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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (東照宮)

東照宮 東照宮は、信枚の正室満天姫が徳川家康の養女であったことから、寛永元年(一六二四)、天守閣の近,同四年、天守閣が雷火により焼失すると、東照宮も被害を受けたらしく、同五年に現在地へ再建され、別当薬王院,享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」には、宝物として信枚寄進の天海筆の東照権現三所像・東照宮名号、信政寄進,図230.東照宮 / 東照宮
資料編3(近世編2) (●東照宮 本殿 笹森町--重要文化財)

●東照宮 本殿 笹森町--重要文化財 寛永五年(一六二八)の建立であり、桁行三間梁間三間で入母屋造柿葺,他藩の東照宮に比して素木造の簡素なものであるが、細部の彫刻をはじめ、主体部の構造形式にいたるまで桃山時代,図23 東照宮本殿立面図・平面図 (『重要文化財東照宮本殿修理工事報告書』より転載) / ●東照宮 本殿 笹森町--重要文化財
通史編3(近世2) (薬王院)

薬王院 薬王院は、初め東照宮の別当東照院として創建され、信義の時に改称した。,の養女満天姫が信枚のもとに嫁したことから、寛永元年(一六二四)、信枚の願いが認められて天守閣の近くに東照宮,東照宮には別当東照院を配置して本祐を開基第一世とし、寺領二〇〇石が寄進された。,寛永四年(一六二七)、雷火により天守閣が焼失した時に東照宮も被害を受けたらしく、同五年、現在地へ再建の
通史編3(近世2) (常福寺)

常福寺本祐とも師弟関係にあったため、寛永元年(一六二四)、東照宮の別当薬王院の開基・第一世に本祐を推し
通史編3(近世2) (大社の神仏分離)

明治三年八月に社寺掛は伺いを出して神仏分離の方針を定めたが、それによると、まず、東照宮(とうしょうぐう,)は日光東照宮の例を調査してから行うとしている。
資料編3(近世編2) (1 弘前城の歴史)

なお、ここ高岡の地名を弘前と改めたのは、八幡宮や神明宮、東照宮などがそろい、岩木山下居宮の楼門などが竣工
通史編3(近世2) (江戸時代前期の建築)

江戸時代前期の建築 寛永期になると、東照宮の本殿が寛永五年(一六二八)に建立されている。,素木造(しらきづくり)の東照宮は全国的にみても珍しいものであり、境内仏堂として一般的であった三間堂を用
資料編3(近世編2) (はじめに)

さらに慶長年間の後半には長勝寺や革秀寺の本堂が造られ、寛永五年(一六二八)には岩木山神社の楼門、東照宮本殿
通史編3(近世2) (江戸時代末期の建築)

しかしそのような時勢にあっても、津軽弘前藩においては、地元の技術者にも仕事をさせていたことを、弘前八幡宮の本殿や東照宮
通史編3(近世2) (江戸時代中期の建築)

また岩木山神社の本殿・奥門・瑞垣(みずがき)・中門は、下居宮(おりいのみや)として日光東照宮に倣って造,、装飾類を重視した建築であることや、津軽に散在する建築と比較しても異種のものであることなどから、日光東照宮
通史編3(近世2) (二代信枚)

このことから、信枚は常福寺(じょうふくじ)(現東京都台東区)本祐と結びつき、東照宮の別当東照院(とうしょういん
通史編4(近・現代1) (開化思潮の影響)

国学者もこうして時勢に同化していこうとしたが、岩木山神社の神官が明治十年に東照宮に来た時、神職を戒める
資料編2(近世編1) (第一章 編年史料出典・典拠一覧)

弘前市立図書館八木橋文庫    て 天英公御書写……………………………東京大学史料編纂所    と 東照宮御実紀
通史編2(近世1) (下級藩士への開発奨励(I期))

り上げが命じられた時に(資料近世2No.四二)、特に「小身之者へ」として出された「御自筆」によれば、東照宮
通史編3(近世2) ((二)富籤興行)

興行主は黒石上ノ坂(かみのさか)宮・大円寺・大行院・茶臼館(大行院配下の修験)・本行寺・東照宮神主山辺丹後
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

天保十三年(一八四二)に幕府に献じられた「朝野旧聞裒藁(ちょうやきゅうぶんほうこう)」の「東照宮御事蹟
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

この時期行われた普請役には、天和三年(一六八三)に他の東北・中部の四大名とともに命じられた日光東照宮・
通史編2(近世1) (城下高岡の形成)

耕春院をはじめとする曹洞宗寺院、東には浄土真宗(門徒宗)・天台宗・日蓮宗(法華宗)・浄土宗の各寺院と、東照宮
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

将軍の上洛や、徳川家康を祀る日光東照宮に将軍が赴いて拝礼する日光社参は、江戸時代初頭からたびたび実施され
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●元和三年(一六一七)、この年、津軽信枚、高岡城内に東照宮を勧請する。,●寛永元年(一六二四)、この年、高岡城内に勧請した東照宮を移し、薬王院を別当として寺領二百石を給する。
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