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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編4(近・現代1)
(学区の改変)
は、亀甲町、田茂木町、田町、小人町、若党町、春日町、禰宜町、馬喰町、長坂町、笹森町、蔵主町、大浦町、
東長町
,もっとも、当時の学区は今日のように画然と分けられておらず、
東長町
から和徳小学に通学したり、親方町などでは
通史編4(近・現代1)
(市会と市役所開庁)
六月十八日、仮設の弘前市役所を
東長町
四五番の二号地に開庁した。,ここは、旧
東長町
外廿二ヶ町戸長役場の建物を買収したもので、翌年元寺町一番地の中津軽郡役所跡に移った。
通史編2(近世1)
(町方支配)
世襲しており、その屋敷ははじめは親方町にあったが、宝永二年(一七〇五)に、松井家は長鍛冶町、松山家は
東長町
,そして、これら小遣への給銭を出す町内は、本町(ほんちょう)・
東長町
(ひがしながまち)・土手町・茂森町・,には、時期によって多少の変化があり、たとえば、宝暦期では、本町・鍛治町・冨田町・楮町(こうじまち)・
東長町
,・和徳(わとく)町(本町・
東長町
以外はすでに正徳期にはみえる)が加わっていた(近世資料1No.一一五四
通史編2(近世1)
(窮民対策)
さらに、十月十三日には南横町・
東長町
末にも小屋が設置され、ここでは一人一度に粥五勺が支給されている。,元禄九年(一六九六)一月から九月にかけて、猫右衛門町・石渡・
東長町
(ひがしながまち)の三ヵ所の非人小屋
通史編3(近世2)
(幕末期の市域)
南北一八丁余、制札場は本町・
東長町
・土手町・和徳町・亀甲町・紺屋町の六ヵ所、町端の桝形は富田町・和徳町,・紺屋町・樹木派(はだち)の四ヵ所、米倉は和徳町の東御倉、
東長町
の北御倉、亀甲町の亀御倉の三ヵ所、炭倉
資料編3(近世編2)
(●蘭庭院 栄螺堂 西茂森二丁目--市指定文化財)
●蘭庭院 栄螺堂 西茂森二丁目--市指定文化財
東長町
の豪商であった中田屋嘉兵衛(賀兵衛)が、天保の
通史編4(近・現代1)
([口絵])
49 大正6年富田の大火 (品川町胸肩神社付近の焼け跡) 口絵50 大正初期の自動車 (
東長町
,口絵63 ねぷた(土手町) 口絵64 岩木橋を渡る御山参詣の人々 口絵65
東長町
通史編3(近世2)
(質屋の利用)
かめのこまち)・茂森町(しげもりまち)・土手町(どてまち)・新町(あらまち)・駒越町(こまごしまち)・
東長町
通史編3(近世2)
(宝暦期の城下)
宝暦期の城下 弘前城下に大きな変化がみられたのは、慶安二年(一六四九)に横町(現
東長町
)の算盤(そろばん,資料近世1No.一一五四)には、本町支配・親方町支配・鍛冶町支配・土手町支配・富田町支配・楮町支配・
東長町
支配
通史編4(近・現代1)
(料理店)
明治後期の市内一流料理店として知られたものは、本町の酔月楼・万葉亭・峰月館、親方町の長久楼・中村楼、
東長町
通史編4(近・現代1)
(時敏小学校の創設)
、若党町、小人町、春日町、馬喰町、亀甲町の一二ヵ町)と盈進学区(親方町、百石町、百石町小路、一番町、
東長町
通史編3(近世2)
(消防制度)
和徳町・萱町(かやちょう)・北横町(きたよこちょう)・南横町(みなみよこちょう)・田町(たまち))、
東長町
,(ひがしながまち)(
東長町
・元寺町・寺小路(てらこうじ)・鞘師町(さやしまち)・鉄砲町(てっぽうまち)
通史編3(近世2)
(非人小屋の設置と餓死者の処理)
十月十三日には南横町(みなみよこちょう)・
東長町
(ひがしながまち)の外れに二間(三・六メートル)に五間
通史編4(近・現代1)
(戸長の配置)
清水慶太郎 親方町 百石町 同細小路 一番町 小田桐〓
東長町
通史編3(近世2)
(町役負担と御用金)
表4と表5を関連付けてみると、表5の上役には親方町と土手町が入っており、表4の横町とは
東長町
であろう。,親方町(但松井四郎兵衛前より土手坂の上まで,当時は本町といった) 土手町(坂下より大橋まで)
東長町
,中之上役 本寺町(土手より上る一丁目) 中 役 下長町,土手町(土手町大橋より同新土手鍛冶町境まで)
東長町
,を松森町と,新町を富田町と唱えるように仰せ付けられた),和徳町 下々役 笹森町,駒越新町,茂森新町,
東長町
北南横町
通史編4(近・現代1)
(組合町村制)
中津軽郡第三組戸長役場 →中津軽郡弘前和徳町外廿一ヶ町戸長役場 中津軽郡第四組戸長役場 →中津軽郡弘前
東長町
外廿二
通史編2(近世1)
(預手形の性格)
預手形の作成も、
東長町
の商人片谷清次郎本店で行っていたが、その後、御用達商人から藩庁が責任を持って発行
通史編4(近・現代1)
(竹内兼七について)
竹内兼七について 竹内兼七は、明治十五年、弘前市
東長町
の質屋に生まれ、昭和三十二年七十七歳で没した。
通史編3(近世2)
(諸家業と職人)
は、本町支配で一二人、土手町支配で二二人、和徳町支配で一二人、茂森町支配で八人、亀甲町支配で一〇人、
東長町
支配,質屋は本町で五人、亀甲町で五人、茂森町で三人、土手町で二人、新町で四人、駒越町で一人、
東長町
で三人、紺屋町,また、医者が本町に九人、下鍛冶町に三人、親方町に一一人、和徳町に一人、土手町に七人、新町に五人、
東長町
通史編3(近世2)
(江戸時代末期の建築)
江戸時代末期の建築 蘭庭院(らんていいん)の栄螺堂(さざえどう)は、天保十年(一八三九)に、
東長町
の
通史編2(近世1)
(大問屋制の導入)
天保八年九月二十三日、藩は駒越町紙屋忠兵衛・桶屋町三国屋八三郎・
東長町
大坂屋福次郎・和徳町猿賀屋小市郎
通史編4(近・現代1)
(城西小学校創立)
和徳町、北横町、茶畑町、茶畑新割町 和徳 中初 亀甲学区 二 親方町、百石町、百石町小路、一番町、
東長町
通史編4(近・現代1)
(明治十四年の巡幸)
弘前町に入った一行は、和徳町、
東長町
、元寺町を町民垣をなして奉迎するなかを午後四時、弘前本町の行在所に
通史編3(近世2)
(火災)
①慶安二年(一六四九)五月二日、横町(よこまち)(
東長町
(ひがしながまち))より出火し、本寺町(もとてらまち
通史編3(近世2)
((三)住居)
しものまち)・黒石町(くろいしまち)・同下町・蔵人町(後に蔵主町(くらぬしちょう))・同下町・横町(後に
東長町
通史編3(近世2)
(薬王院)
薬王院門前が何軒あったかは不明であるが、
東長町
支配となっていた(資料近世2No.四〇二)。
通史編2(近世1)
(刑の執行)
の牢屋から亀甲町(かめのこうまち)へ廻し、黒石町(くろいしちょう)(現大浦町(おおうらまち)付近)・
東長町
通史編4(近・現代1)
(大区小区制の成立)
上白銀丁 下白銀丁 元大工町 元長町 親方町 元寺町 一番丁 鉄砲町 上鞘師町 下鞘師町 元寺町小路
東長町
通史編3(近世2)
(三 八幡宮の祭礼と山車の運行)
七町会の山車、張良山(本町・親方町・大根山(茂森町)・道成寺山(鍛冶町)・猩々山(土手町)・布袋山(
東長町
,天和二年(一六八二)の山車は、張良山(本町・親方町)・大黒山(本寺町)・文殊山(土手町)・高砂山(
東長町
通史編4(近・現代1)
(笹森修一、修二兄弟と社会主義研究団体)
事件の発生で、
東長町
の家は徹底した家宅捜索を受け、手紙・新聞・雑誌など一切が押収された。
通史編5(近・現代2)
(相次ぐ水害と商店街)
9 1 1 2 1 6 6,920 百石町 39 - 39 30 - 30 - 9 93,000
東長町
通史編3(近世2)
(民衆の精神世界)
慶応二年(一八六六)三月、
東長町
(ひがしながまち)に借家をしていた常吉という者が、「大平神(たいへいしん
通史編4(近・現代1)
(戸籍法と戸籍区)
右取扱 副戸長 大島栄作 同小二区 下白銀丁 元寺町 一番丁 鉄炮〔砲〕町 鞘師町 寺小路
東長町
通史編4(近・現代1)
(地主制の確立と在村地主の役割)
弘前市-玉田惣次郎(茂森町)・山内勘三郎(富田新町)・石崎金蔵(和徳町)・菊池定次郎(
東長町
)、清水村
通史編4(近・現代1)
(弘前商業会議所の活動)
なお、その後、事務所は津軽産業会館内へ移転し、さらに
東長町
に移った。
通史編4(近・現代1)
(和服と呉服商)
二十二年、久一郎の弟富太郎がこの京手織の卸商を看板にして、「角み」の屋号で
東長町
の旧二津屋跡に開店した
通史編4(近・現代1)
(食生活の変化)
三十九年には鰺ヶ沢の伊東屋が
東長町
に開店し、藩政時代から鰺ヶ沢港の名物と言われた鯨餅を販売した。
通史編4(近・現代1)
(市制の施行)
市役所は
東長町
外廿二ヶ町戸長役場をもってし、吏員は弘前の五戸長役場から数人ずつ選出し、市長、助役のもと
通史編4(近・現代1)
(日露戦後の工業)
101,600 同 新町102 野村音次郎 98,450 同 桶屋町129 野村忠兵衛 93,400 同
東長町
通史編2(近世1)
(農政の転換)
利息は三割として貸し付けられるが、その返済は直接農民から取るのではなく、年貢として納められた米を
東長町
通史編4(近・現代1)
(県下銀行の発展と金融都市弘前)
初代専務取締役(頭取と同じ)は弘前市大字
東長町
で酒造業を営む菊池定次郎、取締役は弘前市大字松森町で呉服商
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