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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編5(近・現代2) (東奥美術展)

昭和六年の秋には、青森県下全域を対象として、東奥日報社が主催する「東奥美術展」が東奥美術社を包括する形,東奥日報社は東奥美術展を開催するまでに、大正十五年(一九二六)十月に一万二〇〇〇号の発刊を記念して、同,じく県下全域を対象とする「東奥日報紙一万二千号発刊記念総合趣味展覧会」を開催していた。,この成果を踏まえた上での、昭和六年の東奥美術展の開催であった。  ,東奥美術展は、大正六年に前田照雲が立ち上げた六花会から始まる、北溟会、白曜会、東奥美術社と、県下の美術 / 東奥美術展
通史編3(近世2) (東奥義塾)

東奥義塾 明治五年五月、漢学校と英学校を合併する議が起こり、追手門外の旧藩軍事局の建物(寛政八年稽古館,かくして稽古館跡に私立東奥義塾が誕生するはこびとなった。,東奥義塾は漢・英の二学部に新たに小学部を設け、士族だけではなく一般庶民の子弟や女子の入学も認め、四〇〇 / 東奥義塾
通史編4(近・現代1) (東奥義塾開学)

東奥義塾開学 明治五年十一月、東奥義塾が開学した。,東奥義塾はその中の一つであった。,写真39 津軽承昭公から東奥義塾へ寄附金調書(菊池九郎筆)  東奥義塾開学の中心となったのは、兼松成言,そのうち、東奥義塾の正史である『東奥義塾一覧』に結社人筆頭で名前が挙げられた兼松成言は、弘前藩において,特に当時二十代の若者だった菊池は、財政面など東奥義塾の実質的な経営を一手に引き受けており、「東奥義塾の / 東奥義塾開学
通史編5(近・現代2) (東奥義塾幼稚園)

東奥義塾幼稚園 四十四年(一九六九)四月四日、城西四丁目二番地九に私立東奥義塾幼稚園が開園された。,学校法人東奥義塾が、新しく造成された城西団地住民のために設立したもので、三学級、教職員四人で発足、初代園長,東奥義塾幼稚園は、東奥義塾の石川移転に伴い、平成四年(一九九二)四月一日廃園となった。 / 東奥義塾幼稚園
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の再興なる)

東奥義塾の再興なる 大正三年(一九一四)三月、県立弘前中学校東奥義塾は、五〇人の卒業生を送り出したのを,東奥義塾が公立へ移されたのは、わが国経済界の不況による経営難が拍車をかけたのである。,メソジスト派に属する弘前教会が、東奥義塾出身者によって創設されたことや、かねてから東奥義塾の廃校に同情,『東奥義塾再興十年史』は次のように記している。,然るに道岡英彦はその校舎は所有者たる東奥義塾育英会が東奥義塾に寄付の意志の有無に係らず県は之を永久に借用 / 東奥義塾の再興なる
通史編5(近・現代2) (東奥義塾の昭和)

東奥義塾の昭和 大正十五年、東奥義塾は再興五年目を迎えた。,藤田謙一は津軽藩士明石永吉の次男で、東奥義塾の卒業生であった。,五年七月、東奥義塾は火災に見舞われた。全職員が塾長宅に招待されていて不在のときに起こった。,しかし、世界大恐慌の渦中にあった経済界は、多難な時期を迎えており、東奥義塾も例外ではなかった。,写真66 東奥義塾学徒動員(川崎・昭和19年8月) / 東奥義塾の昭和
通史編5(近・現代2) (新生東奥義塾の躍進)

新生東奥義塾の躍進 東奧義塾の目標とする指針は、「キリスト教精神による人格の形成、そしてスポーツの奨励,また、私学助成運動も精力的に続けられ、公私格差是正のために取り組んできた東奥義塾の側面も高く評価されるべきであろう,東奥義塾は、大正十一年に再興されたとき、制服に背広型を採用した。,昭和五十七年(一九八二)、東奥義塾高校は開学百十周年を迎えた。,西に秀峰岩木山を眺望する緑と自然に恵まれた教育環境は、幾多の苦難をくぐり抜けてきた新生東奥義塾のキャンパス / 新生東奥義塾の躍進
通史編4(近・現代1) (東奥共同会の設立)

東奥共同会の設立 明治十五年(一八八二)十一月、青森県会議員で東奥義塾塾長の本多庸一は旧藩主の津軽家,これは、本多ら東奥義塾のグループが東奥共同会を作って自由民権運動を進めたことに対する弘前の保守士族の反撃,明治十四年六月四日の『青森新聞』に東奥共同会の会則が掲載されている。,その主義は、東奥の人民一致協同して国権を伸暢(しんちょう)し、日本帝国の安全を図るを主眼とし、第二に民権,東奥共同会の主要メンバーは、菊池九郎、本多庸一のほか榊喜洋芽(さかききよめ)、田中耕一、伴野雄七郎(とものゆうしちろう / 東奥共同会の設立
通史編4(近・現代1) (三 東奥義塾とキリスト教)

三 東奥義塾とキリスト教 明治五年(一八七二)の学制頒布により、日本の教育制度は大きく変わった。,ここでは、弘前での私立教育のうち、明治初期の東奥義塾を中心に記述する。,東奥義塾は旧藩学校を継承して設立され、津軽地方の教育体制の中心であったとともに、同地方ヘキリスト教や自由民権運動,が広まる拠点でもあった(なお、東奥義塾に関連する研究及び研究史については北原かな子『洋学受容と地方の近代 / 三 東奥義塾とキリスト教
通史編4(近・現代1) (東奥義塾の啓蒙活動)

東奥義塾の啓蒙活動 青森県は創県以来、野田大参事と菱田権令の確執、維新政府の近代化政策への一部弘前士族,中央役人が目を見張るのは、第一は、明治十一年の『日本奥地紀行』の著者イサベラ・バードにカレッジと言われた東奥義塾,この中で、保守勢力にとって東奥義塾の開化主義教育やキリスト教は好ましくなかった。,青森県では明治八年六月、東奥義塾の生徒で当時十七歳の工藤覚蔵(のちの外崎覚)が「君民共治の立憲制度」を,明治十一年に十二歳で東奥義塾に入学した菊池武徳(たけのり)(のち代議士)は、このころの義塾の活気ある状況 / 東奥義塾の啓蒙活動
通史編4(近・現代1) (私学東奥義塾の終焉-公立への移管)

私学東奥義塾の終焉-公立への移管 これまで述べてきたように、東奥義塾からはさまざまな事柄が津軽地方に,さらに東奥義塾は自由民権運動やキリスト教普及の拠点にもなった。  ,保守派勢力は公然と東奥義塾の教育方針を非難し、旧藩主に東奥義塾を廃して皇漢学塾復興を請願した。,津軽家の援助を失った東奥義塾は、その後きわめて厳しい経営状態に置かれた。,東奥義塾が真っ向から攻撃されたのは、この二つである。 / 私学東奥義塾の終焉-公立への移管
通史編4(近・現代1) (工業学校の創設と東奥義塾の廃校)

工業学校の創設と東奥義塾の廃校 日露戦争後、本県においても実業教育の必要が叫ばれるようになったが、県自体,東奥義塾を工業学校に転用するというのは、当時東奥義塾が経営難から市へ移管、弘前市立弘前中学校東奥義塾となり,しかし、弘前市は、東奥義塾は弘前にとって由緒ある伝統校であるから転用には応じられないとし、その対立から,工業学校の位置は弘前とし、弘前は東奥義塾の変更に努力するというものである。  ,校舎は東奥義塾を転用し、義塾自体も弘前市から県へ移管となった。 / 工業学校の創設と東奥義塾の廃校
通史編5(近・現代2) (終戦直後の東奥義塾)

終戦直後の東奥義塾 昭和二十一年は義塾にとって多難な年であった。,後にスポーツ王国と言われるようになる東奥義塾の活躍は、二十年代末から始まる。 / 終戦直後の東奥義塾
通史編4(近・現代1) (『東奥日報』従軍記者の書いた雪中行軍記)

『東奥日報』従軍記者の書いた雪中行軍記 五連隊はわずかに一泊の行軍予定の計画で二〇〇人近い死傷者を出,この幻となっていた『東奥日報』には、第三一連隊に従軍していた東奥日報社の記者・東海勇三郎が行軍記を記しているのである,(二月四日付『東奥日報』記事は、青森県史編さん室で所蔵)。  ,けれども当該記事は前述したとおり、東奥日報社にも保存紙がない。,この記事は現在、東奥日報社の保存紙にもあり、マイクロフィルムで閲覧が可能である。 / 『東奥日報』従軍記者の書いた雪中行軍記
通史編4(近・現代1) (ジョン・イングの貢献)

ジョン・イングの貢献 草創期の東奥義塾に五人着任した中でも、イングは現在に至るまでその功績を数々語られている,ここでは主に東奥義塾教師としての貢献について述べる。  ,開学時の東奥義塾は、中心となって動いた人物の多くが慶応義塾で学んでいたことから、学校の体制は慶応義塾に,明治期東奥義塾で教科書として使用された英書は、現在も東奥義塾高等学校図書館古文書室と弘前市立図書館に残,東奥義塾生たちは、優れた英文の暗唱や論説執筆を通して英語力を鍛えた。
通史編4(近・現代1) (草創期の外国人教師たち)

草創期の外国人教師たち 東奥義塾には、明治六年の開校から同十三年までの約七年間に、以下に述べる五人の,ウォルフによって、東奥義塾の生徒たちは、初めて本物の外国語に触れることになった。,たとえばマックレーは東奥義塾生を次のように紹介している。,当時東奥義塾からインディアナ・アズベリー大学に留学していた佐藤愛麿が、東奥義塾生を代表して弔辞を捧げている,理由はひとえに東奥義塾の財政難であった。  
通史編4(近・現代1) (女子教育)

女子教育 東奥義塾は女子教育も行った。,当時の青森県は男尊女卑の風潮が根強かったが、その中にあって東奧義塾の女生徒や教師は人権意識が高く、男女,こうして、女子にも英語を教えるなど、当時としてはきわめて開明的であった東奥義塾小学科女子部は、明治十五年,明治前期弘前の女子中等教育は、明治三十年に県内初の高等女学校が開校するまで、東奧義塾から始まり私学で受,写真49 東奥義塾の女生徒と女性教師(明治10年)
通史編4(近・現代1) (キリスト教)

さらに、かつて禁教であったキリスト教に対する偏見並びに抵抗もきわめて大きく、洗礼を希望する東奥義塾生たちは,ここでイングは東奥義塾との契約を再契約し、給料はそれまでの一六七円から六七円に減額となった。,明治十年には東奥義塾だけではなく市内の他の学校にもキリスト教が広がっている。,しかし皮肉なことに、イングの宣教が効果を上げるにつれ、東奥義塾に対する風当たりは強くなった。,キリスト教が広まる拠点となった東奥義塾では、男女平等思想も広まり、たとえば明治十一年ごろに東奥義塾から
通史編5(近・現代2) (キリスト教の復興)

東奥義塾も再びキリスト教主義の旗印を掲げ、弘前学院(昭和二十五年弘前女学校を改称)も日本の地に帰ってきた,東奥義塾に配属になったセイムス師とパロット師のバイブルクラスには、東奥義塾の生徒のみならず、弘前高校、
通史編5(近・現代2) (戦後美術界の復興)

それまで年一回の美術展を開催し続けてきた東奥日報社も、昭和二十年と二十一年の秋の東奥美術展の開催は見合,写真280 奈良岡正夫『山羊』  東奥日報社は、前年休止した東奥美術展(東奥展)を昭和二十二年秋,から再開したが、昭和三十二年(一九五七)に東奥展の一般の部が廃止され、児童の部のみの公募展となった。,これにより、県内作家の間から東奥展に匹敵する展覧会開催の要望が高まり、それにこたえる形で昭和三十五年の
通史編5(近・現代2) (宗教団体法の成立)

弘前の宣教師たちも、教会、東奥義塾、、弘前女学校から帰国する者が目立った。,しかし、キリスト教に対する圧迫は強く、昭和十六年十一月東奥義塾は退役陸軍中将浅田良逸男爵を塾長に迎えた,浅田が笹森順造の弟で、かつて弘前教会で洗礼を受けた者であることを考えてのことだったが、着任二ヵ月余りで東奥義塾,また、その前年、下北半島の伝道から津軽農村伝道センター所長となり、東奥義塾教師となった滝沢清牧師は、弘前市公会堂
通史編4(近・現代1) (掲載写真・図版の典拠・所蔵一覧)

弘前市蔵 写真17 弘前市立博物館蔵 写真18 「山野茂樹日記」弘前市立図書館蔵 写真19 『改元記念東奥人名録,写真42 東奥義塾図書館蔵 転載:北原かな子『洋学受容と地方の近代』岩田書院 2002年 写真43, 転載:北原かな子『洋学受容と地方の近代』岩田書院 2002年 写真46 東奥義塾図書館蔵 写真48,」弘前市立図書館蔵 写真60 『改元記念東奥人名録』弘前市立図書館蔵 写真61 『津軽之山水』弘前市立図書館蔵,山上笙介編『ふるさとのあゆみ』弘前Ⅰ 津軽書房 1980年 写真68 弘前市蔵 写真71 『改元記念東奥人名録
通史編4(近・現代1) (第五連隊との遭遇)

記事が発表された数日後には当該記事は姿を消し、三一連隊の壮挙とともにまったく記されなくなっている(『東奥日報,なお、この号外は東奥日報社に原紙がなく、コピー版を青森県立図書館が所有している)。  ,間山伍長の子息である間山重勝氏も、父が「雪だるまのように雪をかぶった兵士を見た」ことを証言している(『東奥日報,川村宮蔵の娘である三上キミ子さんは「雪をかぶって倒れている兵隊を見つけた」という父の証言を伝えている(『東奥日報,前述したように、『東奥日報』の保存紙は従軍記が書かれた前後約一〇日分が存在していない。
通史編5(近・現代2) (俳句会のリーダー木村横斜)

二十九年、東奥義塾を経て、早稲田専門学校卒業後、東京毎日新聞社、世界日本社へ入社するが、まもなく帰郷する,三十四年、東奥日報社へ入社し、句作に耽(ふけ)った。,三十五年、「東奥日報」に「県下の俳壇概況」を発表、さらに「太平会」の回覧雑誌「酒ぶくろ」を発行した。
通史編5(近・現代2) ((五)野球)

十一年にアメリカ人の宣教師が東奥義塾に伝え、十九年には青森師範で樋口亮教諭が校庭で生徒に野球を指導したと,報告されている(小林俊一『あおもりスポーツ群像』東奥日報社、一九七七年)。,そして、二十五年、その東奥義塾と青森師範が初めての野球対校試合を開催、三十六年には青森県立第一中学校(
通史編5(近・現代2) (学校における音楽)

学校における音楽 明治五年(一八七二)に東奥義塾が設置され、続いて、明治六年(一八七三)に一番小学(,東奥義塾はキリスト教の精神に基づく学校であるので、当初から讃美歌が歌われていた。,比較的に記録が残されている東奥義塾の音楽活動を概観すれば、弘前地区の音楽文化の様相が窺い知れる。  ,東奥義塾生による「トニック会」が明治三十九年結成され、会歌ができている。,青森県作曲家協会の創立者阿保健(あぼけん)も東奥義塾の卒業生(二回生)である。  
通史編5(近・現代2) (スポーツ・文化活動)

王者東奥義塾は、昭和三十三年以来、平成に入ってからも総合全国優勝を重ね、こうした中から、平成四年の冬季,男子では、このほかに、弘前実業高校の相撲・体操、弘前工業高校のバレーボール、東奥義塾高校のバドミントン・,写真206 『東奥日報』平成12年8月7日夕刊
通史編4(近・現代1) (県内中学校の概況)

また、三十四年には私立東奥義塾が弘前市に移管されて弘前市立中学校東奥義塾となったので、青森県内には公立中学校
通史編5(近・現代2) (掲載写真の典拠・所蔵一覧)

弘南鉄道三十年誌』弘南鉄道株式会社 1957年 写真46 「津軽名勝と産業」弘前市蔵 写真47 東奥日報社提供,年至昭和23年 弘前市蔵 写真112 『青森県警察史』下 青森県警察本部 1977年 写真113 東奥日報社提供, 『巌城嶺の道-創立70周年記念誌』青森県立弘前実業高等学校 1988年 写真202 『写真で見る東奧義塾,120年』学校法人東奥義塾 1992年 写真204 東奥日報社提供 写真205 『百年史』青森県立弘前中央高等学校,弘前市の洋風建築』弘前市教育委員会 1986年 写真291 弘前市立博物館蔵 写真292 『改元記念東奥人名録
通史編5(近・現代2) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

                    つがる弘前農業協同組合 (弘前市) 青森県史編さん室                   東奥日報社, (弘前市) 学校法人城東学園 (弘前市)             弘前市立郷土文学館 学校法人東奥義塾
通史編5(近・現代2) (連続する災害と東北振興政策)

工藤は私財をなげうって無料宿泊所を設置したわけだが、『東奥日報』は「要らざる享楽には金を惜しまぬ人はあつても,青森県の場合、メディアの働きとして『東奥日報』の活動が鍵となった。,『東奥日報』は社長山田金次郎の指導のもとに、県内各地の凶作情報を伝え、救済・振興運動をまとめ上げるなど,この結果、青森県内の東北振興運動は、県民の幅広い支持を引き出したのである(詳細については中園裕「『東奥日報,弘前市の場合、東北振興政策はなんと言っても市内を流れる岩木川改修問題に尽きるが、このときも『東奥日報』
通史編4(近・現代1) (第三一連隊の壮挙とその後)

しかし、ここでは前述した二月四日付の『東奥日報』記事が、三一連隊の行軍成功に関する一連の記事を掲載しているので,『東奥日報』もその例に漏れないが、二月四日付『東奥日報』でも、三一連隊の快挙に関する記事が掲載されている,二月四日の『東奥日報』記事には、その様子がよく示されている。,、本来ならば盛会を開くところを、五連隊の悲劇に鑑み遠慮したと告げている(この記事を含め、二月四日付『東奥日報
通史編5(近・現代2) (極東大会陸上競技で優勝・道川茂作)

(『青森20 世紀の群像』東奥日報社、二〇〇〇年)  事実、道川選手は国際大会において新記録で優勝している,第八回極東選手権大会の一万メートル決勝で三四分五六秒のタイム(資料近・現代2No.六八九)で一着でゴールインした・東奥日報
通史編4(近・現代1) (中津軽郡公立弘前中学校)

公立弘前中学は十四年に至ると生徒数が二三一人と増加し、中津軽郡町村聯合会は議決して、下白銀町の東奥義塾内,しかし、十八年九月公立中学校から出火、東奥義塾に延焼して両校とも焼失した。
通史編5(近・現代2) (家庭に戻る女性たち)

『東奥日報』でも男性職員と遜色なく活動を続けてきた彼女たちに対し、「長年よく闘つた女子職員の功績は永久,写真106 家庭に戻る女性を報じた『東奥日報』
通史編5(近・現代2) (郷土部隊の出征)

出征家族を慰問する活動が盛んに行われ、『東奥日報』や『弘前新聞』は郷土部隊の活躍を逐一報じた。,『東奥日報』や『弘前新聞』は中央紙ほどの活動こそできなかったが、青森県ないし弘前市の郷土部隊の活躍に関,師団主力が出征するということで、『東奥日報』をはじめ新聞は大々的にその偉功をたたえ、郷土師団の派遣を盛大,凱旋歌は東奥日報社が講じたメディアイベントの一つで、同社が昭和九年三月に発刊した『満州事変第八師団戦功史
通史編5(近・現代2) (在府町に生まれる)

奇しき縁ではあるが、この在府町には、後に親交を結ぶことになる探検家・笹森儀助(ささもりぎすけ)と、東奥義塾時代,六年に東奥義塾へ入学、英学を学ぶ。,それにしても、東奥義塾が日本のリーダーたるこの俊英たちを輩出したことは、まさに驚くべき事実といえる。
通史編5(近・現代2) (個人作家の活躍)

のあゆみ展』展示図録 一九九五年 青森県立郷土館『青森県近代日本画のあゆみ展』展示図録 一九九八年 東奥日報社,『青森県人名事典』二〇〇二年 東奥日報社編「青森県の美術家たち」『東奥日報』一九九八年から一九九九年
通史編4(近・現代1) (洋風建築と蔵造り)

二十三年に新築した東奥義塾の校舎は、ペンキ塗りの新装を施し、外人教師の洋館住宅も異彩を放った。,三十九年には最も斬新な洋館建築の弘前市立図書館(現在追手門広場に移築)が、大手門前の外堀近く、東奥義塾
通史編4(近・現代1) (明治時代の市史編纂)

担当したのは元弘前藩士で、青森師範学校を卒業、小学校教師、東奥義塾教師を務めた小野士格(おのしかく)である,彼は、明治四十三年教職を退いて、東奥日報社に入社していた。
通史編5(近・現代2) (スポーツ王国義塾)

これだけの総合優勝をがち得たチームは東奥義塾をおいてなく、さらに、木村公宣ら数多くの卒業生をオリンピック,これは、教職員が一丸となった献身的な指導の賜物であり、東奥義塾高校の多方面にわたる躍進を支えていることは
通史編5(近・現代2) (酒造業)

するとまもなく品質の向上がみられ、優良酒が醸造されるようになり、査定石数は増加していった(東奥日報社『,弘南地域の清酒が本品評会で全国一の入賞率を示したことで、全国的な銘酒として認められるようになった(『東奥日報
通史編4(近・現代1) (無神経事件のその後)

森有禮文部大臣が来弘の際、他では教育に関することならだれとでも会見したのに、一切人との面会なく、もちろん東奥義塾視察
通史編4(近・現代1) (笹森修一、修二兄弟と社会主義研究団体)

修一は、子供のころ、弘前市元寺町のメソジスト教会の日曜学校に通い、洗礼を受け、東奥義塾時代には教会青年会, 笹森修一) (『光』第二二号、明治三十九年九月二十五日)  笹森修一は、明治四十年三月二十七日東奥義塾,写真150 発禁処分となった『渋茶』夏の号(明治41年)  なお、笹森修一の弟修二も、東奥義塾中退後
通史編4(近・現代1) (第一回通常県会)

 第一回通常県会は、明治十二年(一八七九)三月二十五日閉会となったが、同年三月三十一日発売の東奥義塾開文社,弘前では、東奥義塾を母体とした自由党系の共同会が創立され、毎週土曜日には演説会を開いて時事問題を論議した,他地域では黒石に共進社が発足、のち益友会と改めたが、大地主の加藤宇兵衛や弘前藩士族竹内清明、黒石藩士族で東奥義塾派
通史編5(近・現代2) (音楽家たち)

再興東奥義塾の一回生であり、法政大学英文科卒業後、昭和二十二年から四十四年まで弘前高校の教諭を務めた。,小島正雄(こじままさお)(明治四四-昭和四七 一九一一-一九七二)は、公立の小中学校、ならびに東奥義塾
通史編4(近・現代1) (小学校の改革)

弘前を含む中津軽郡では、東奥義塾や公立弘前中学校があったため、改正教育令で設置できるとされていた高等科,十八年九月、公立中学校から出た火事で隣接の東奥義塾ともども焼失したが、この際仮校舎を設けず、再建まで休校
通史編5(近・現代2) (県債五〇〇万円の成立)

7 1.19 県債千五百万円の許可促進運動を開始す 銀行代表者、知事と協力し、県会委員の上京を促す 東奥,完了し、現金の到達を待つ 弘前 4.16 五百万円貸付規程委員顔触定まる 尚、委員は関係方面へ交渉中 東奥,第五回貸付委員会で最後の貸付決定 〃 前掲「昭和初期の青森県における金融機関の動向について」 注) 新聞の「東奥,」は『東奥日報』、「弘前」は『弘前新聞』を指す。  
通史編4(近・現代1) (弘前女学校の創設)

開学式の様子を『東奥日報』は「予(かね)て本社日報にて広告せし如く、弘前女学校の開校は去る廿五日を以てしたり,校舎は東奥義塾に隣接する箇所にして、頗(すこぶ)る学校の地に適せり。
通史編4(近・現代1) (協力機関一覧(五十音順))

青森県近代文学館 青森県立図書館 鬼沢ねぷた同好会(弘前市) 学校法人柴田学園(弘前市) 学校法人東奥義塾
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