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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (秀吉の東国への停戦令)

秀吉の東国への停戦令 天正十四年(一五八六)五月二十五日、秀吉は白河(しらかわ)氏(本拠は陸奥白河であるが,①下野佐野(さの)氏の家督を北条氏忠(うじただ)が継承することの承認、②徳川家康の赦免(当初、秀吉の東国出馬,景勝に関東から奥羽にかけての申し次ぎ・取り次ぎを果たさせようとしたようである(以上の記述は、粟野俊之「東国 / 秀吉の東国への停戦令
通史編1(古代・中世) (四 執権時頼の東国廻国をめぐって)

四 執権時頼の東国廻国をめぐって 鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』は、正元元年(一二五九)と弘長二年(一二六二,この出羽・陸奥両国における正嘉二年(一二五八)の一件が、時頼をして正元元年(一二五九)の東国廻国へと向,ここでは、時頼を東国への旅立ちに誘(いざ)ない、かつそれを暗示させるのは、一つには、正嘉二年における出羽,この二つの根拠は、ともに時頼の東国観ないし言動にかかわる、その意味では、時頼の内なる個人的レベルに関するものである / 四 執権時頼の東国廻国をめぐって
通史編1(古代・中世) (三 北奥宗教界の中世的転回)

鎌倉前期の幕府は、奥州平定に絡(から)む源義経・平泉藤原氏一族の討滅に流した非情の血を想念してか、その東国,それゆえ、この時期においては幕府と東国地域とが宗教史的にそう際立ったかかわりを持つことは少なく、その意味,前述の「予期せぬ大きな変化」とはまさに、幕府と東国とのあいだに発生したこの関係にほかならない。,右の(一)と(二)はともに幕府による政治的ないし経済的な東国支配を示すものである。,この幕府による東国経営が始まったのは、なにも泰時や時頼からのことではない。
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

この天台寺院の東国建立も、たしかに同宗の東国布教線の拡大を意味するものであるが、実はこれにも増して、天台宗,と東国との結び付きの強さを証明してくれる興味深いことがある。,この天台座主のポストをほぼ東国出身者が独占したという意味は決して小さくはなく、陰に陽に東国仏教の世界と,における東国講読師の補任・東国天台別院・東国出身者による天台座主の独占という東国と天台宗との不離不即の,関係も、八世紀末葉のこの道忠禅師による東国化導を下敷きにしていることが推察される。
通史編1(古代・中世) (鬼王・安日)

でて、安日と代を諍(あらそ)いし時、天霊より剣三腰雨下り、安日が悪逆を鎮めて天王勲をなし、安日が部類を東国外浜,これによれば、安日は神武天皇に敗れて一族もろとも「東国外浜」へ追放され、その子孫が蝦夷になったという。
通史編2(近世1) (伏見築城と奥羽大名)

大名らが朝鮮半島に渡海することなく名護屋に在陣していた時、吉川広家(きっかわひろいえ)宛て朱印状で、「東国,この築城では明らかに西国の大名らは除外され、東国の大名らを上洛させたうえで普請を行おうとしていたことが,しかし、実際は、『当代記』所収の「伏見普請役之帳」によれば文禄三年に普請を課されたのは、大部分が東国の
通史編1(古代・中世) (日の本の将軍と地域の自立性)

中世の東国においては将門は東国自立の象徴であり、源頼朝も語り物の世界ではそのように称されていた。
資料編1(古代・中世編) ([七世紀以前])

●景行天皇二十五年、武内宿禰を北陸・東国に派遣。同二十七年、東夷の状態を報告。,●景行天皇四十年、東国で蝦夷の反乱が勃発。日本武尊の東征。
通史編1(古代・中世) (日の本将軍の多面性)

日の本将軍の呼称は鎮守府将軍と重複視され、室町幕府の北方政策の一端を担うような存在であり、一方では、東国
通史編1(古代・中世) (田村麻呂と観音信仰)

『清水寺縁起』によると、無事東国を平定した田村麻呂が、延暦十七年(七九八)に伽藍(がらん)を造って観音本像
通史編2(近世1) (関東・奥惣無事令)

特に、「惣無事」という言葉は、東国ではこれ以前から紛争解決の手段を表す言葉として、一般的に使用されていたものであり,、戦国期の東国領主が普遍的に使っていたことを前提としていたものであるという(粟野前掲論文)。,下向した経験を持つ、金山宗洗(かなやまそうせん)がその使者として派遣され、執行されたという(粟野前掲「東国
通史編1(古代・中世) (鎮守府将軍秀衡)

鎮守府将軍秀衡 東国を基盤に軍事政権樹立を目指す源頼朝にとって、東北地方への勢力拡大は重大事であり、
通史編1(古代・中世) (治承・寿永内乱下の秀衡)

これは東国に政権基盤を築きつつある頼朝が、東国の主=「東海道の惣官」として、「奥六郡の主」秀衡をその下
通史編1(古代・中世) (為信の離反)

えたのは、譜代の家臣団のみならず、安藤・南部両氏の侵攻によって浪人となった隣国の比内・鹿角の領主層や、東国
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

こうしてみれば、「古ノ蝦夷国界」を「中ゴロノ蝦夷国界」へと北進させていく原動力は、第一義的には国家権力による東国経営,東国の古代人を「日本人」化に導いたのは、実は、この政治的な営みを連動した寺社の世界であった。,中世の東国の人々は日本的な神々を祀る神社の世界に、「日本人」としての意識=アイデンティティを抱いたのであり
通史編2(近世1) (秀吉による朝鮮出兵の背景)

また、翌天正十六年四月、豊臣政権の東国政策を担当した奉行富田知信(とみたとものぶ)は、奥州の白川義親(
通史編2(近世1) (伏見指月城の普請)

秀次が石田三成らから謀反の嫌疑をかけられたのは、豊臣政権内の分権派である徳川家康・前田利家をはじめ東国
通史編1(古代・中世) (奥州合戦の勃発)

東国に軍事政権を確立しようとしている頼朝にとっては、その最大の邪魔者の平泉藤原氏を除くのは、幕府成立の
通史編2(近世1) (九戸一揆の意義)

また、この一揆鎮圧のために津軽氏を含む東国の大名衆を軍事動員できたことにより、秀吉は奥羽・「日の本」までに
通史編2(近世1) (北奥羽の大名の動向)

豊臣政権の東国政策は、特に家康の臣従以前は増田長盛(ましたながもり)・石田三成を機軸とし、上杉―佐竹・
資料編1(古代・中世編) ([十二世紀])

●養和元年(一一八一)九月七日、東国より伊勢太神宮へ告文。
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

図14.肥前名護屋城復元模型  この朝鮮出兵に際し伊達政宗・上杉景勝・徳川家康ほかの東国,『多聞院日記』天正二十年二月二十五日条)、三月十七日には、伊達政宗・南部信直・上杉景勝・佐竹義宣らの東国
通史編1(古代・中世) (中世の境界認識)

(中略)以二左御足一踐二東国外浜一見進候、東无二浅(残)所一秀衡館可レ有二御知行一御夢想。
資料編1(考古編) (第6節 金属製品)

1 1 1 1 18 海東重宝 高麗 1097 1 1 1 東國通宝,高麗 1097 7 東國重宝 高麗 1097 2
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

した「藩翰譜(はんかんぷ)」の津軽氏の項(『新編藩翰譜』四 一九七七年 新人物往来社刊)では、為信が「東国
資料編1(古代・中世編) ([九世紀])

●延暦二十一年(八〇二)正月十一日、東国などの浪人四〇〇〇人を胆沢城に移配。
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと奥羽の情勢)

関東の大名が国元に戻った後(「政宗君治家記録引証記」、「貞山公治家記録」)、六月十六日、大坂城を発して東国
通史編2(近世1) (豊臣再仕置軍の奥州下向)

惣無事令によってその手中に収めた軍事動員権が実際に実現可能かどうか、この「奥州奥郡」の仕置を契機に一挙に東国
通史編1(古代・中世) (新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)

339    三 北奥宗教界の中世的転回 …………………………………  347    四 執権時頼の東国廻国
通史編2(近世1) (名護屋における「日本之つき合」)

なものにしようとする奉行衆の石田三成(いしだみつなり)や増田長盛(ましたながもり)ら吏僚派グループと、東国政策
通史編2(近世1) (津軽家宛ての領知宛行状と領知高の変動)

地域の大名を対象にしたものであった(藤井譲治『日本の歴史 ⑫ 江戸開幕』一九九二年 集英社刊)ために、東国
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

……………………………… 日本書紀 2 ●景行天皇二十五年、武内宿禰を北陸・東国に派遣。,……………………………… 日本書紀 2 ●景行天皇四十年、東国で蝦夷の反乱が勃発。日本武尊の東征。,……………………………… 日本紀略 56 ●延暦二十一年(八〇二)正月十一日、東国などの浪人四〇〇〇人,………………………………… 玉葉 138 ●養和元年(一一八一)九月七日、東国より伊勢太神宮へ告文。
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