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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (夷島流刑と東夷成敗権)

夷島流刑と東夷成敗権 当時の幕府・六波羅探題の法律書『沙汰未練書』には「武家ノ沙汰」の一つとして「東夷成敗,東夷トハ蝦子(えぞ)事也」とあるが(史料六一五)、夷島への流刑行為はこの幕府独自の権限である「東夷成敗権 / 夷島流刑と東夷成敗権
通史編1(古代・中世) (「東夷征討」祈願)

「東夷征討」祈願 このような清新で改革の機運に満ちた時代の雰囲気のなかで、年号が「延久」と改められる,その直後、後三条天皇は国家鎮護の軍神である石清水八幡宮に行幸し大般若経を供養して「征討東夷」の祈願を行,この事績を伝える『皇代記』(石清水八幡宮記録第二八冊)には「頼義征討東夷之故也」と記され、一見すると七年前,こうした当時の動きを踏まえると、先に触れた『皇代記』の「頼義、征討東夷之故也」なる記述は、あるいは「頼俊,、征討東夷之故也」の誤写であったかもしれない(現在伝えられているものは近世の写本である)。 / 「東夷征討」祈願
通史編1(古代・中世) (蝦夷管領)

『保暦間記』(写真129)に「彼等カ先祖安藤五郎ト云ハ、東夷ノ堅メニ、義時カ代官トシテ、津軽ニ置タリケルカ,この蝦夷管領職は、先の『沙汰未練書』にみえる「武家ノ沙汰」の一つとしての東夷成敗権(史料六一五)を体現,鎌倉殿の夷島流刑といった行為は、まさに鎌倉殿が京都の朝廷より付与された「東夷成敗権」に基づくものなのであり,こうした東夷成敗権なるものが設定された背景には、院政期(ちょうど道南地方で擦文文化が終焉を迎える時期)
通史編1(古代・中世) (田村麻呂と観音信仰)

旅の僧が、京都の清水寺(写真53)に参詣した際に、田村麻呂の霊があらわれて観音の功徳を述べ、また彼の東夷征討
通史編1(古代・中世) (秋田家系図)

従二貞秀一以来、以二安東太郎一、為二当家仮名一」とし、その子堯秀(安東五郎)について「為二平義時代官一、守-二護東夷一
通史編1(古代・中世) (蝦夷の乱と安藤氏の乱)

つまり、この乱は、第一義的には、実は中世国家の東夷成敗権と密接な関係を持つ「蝦夷」の反乱なのであり、安藤氏一族内部,『諏方大明神画詞』(史料六一七)や『保暦間記』(史料六一六)がこの事件を取り上げたのも、まさにそれが東夷
資料編3(近世編2) ([口絵])

神社微細社司由緒調書上帳(本文史料421号) 曹洞諸寺院縁起志 (本文史料四一四号) 東夷茗話
通史編1(古代・中世) (足利尊氏の離反)

鎮守府将軍に任ぜられており(征夷大将軍には、すぐ後に護良(もりよし)親王が任じられた)、鎌倉幕府の有していた東夷成敗権
資料編1(古代・中世編) ([七世紀以前])

同二十七年、東夷の状態を報告。 ●景行天皇四十年、東国で蝦夷の反乱が勃発。日本武尊の東征。
通史編1(古代・中世) (エゾ=アイヌ)

のちに詳しく触れるが、後三条天皇の東夷征討による、本州北端に至るまでの平定によって郡郷制の施行が押し進
通史編1(古代・中世) (乳井福王寺の伝承)

福王寺は坂上田村麻呂の創建になるが、いったん荒廃したものを承暦二年(一〇七八)、白河天皇の勅願により「東夷調伏
通史編1(古代・中世) (安倍氏の登場)

父祖忠頼(ただより)、東夷の酋長となり、威名大いにふるい、村落皆服す。
通史編1(古代・中世) (蝦夷か蝦夷の支配者か)

現存最古の史料であると思われる『諏方大明神画詞』(史料六一七)においては、安藤氏を安倍氏の後裔である「東夷
通史編1(古代・中世) (阿弖流為の投降)

「私はかつて数十万の兵を率いて東夷を征討することがあったが、天威を頼って向かうところ敵なしであった。
通史編1(古代・中世) (三 北奥宗教界の中世的転回)

幕府のいわゆる「東夷成敗権」なるものは、前述したように遠く源頼朝に遡源し、それがいくつかの段階を経て時頼,武家其濫吹を鎮護せんために、安藤太と云う者を蝦夷管領とす」(『諏方大明神画詞』史料六一七)「安藤五郎ト云者、東夷之堅,(『異本伯耆巻』)という三つの史料が伝えるように、東国、とりわけ北辺の地は津軽安藤氏を「蝦夷管領」「東夷之堅
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

まず、「蝦夷管領」津軽安藤氏の祖たる「東夷の酋長」「六箇郡之司」の安倍氏は、その政治的拠点の十三湊に広,また、安倍氏と同様に「東夷之遠酋」あるいは「俘囚之上頭」というごとく、夷社会の統轄者を自称する平泉藤原氏造営,しじゅうひゃくいんねんしゅう)』に慈覚大師円仁の事例として、「只非二山上洛下畿内近(ママ)国耳一、他導遙過二東夷栖一,謂阿遮羅千坊十三(トサ)千坊東ノ嶽千坊者南部迄有ト云神宮寺阿遮羅千坊之一也ト云延暦年中田村麻呂請テ二東夷征伐之勅,東夷調伏のため (8) 神宮寺 同右 大同二年 天正十五年に真言宗に改宗、元和期旧に復す (9) 東福院
資料編1(古代・中世編) (五 乳井地区の城館群と宗教的領域)

『津軽一統志』によると、乳井福王寺は、承暦二年(一〇七八)、白河天皇が「東夷調伏」のため毘沙門天を安置
通史編1(古代・中世) (新編 弘前市史 通史編1(古代・中世) 目次)

 192    四 中世前期の交易 ……………………………………………  206 第二節 鎌倉幕府の東夷成敗権,   五 御内人の世界 ………………………………………………  254    六 境界の地津軽と「東夷成敗
通史編1(古代・中世) (蝦蛦)

また『日本書紀』景行(けいこう)天皇四十年条(写真10)の、天皇が日本武尊に東夷征討を命じた詔(みことのり
通史編1(古代・中世) (延久蝦夷合戦の実相)

そうした大規模動員であっただけに遠征の準備には相当の時間を要し、おそらく「東夷征討」祈願直後の延久元年夏
通史編1(古代・中世) (二 北奥宗教界を彩る中世的寺社)

高伯寺 大鰐町 真言宗 大鰐村蔵館村は『阿闍羅山の記』に、大同年中に田村麻呂の参詣あり、東夷征伐を
資料編1(古代・中世編) ([十四世紀])

●このころ、沙汰未練書成り、東夷成敗権を規定。
通史編1(古代・中世) (四 執権時頼の東国廻国をめぐって)

一つは正元元年の前年の正嘉二年(一二五八)に、時頼のみならず幕府が長いこと、「東夷成敗」の地としてその
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

同二十七年、東夷の状態を報告。,………………………… 南部家文書 173 ●このころ、沙汰未練書成り、東夷成敗権を規定。
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