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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(東門会の創立)
東門
会の創立 さらに養生会を有名ならしめたのは、明治三十年一月十三日、幼年養生会(一般に
東門
会という,彼らは毎朝未明に起きて弘前城
東門
前に集合、歌を歌い、遊戯をした。,昭和二年一月、伊東重の死去のあと
東門
会会長となった関久次郎の時代に、会は早起励行、自治協同のほかに養生興国 /
東門
会の創立
通史編5(近・現代2)
(東門会の佐藤正三)
東門
会の佐藤正三 昭和六年正月二日、
東門
会の指導者だった佐藤正三(さとうしょうぞう)は、官立弘前高等学校,自分は
東門
会そのもの、自己の心そのものについて考へてみる時、いつも矛盾を感じ苦しんできたが今日という今日痛切,四囲の状況から察して実にこの国内改革の火蓋(ぶた)をきるのが青森県の任務であり、我
東門
会同志の使命と信 /
東門
会の佐藤正三
通史編3(近世2)
(城門番所の警備)
廃藩当時には、追手門(現存)・西坂門、二の丸の内南門(現存)・内
東門
(現存)・内北門(賀田門)、西の郭,の埋門(うずみもん)、内北の郭の
東門
、三の丸の外
東門
(現存)、本丸の武者門・南門・北門、四の郭の外北門
通史編3(近世2)
(瓦の利用)
各丸の城門については二の丸の南門(現南内門)と
東門
(現東内門)、三の丸の南門(大手門とも表記。,現追手門)と
東門
、四の丸北門(現北門〈亀甲門〉)はそれぞれ瓦葺きであったが、葺き初めの年代は異なる。,「国日記」での初見は二の丸
東門
と南門で、天和三年(一六八三)七月六日条にみられる。,その後、三の丸南門、次いで
東門
と続き、四の丸北門は元禄十四年(一七〇一)に認められる。,現在は
東門
を除き木彫の鯱を銅板で覆ったものである。
通史編4(近・現代1)
(伊東重と養生哲学)
士族の有志の少年たちが集まって、早朝、心身の鍛錬をするための早起き会を始めたが、伊東は彼らが弘前城の
東門
,に集合するところから「
東門
会」と命名し、会員の自治的な約束によって運営されることになった。,「
東門
会」は昭和五十五年に解散したが、一世紀を超えた現在もその精神が形を変えながら引き継がれており、全国的
資料編3(近世編2)
(3 現存する天守・城門等の考察)
二の丸南門 脇戸付き櫓門 銅瓦葺 二の丸
東門
脇戸付き櫓門 銅瓦葺 三,の丸追手門 脇戸付き櫓門 銅瓦葺 三の丸
東門
櫓門 銅瓦葺 北の,の丸南門 立面図・平面図 (『重要文化財弘前城修理工事報告書』より転載) 図12 二の丸
東門
,『國寳弘前城二ノ丸辰巳櫓、同丑寅櫓及三ノ丸追手門維持修理報告書』より転載) 図14 三の丸
東門
, 立面図・平面図 (『重要文化財弘前城三の丸
東門
修理工事報告書』より転載) 図15 北の郭北門
通史編2(近世1)
(城下高岡の形成)
さらに丑寅(うしとら)櫓・辰巳(たつみ)櫓・未申(ひつじさる)櫓と
東門
・南門が描かれており、いずれも現存,当時は二の丸と三の丸を結ぶ通路は
東門
(二の丸
東門
)と南門(二の丸南門)を通る二つだけであったが、現在は,門は
東門
(三の丸
東門
)・南門(三の丸追手門)および三の丸と四の郭(北の郭)の間にある和徳堰の南にあった
通史編2(近世1)
(裁判と判決)
馬喰町の牢屋から引き出された入牢者は、堀に沿って大浦町(おおうらまち)を南に進み、
東門
から三之丸に入り,図176.弘前城三の丸
東門
図177.三道具
通史編2(近世1)
(家中屋敷の郭外移転)
三の丸では屋敷割が一六区画のみとなり、その内空き屋敷は六軒を数え、家中屋敷は大手門近辺と
東門
北側に六軒,この時点で城内に残った屋敷も、宝永二年(一七〇五)三月から大手門外と外
東門
外に移転され、これをもって家中屋敷
通史編3(近世2)
(「ねぷた」の運行)
またさぶろうたかゆき)・妻ら六人)が、家老大道寺(だいどうじ)家(現弘前中央高校グランド西側で弘前城
東門
通史編1(古代・中世)
(三十八年戦争の時代)
写真45 秋田城跡 復元された外郭
東門
と築地塀(秋田県秋田市) そしてこの多賀城と秋田の出羽柵
通史編3(近世2)
(ねぷた)
現中津軽郡岩木町)の豪商武田家の人々が、家老大道寺(だいどうじ)家(現県立弘前中央高校グランド西側で、弘前城
東門
通史編4(近・現代1)
(公園開設)
追手門と
東門
には「弘前公園」と掛札をかけ、早朝から開かれ、自由に遊歩できるようになった。
通史編5(近・現代2)
(佐藤正三と二・二六事件)
東門
会への参加、養生学の勉強に身が入らなくなっていた。
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