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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(古代・中世)
(得宗領・安藤氏との関わり)
土崎湊といい、外浜といい、藤崎湊といい、能代湊といい、いずれも唐糸伝説を伝える寺院が津軽安藤氏・秋田安
東氏
,釈迦内も、安
東氏
の有力拠点である米代川河口を遡(さかのぼ)った檜山の上流に位置する。
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
浅利氏は数代安
東氏
の家臣であったが、親の愛季に対し逆心を企てたため浅利勝頼を成敗した。,その間、浅利氏の知行は安
東氏
で支配していたが、その後、津軽氏からの度重なる申し出により浅利氏の旧領を頼平,図33.戦国末期の北羽の大名・小名 安
東氏
と津軽氏は、湊合戦により秀吉の惣無事令違反は明白であったが,奥羽諸大名の領地安堵はこの国家的戦略に添って決定されたのであり、安
東氏
や津軽氏に対してこれ以降朝鮮出兵,四石設定されていたため、天正十八年分は木村重茲が直接受け取り、翌十九年分は一割七分に当たる四二五石八斗を安
東氏
通史編1(古代・中世)
(津軽奪還を目指して)
さらに同年、秋田にいる安
東氏
の一族、湊安東(みなとあんどう)氏の当主安東堯季(たかすえ)は、安東師季を,津軽に侵攻し、かつて安藤氏の根拠地の一つであった藤崎館を攻撃したが(史料八四七)、これが津軽への下国安
東氏
,使者の首尾からみて偽使であるにしても、「日之本将軍」安
東氏
についての知識がこのような使節派遣構想につながったものであろう
通史編1(古代・中世)
(奥羽地方の戦国時代)
一方、北奥羽は陸奥北部の南部氏と北出羽の安
東氏
の二大勢力がそれぞれ勢力を拡張していく。,蝦夷支配権を依然掌握していた安
東氏
は、代官である蠣崎(かきざき)氏によって徴収され上納される夷島の関税
通史編2(近世1)
(鷹献上による豊臣政権との折衝)
出羽国の秋田安
東氏
をはじめとする大名・小名が領知安堵を石高表示でなされるのは、天正十八年末から天正十九年,(一五九一)正月にかけてであるが、秋田安
東氏
が当知行を認められたのは、天正十八年二月のことであった(「,したがって津軽氏の当知行安堵は、秋田安
東氏
とほぼ同じ時期になされた可能性もある。
通史編1(古代・中世)
(大浦氏の城下町建設の流れ)
大浦氏の城下町建設の流れ 大浦氏が津軽地域を掌握するきっかけは、西海岸の掌握と西浜の南方にある安
東氏
通史編1(古代・中世)
(文献史料から見た戦国動乱の激化)
内容は檜山安
東氏
が比内(ひない)の浅利氏や為信との間で書信による交誼のあることを示すものである。 ,しかし南部氏が安
東氏
を滅ぼし津軽領内に侵攻してくることから始まることには変わりはないようである。
通史編1(古代・中世)
(南部晴政の登場と一族間の対立)
また永禄年間以降は、これも領国拡大を目指す出羽の下国安
東氏
と鹿角地方をめぐり抗争が繰り広げられ、永禄十年,、鹿角郡は安
東氏
に、同十二年には南部氏にというように、相互に争奪しあうことになる。
通史編2(近世1)
(三戸南部氏の津軽進出と大浦築城)
南部久慈(くじ)氏の一族南部光信(みつのぶ)を津軽西浜種里(たねさと)城(現鰺ヶ沢町種里)に配置し安
東氏
通史編1(古代・中世)
(合戦の方法)
塗部新七(ぬるべしんしち)ら兵隊を整え、さらに五人の供を連れて敵側の動向を調査に行ったところ、六羽川に安
東氏
側
資料編2(近世編1)
(【解説】)
本章における編年体史料の開始は、天正十七年八月二日、北奥三戸の領主南部信直が、秋田檜山(ひやま)の安
東氏
,もちろん当時の檜山安
東氏
は南部氏の下知に従うような勢力関係にはなかったが、同政権と南部氏を取り持つ奏者
通史編1(古代・中世)
(「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)
浪岡北畠氏が一定の勢力を保つことができたのは、檜山へ移動した下国安
東氏
と南部氏両者の緩衝勢力として、幕府,具運の子息顕村(具愛)(あきむら(ともちか))は、下国安東愛季の娘を正室として姻戚関係を結び、安
東氏
との
通史編1(古代・中世)
(種里城と町)
種里城と町 明応元年(一四九二)、現在の鰺ヶ沢町種里町に西海岸の掌握と西浜の南方にある安
東氏
に備えて
通史編2(近世1)
(北奥羽の大名の動向)
宇都宮・結城(ゆうき)―蘆名(あしな)の系列が形成され、これをもとに推進されており、これに近い南部・安
東氏
資料編1(古代・中世編)
(五 乳井地区の城館群と宗教的領域)
そもそも乳井茶臼館は、戦闘用の小規模な砦であり、とうてい、檜山安
東氏
の軍勢全体が駐屯できる場所ではない
通史編1(古代・中世)
(安藤の乱の展開)
後述するが、南北朝期以後には、出羽国小鹿島の安
東氏
を上国、津軽安藤氏を下国と称するようになっていくものと
通史編1(古代・中世)
(三戸南部氏による領国支配の強化)
これについて、種里は当時の海上交通の要衝で、ここに一族を配置して光信を檜山安
東氏
への押さえとし、海域の
通史編1(古代・中世)
(二 津軽の修験道と神社)
つちのへね二月廿八日 安東下野守師季(花押) これまで政教一如の態を示し続けてきた「日ノ本将軍」安
東氏
通史編2(近世1)
(豊臣再仕置軍の奥州下向)
そして、いまだ独立的気運を持っていた八戸氏と
東氏
に九戸一揆鎮圧に精力を傾けるよう督励する一方で、伊達政宗
資料編3(近世編2)
(【解説】)
三は青森瀧屋伊
東氏
か。そのほかの符丁については不明。
通史編1(自然・原始)
(第一節 注および引用・参考文献)
桜井清彦・菊池徹夫編 『蓬田大館遺跡』 蓬田村教育委員会 一九八七年十月 (148)加藤孝 「津軽安
東氏
通史編1(古代・中世)
(一 古代における北奥の宗教世界)
同時に、この界隈は視点を変えて見れば、蝦夷社会の中枢を担う安倍-安
東氏
にとっての支配版図の南限を示す境界
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
明暦二年) ●天正十七年(一五八九)八月二日、豊臣秀吉、南部信直へ朱印状を下し、信直の親類並びに檜山安
東氏
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