、ことによるとその差は縮小,日本の食料供給地といわれる
東北
地方は、日本海側か夏には高温多湿により稲作に適し、太平洋側は、稲が伸長する,しかし
東北
北部で確実に稲作が行われたのは縄文終末以後のことである。 ,
東北
北部に弥生文化が伝わり、その文化の基盤である稲作が行われていたとする考えは、昭和二十年代に
東北
大学
通史編5(近・現代2)
(柴田女子高の活躍)
当時の柴田学園は、
東北
女子専門学校・柴田女子高・柴田中学校の学生・生徒合わせて一三〇〇人、教職員六三人,加えて
東北
栄養学校を開設、さらに
東北
女専を発展的に解消させた短大設置の件が文部大臣から認可になって、昭和二十五年五月十四日,には
東北
女子短期大学の開学式が挙行された。,写真138
東北
女子短期大学開学式で式辞を読む柴田やす学長 昭和二十八年、家庭科教育の指導校として
資料編1(考古編)
((2)9世紀~10世紀後半)
この時期の集落の様子や文物は、律令支配が直接及んだ
東北
南部地域ときわめて斉一性の高いものとなっている。,また土師器においては、前代では
東北
北部から北海道のほぼ全域を同一文化圏とする特徴を持っていたものが、津軽海峡,を境界とし
東北
北部全域が、
東北
南部あるいは北陸地方と同様な土器文化圏となる。
資料編1(考古編)
(〈引用・参考文献〉)
〈引用・参考文献〉 三宅徹也「
東北
各県の旧石器時代研究の歴史と現状」『旧石器時代の
東北
』 1981年
通史編5(近・現代2)
(市の衛生対策と生活改善運動)
衛生問題は弘前市を含む
東北
地方にとって深刻な問題だった。,
東北
地方の昭和農村恐慌は、生活風習と衛生設備が劣悪なことにも起因していたからである。,そのため
東北
振興当局と日本学術振興会が中心となって、
東北
地方の生活改善を督促する運動が高まった。,
東北
生活更新会は文字どおり
東北
地方の生活改善運動を推進する団体だった。,
東北
農山漁村の生活改善運動には、弘前市出身の今和次郎も大きく関わっていた。
通史編5(近・現代2)
(労働組合と賃金闘争)
り要員によって組合側の敗北となり、その後、会社の組合弾圧が続いたので、同年十月二十四日、上部団体私鉄
東北
地方連合会,この
東北
地連は、二十二年十一月、弘南鉄道労組らの働きかけによって日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)の,三十年二月には労働協約の完全締結を求めて、
東北
地連六組合と共闘も行った。
資料編1(考古編)
(5.青森県における弥生時代の終局)
5.青森県における弥生時代の終局
東北
地方北部の弥生文化も、中期後半の田舎館式期を境にして衰退したのであろうか,そのような状況のなかで起こった北海道の後北式土器の到来について、中村五郎は「
東北
地方の過疎化-集落の激減,また佐藤信行は、「当時の
東北
北部の土着文化の零落が大きな一因であったと考えられ、(中略)人口激減化の現象,が
東北
北部の弥生末期~古墳時代前半期にあったのではないかとも考えられる」*160と弥生時代後期に起こった,いずれにしても、
東北
地方の北部を中心に、後北式土器の担い手たちが来着し、本拠地(北海道)と同様な生業を
通史編5(近・現代2)
(ボクシング部の全国制覇)
四十八年、
東北
高校ボクシング選手権の優勝に続き、全国高校総体でも団体優勝を遂げたのである。,個人の部でも、全国大会や
東北
大会での大車輪の健闘ぶりは、昭和後期を飾る東工校の歴史に金字塔を打ち立てることになった,写真199 弘前電波高校
東北
高校ボクシング選手権大会優勝の新聞記事(昭和48年7月2日) 部活動
通史編5(近・現代2)
(弘前手織)
大正九年(一九二〇)において、本市における織物会社は
東北
織物株式会社、竹内機業株式会社、津軽織物株式会社,そのための打開策として企業合併が必要となり、大正十四年八月、
東北
織物が竹内機業と近藤織物を吸収合併して,
東北
織物会社は、昭和三年(一九二八)に綿ネル(平織りまたは綾織りにして、両面に起毛した柔らかな紡毛織物,十八年、国家の企業統制により、本市における織物工場は
東北
織物と葛西右平の二工場のみとなり、その他の工場,写真35
東北
織物工場 写真36 葛西織物工場
資料編1(考古編)
(1.古墳時代の概観)
1.古墳時代の概観 近年の考古学研究において、4世紀から6世紀までの古墳時代併行期には、
東北
地方に二,一つは福島県・宮城県・山形県を中心とする
東北
地方南部の古墳文化であり、もう一つは青森県・秋田県・岩手県,
東北
地方においては、古墳時代前期(4世紀)に属する福島県会津大塚山古墳や宮城県遠見塚古墳をはじめとして,、この時期の古墳が
東北
南部地域に50基前後確認されている。,一方、この時期、
東北
地方北部地域から北海道にかけては、続縄文文化が展開している。
通史編5(近・現代2)
(昭和初期の恐慌と冷害凶作)
農業恐慌と移入米の激増が「昭和農村恐慌」を現出し、特に
東北
では冷害凶作が追い打ちをかけた。 ,
東北
地方の農村疲弊は、この時期の最大の社会問題の一つとして取り上げられ、食堂列車から投げられる残飯に群,れる子供達の写真や家族の困窮のための「婦女子の身売り」の悲話は、
東北
農村に国民の関心を集めることになった,(帝国農会『復刻版 恐慌下の
東北
農村』不二出版、一九八四年)。,なお、年間を通せば県外に身売りされた娘は県全体で二〇〇〇名を超えると推測されている(『新聞資料
東北
大凶作
通史編1(古代・中世)
(奥州惣奉行制の確立)
奥州惣奉行制の確立 こうして日本史上初めて、
東北
のほぼ全域が統一国家の領域に組み込まれることとなった,文治六年(一一九〇)三月十五日、平泉と並ぶもう一つの
東北
支配の要衝多賀国府に、新たに伊沢家景(いさわいえかげ,こうして
東北
地方には、頼朝の意向が直接に及ぶ支配体制が確立していった。
資料編1(考古編)
(-文献リスト-)
関しては、青森県発行による「青森県の地質」(1972)を、最近のものに関しては、北村信(編)「新生代
東北
本州弧地質資料集,」(1986)及び長谷・村岡による5万分の1地質図幅「黒石」(1989)「日本地方地質誌(
東北
地方)」,.8, P.42-44 ◇32 岩井武彦・酒井軍治郎(1962) 青森県弘前市清水のカオリン粘土.
東北
,(1964) 青森県平賀町尾崎鉱山の重晶石.
東北
の工業用鉱物資源,
東北
地方工業鉱物開発委員会,第4集,,.12-22 ◇202 村山磐・松本秀明・宮城豊彦(1984) 津軽平野の沖積層およびその周辺の地形.
東北
学院大学
東北
文化研究所紀要
通史編1(古代・中世)
(人間との共生動物の分布)
北海道のアイヌ犬や
東北
の秋田犬の分子遺伝学の研究によれば、それらは典型的な南アジアタイプの遺伝子をもち,また日本産ハツカネズミのミトコンドリアDNAの分析からも、北海道・
東北
には東南アジア系の、関東以西には
通史編5(近・現代2)
(岩木川改修運動)
岩木川改修運動 「昭和六年大凶作」と「昭和九年大凶作」は、青森県だけでなく
東北
地方全体に激甚な被害を,この運動は期せずして
東北
振興政策に関する青森県内からの最大・最多数の陳情となった。,青森県民にとって、「昭和十年大水害」は致命的・壊滅的な打撃となり、県当局をはじめ市町村当局や関係団体は、
東北
振興当局,青森県民が叫び続けた岩木川改修問題も、日中戦争以降、太平洋戦争と突き進むなかで、国防国家構築のために
東北
振興政策
通史編2(近世1)
(近世における史書の編纂)
記述は主として、長谷川成一「津軽藩藩政文書の基礎的研究(一)」『文経論叢』一五―一・文学科篇、同「近世
東北
大名,の自己認識―北奥と南奥の比較から―」渡辺信夫編『
東北
の歴史再発見―国際化の時代をみつめて―』一九九七年
通史編1(古代・中世)
(国造の分布)
残念ながら『古事記』や『日本書紀』の所伝中には、
東北
地方の国造について何ら述べられていないので、その実態,図11
東北
地方の国造の分布図(虎尾俊哉原図) ここに見られる国造の分布域は、先に触れた前方後円墳,
東北
地方では、阿倍・大伴・上毛野氏と深くかかわる部民制が及んでいたらしい。,これらは大和政権の
東北
経営とかかわった豪族たちであった。
通史編1(古代・中世)
(エミシとは)
エミシとは 大和政権下の中央の人々は、
東北
地方を辺境と見なして、そこに住む辺民を「エミシ」と呼びならわしていた,破った後、さらにその残党に、酒を呑ませて酔い潰れたところを一気に全滅させたときのものであって、直接に
東北
地方
資料編1(考古編)
((2)太平洋戦争後から現代まで)
これまでは
東北
地方北部で円形の窪地として確認されている多くの竪穴住居跡の構造は、すべて円形プランをなすものと,の竪穴群と同時期のもので、西日本の弥生時代の環濠集落のように「外敵に対する備え」としてとらえ、今日の
東北
地方北部,中でも桜井による
東北
地方北部の土師器編年に関する論稿は、その後の青森県の古代遺跡の年代観の指標となった,なお、土師器編年に関しては、北日本に多大な影響を与えた氏家和典による「
東北
土師器の型式分類とその編年」,昭和50年代後半から近年まで、遺跡調査の事例が
東北
各地で飛躍的に増加すると、同じ
東北
地方の中でも、本県
通史編4(近・現代1)
(第五十九銀行の大増資)
には第一回の払込みを完了し、公称資本金一〇〇〇万円、払込済み四六三万七五〇〇円となり、表57のように
東北
地方,表57 資本金規模による
東北
六県上位11行 (大正9年末) 行 名 県 公称資本金 払込資本金 順位,額 順位 金 額 円 円 第五十九 青森 1 10,000,000 1 4,637,500
東北
実業
資料編1(考古編)
(〈参考文献〉)
〈参考文献〉 Ⅰ)生出慶司・中川久夫・蟹沢聰史編(1989) 日本の地質2「
東北
地方」.共立出版(株,小貫義男・三位秀夫・島田昱郎・竹内貞子・石田琢二・斎藤常正(1963) 青森県津軽十三湖地域の沖積層.
東北
大学地質学古生物学教室邦文報告
通史編5(近・現代2)
(弘前福祉短期大学の開学)
弘前調理師専門学校となる)に始まり、昭和六十三年四月に開設された弘前介護福祉専門学校(介護福祉専門学校としては
東北
初,学校法人城東学園弘前ホスピタリティーアカデミー(作業療法科、介護福祉科、調理科、言語聴覚療法科〔平成十年四月
東北
初
通史編4(近・現代1)
(学事奨励と天皇御巡幸)
九年七月十五日、
東北
巡幸の天皇は青森小学に行幸され、親しく生徒の授業を天覧されたのである。,十三年一月、元老院議官佐々木高行勅命により
東北
各地視察、朝陽小学において弘前及び中郡各校代表の集合試験,十四年九月、天皇再度の
東北
巡幸。有栖川親王弘前内の五校を代巡。
通史編4(近・現代1)
(弘中のスポーツ)
大正六年七月の県下中等学校武道大会で優勝、さらに十三年の二高(現
東北
大学)主催の
東北
大会で準決勝、弘高主催,かれた大正十五年の全日本スキー選手権大会県予選では優勝しているし、陸上競技部もまた十三年の極東大会兼
東北
予選北日本選手権大会
通史編1(自然・原始)
(弥生文化の内容)
石器類は次第にその地位を失って、金属器(おもに鉄器)が利器の主流を占めるようになり、それらの器具を使って
東北
北部,西日本から稲作農耕を伴って到来した弥生文化は、縄文文化の強い
東北
北部の地に入ると、さまざまな変革をもたらしたであろう,多量の弥生時代の銅剣 (島根県埋蔵文化財調査センター提供) 近世ならびに近現代に入っても、
東北
北部,
東北
北部の地は次第に北からの人々が津軽海峡を越えて移住し、北の文化(北大(ほくだい)式・江別(えべつ)
資料編1(考古編)
((5)縄文時代後期)
(5)縄文時代後期 先の中期後半期に
東北
地方南部から北上し、円筒土器文化を包括した大木系土器文化も、,それに続く堀之内式・加曽利各式土器文化の席巻を受けてその中に埋没し、さらにこれらの土器文化は北上を重ねて
東北
地方北部,青森県では、
東北
地方南部の門前式・宮戸各式(Ⅰ~Ⅲにそれぞれのa・b式がある)などの影響を受けた弘前市十腰内遺跡出土,) 図10 縄文時代後期の土器(2) 十腰内第Ⅳ式壺形土器… 弘前市・十面沢遺跡 (
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大学蔵
資料編1(考古編)
((1)7世紀~8世紀)
一方、政治的な要因としては、古代律令国家による
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経営(軍事的圧迫)の結果も考えられる。 ,を持ち、作りつけのかまどが各戸に設置され、しかも集落毎にいくつかの高床式の倉庫を持つなど、集落構造は
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地方南部,土器生産においては、須恵器は北陸や
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地方南部以南地域からの移入品で需要を満しているものの、土師器は全,これらの特徴は、
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北部全域と北海道のほぼ全域に共通するものであり、古墳時代併行期の続縄文(後北式・北大式
通史編4(近・現代1)
(その他の会社)
その他の会社 上記以外の会社を払い込み資本金順に見れば、市内の会社としては、
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織物株式会社(払込資本金,表55 弘前市会社一覧(大正14年) 名 称 公称資本 払込済資本 業 種 創立年月 所在地
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織物株式会社,大正2年3月 同 株式会社衛生湯 30,000 30,000 浴場経營 同 10年4月 土手町 『
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日本
通史編1(自然・原始)
(亀ヶ岡文化の広がり)
木造町・亀ヶ岡遺跡 (個人蔵) 大洞BC式注口土器 弘前市・十腰内遺跡(旧カメコ山) (
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大学文学部考古学研究室蔵,) 大洞C1式壺形土器 弘前市・十腰内遺跡(旧カメコ山) (
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大学文学部考古学研究室蔵
通史編5(近・現代2)
(ニッカウヰスキーの進出)
同年七月一日付で弘前税務署からウイスキー生産の免許を得、北海道余市工場から原酒ウイスキーを供給し、弘前工場で
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向,、ウイスキーの調合生産のほか、ブランデーやアップルワインなどりんごを原料とした洋酒が製造され、商品は
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地方,一、
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六県を対象に出荷する以上、新工場を仙台に建設するのが妥当だとの意見もあったが、弘前市をえらんだのは,新工場ではオートメーションの技術を大幅に取り入れたので、日産高は現在の三倍に増強され、年々増加する
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地方
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