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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (松前城の恢復)

松前城の恢復 江差を早々に押さえた政府軍の兵力は、木古内口の攻防と、松前城下の恢復に注がれた。,四月十六日、政府軍は原口(はらぐち)(現北海道松前郡松前町原口)に陣を構えていた。,まず、春日丸が海上より敵を引きつけ、発砲を開始し、松前へ追い立てていく。,陸路からの軍勢もその後を追い松前へと迫っていった。,松前を奪回した政府軍は、次に小競り合いが続いていた木古内口への兵力増強を図った。 / 松前城の恢復
通史編3(近世2) (日雇と松前稼ぎ)

藩では領民の松前稼ぎを禁止する布達をたびたび出している。,が松前稼ぎに行っている。,女性の内一人は洗濯師として松前へ渡っている。,女性も二人おり、いずれも洗濯師として松前に出稼ぎに行っている。,逆に、この年の春に一家五人が松前稼ぎから戻って来た場合もあった。 / 日雇と松前稼ぎ
通史編3(近世2) (松前方面の攻防と青森)

ここで彼らの次の標的が松前藩へと設定されたのである。,また、十一月一日には軍艦開陽が箱館港に入港する一方で、蟠龍が松前湾において、松前城に砲撃を行い、同城に,松前勢も知内(しりうち)において夜襲を仕掛けるが敗退。,結局松前城は持ちこたえられずに落城し、松前藩兵は城下に火を放ちながら館城や江差へと退却していった。,その間、松前からは援軍の要請が弘前藩へ届いていた。 / 松前方面の攻防と青森
通史編3(近世2) (松前徳広の領内落去)

松前徳広の領内落去 さて、松前の状況は非常に切迫していた。,十一日から松前兵との攻防を続けていた土方隊が、大滝峠を越えたのは十四日のことであった。,、松前藩主一行七一人は、熊石村関内で長栄丸を借用して、十九日、ようやく出帆を果たした。  ,松前徳広の弘前城下への護送は、重い病状を気遣いながらの行程となった。,図68.松前城  松前藩一行が油川(あぶらかわ)・浪岡・藤崎などを通り、ようやく弘前の薬王院(やくおういん / 松前徳広の領内落去
通史編2(近世1) (「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)

「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制 後期幕藩体制下における蝦夷地支配において、幕領前期と後期の,間に挟まる形で存在するのが、「松前復領期」と呼ばれる時期である。,松前復領期にあっては、幕領の時期と同様、津軽弘前・盛岡両藩主が暇を賜って帰国する際、儀礼の中で「必松前表,一方、文政四年十二月七日に松前藩主松前章広へ申し渡された公儀からの達書をみると、津軽弘前・盛岡両藩との,松前復領期にも、異国船は蝦夷地にたびたび接近し、異国人が上陸した事例も存在する。 / 「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制
通史編2(近世1) (情報収集活動)

に派遣すること、藩御用達の松前町人工藤忠兵衛に状況を報告させること、小身の侍一人を松前に派遣し情報を国元,両者の任務のうち、道筋の見聞は、蜂起への他藩の介入を恐れる松前藩に阻止された。,その内容を整理すると、①松前藩の善悪、②犾の善悪、③藩主松前矩広と幕命によって派遣された松前泰広の動静,、④松前の「地下(じげ)」のこと、の四点に集約される。,方の兵力と動静、松前泰広を含めた松前藩側の兵力、松前藩の概況、また藩が加勢出兵するための下準備ともいうべき
通史編2(近世1) (寛文十年の情報収集)

寛文十年の情報収集 シャクシャインが松前藩に謀殺されたのちも、アイヌと松前藩との対立状況は、寛文十二年,内容は、松前全島の絵図、「松前上下口々商物」、全島産物出高、松前上下国々より諸方への道程、山河・道路の,彼らは松前藩士、同地の町人から情報を入手した。,彼らが得た情報は、上・下蝦夷地への密偵船に関する松前城下での風評と松前藩の対応、償いと交易再開をめぐる,の様子、松前藩の兵糧等などである。
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起の経過)

寛文蝦夷蜂起の経過 寛文九年(一六六九)、蝦夷地においてアイヌ民族が松前藩の支配に対する反発から蜂起,シュムクルは早くから松前藩の影響を強く受けていたが、メナシクルは、日高南部から現在の道東地域に勢力を張,援助要請するために松前藩に遣わされたオニビシの姉婿ウタフが帰途疱瘡で死んだ。,松前家から蝦夷蜂起の報を受けた幕府は、松前家の分家である旗本松前泰広(まつまえやすひろ)を下向させた。,やがて松前藩と蜂起アイヌ側の兵力の差が歴然となり、さらに松前藩側がアイヌ側を策によって分断し、アイヌの
通史編2(近世1) (家中払米の展開)

このため延宝三年(一六七五)三月に、松前兵庫矩広(のりひろ)が必要とした台所賄米(まかないまい)七〇〇〇,俵の沖口出が、弘前藩の不作を理由に拒否されていること(「国日記」延宝三年三月十六日条)は、松前藩にとって,夷島つまり松前は弘前藩士にとって米の売捌(うりさばき)場所として藩政当初から有力な市場であった。  ,仙台で売りさばくよりは松前で売りさばいた方が高く売れる可能性があったためと考えられる。,一方、松前に近い、小泊・十三からも松前へ米の積み出しがみられた。
通史編3(近世2) (政府軍の乙部上陸)

それによると、先鋒となるのは、長州藩三〇〇人、弘前藩三〇〇人、福山藩三〇〇人、松前藩四〇〇人、大野藩一,〇〇人、徳山藩一〇〇人の計一五〇〇人で、乙部村へ上陸し、松前口・唐沢部口・熊石辺りの探索という三手に分,政府軍の対応は素早く、上陸を終えた松前・大野藩兵などが直ちに布陣して反撃した。,たまらず旧幕府軍は敗走し、上陸を終えた政府軍は松前藩を先頭に、江差・松前方面・木古内(きこない)間道方面,そして、既に松前近くまで進軍してきた政府軍と根部田(ねぶた)村(現北海道松前郡松前町)付近で衝突し、政府軍
通史編2(近世1) ((二)蝦夷地出兵の諸段階)

津軽弘前藩では一五八二人を救援隊として組織し、七〇〇余人を松前に派遣した。,シャクシャインの戦いは、結局松前藩によって制圧されたため、津軽弘前藩は松前に駐屯しただけで帰弘し、また,結局、寛政元年(一七八九)八月、松前藩から鎮圧の報告が入り、出兵せずに終わっている。  ,ラクスマンの通商要求に対し、幕府は石川忠房らを宣諭使(せんゆし)として派遣し、ラクスマンと福山(現北海道松前郡松前町,寛政十二年から、松前藩が復領する文政四年(一八二一)までの期間がこれに当たる。
通史編3(近世2) (近隣諸藩の動向)

また、海峡を挟んだ松前藩でも、他藩と同様、藩論は紛糾していた。,松前藩は背後に蝦夷地を抱えており、大きく注目される状況下にあった。,図58.箱館奉行所  松前藩では、五稜郭の警備を請け負うなど、朝廷に対して恭順の意を示していたが,そのため、松前藩は、松前勘解由の主導で奥羽越列藩同盟に参加することに決定した。,松前藩の藩論を決定したのは、八月に起こったクーデターであった。
通史編2(近世1) (開国と箱館警備)

この事態に備え、幕府は安政元年(一八五四)六月二六日、松前藩主松前崇広(まつまえたかひろ)に対して、「,した伺書(『大日本古文書 幕末外国関係文書』七 補遺之部)では、本格的な警衛体制が確立するまで、当分は松前家,すなわち、幕府・箱館奉行は、非常時の箱館警備の軍事力を松前・津軽弘前・盛岡三藩に依存しようとしたのである,安政二年二月二十二日、松前地を除く蝦夷地全土の上知が松前家に命じられた(同前)。,津軽家の、箱館の警衛体制は追っての沙汰があるまでこれまでどおりとされた(「松前東西蝦夷地御用ニ付松前伊豆守上知之旨御書付
通史編2(近世1) (土着策と蝦夷地警備)

ここに、土着策の実施に関して、寛政元年の事件は何らかの促進的要因を持ち、逆に同九年以降の松前派兵は阻止的要因,「松前御加勢御人数一式調帳」(寛政元年九月 弘図古)によれば、そのうち一五九人(中間(ちゅうげん))が,たとえば役長柄奉行の建部菊太夫は松前出仕の支度金として一五両の借用を藩に願い出ているが、同時に郷人夫の,貸し付けも申し出ている(「松前御用諸書付留」寛政元年七月条 弘図古)ことからも知られるように、蔵百姓を,つまり、土着策実施の背景・目的の一つに松前出兵があったのである。  
通史編2(近世1) (寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)

寛文九年七月八日、津軽弘前藩に松前藩から蝦夷蜂起の第一報が届いた。,松前からの「蝦夷蜂起」の報によって、加勢が幕閣で討議されることを見越した江戸藩邸は、「松前表御加勢御人数定,次に、派兵が決定し、松前出兵が実施されるまでの対幕府折衝をみてみよう。,しかし、結局幕府は、七月十七日松前藩から救援要請があった場合の出兵を認めた。,津軽家では、同時にその旨、松前家へも通知した(同前)。
通史編2(近世1) (幕府の蝦夷地政策)

また、松前藩や場所請負(ばしょうけおい)商人たちが不当な交易や強制労働によってアイヌから莫大な利益を得,幕府は危機感をいっそう強め、同八年九月に松前御用掛を設置。,翌九年十月には津軽弘前・盛岡両藩に対して、交代で松前詰めを命じている。,および西蝦夷地をも上知して松前地・蝦夷地全域を直轄地とし、松前藩を陸奥梁川(やながわ)(現福島県伊達郡梁川町,奉行所も箱館から松前に移し、松前奉行としている。
通史編2(近世1) (蝦夷地への人口流出)

松前稼ぎには、鯡場(にしんば)稼ぎに代表される漁場労働のみならず、箱館・松前など都市部における「飯炊并勤奉公,」・茶屋奉公・売春などの稼ぎも相当数あり、また、松前のブローカーと結託して、女性を拘引(こういん)同様,天保元年(一八三〇)、藩は松前渡海に関する規定を設け、領民が渡海しようとする時は湊口(みなとぐち)改めを,そして松前から帰帆の際は、この切手によって身分を照会するものとした。
通史編1(古代・中世) (下国伊駒安陪姓之家譜)

下国伊駒安陪姓之家譜 『下国伊駒安陪姓之家譜』(史料一一五五・写真127)は、安藤氏庶子系の子孫である松前下国氏,(松前藩の家老職にあった一族)に伝えられた伝承に基づき成立したものと推測され、貞季以降の世系は『秋田家系図,さらにこの安日長髄は、欲界第六天主他化自在天の内臣天魔の次男とされ(松前藩の歴史書『新羅之記録』にも同様
通史編2(近世1) (「分領」はなぜ行われたのか)

分領は、幕府が蝦夷地出兵諸藩に対して軍役負担を強いたことへの見返りとする見方もあるが(『松前町史』通説編一下, 一九八八年 松前町刊)、安政六年七月の対露交渉の場で、カラフトの全面的領有を主張するロシア側から、箱館奉行
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

文政四年(一八二一)十二月七日、幕府は、陸奥国梁川(やながわ)(現福島県伊達郡梁川町)に移封されていた松前家当主松前章広,解決以降、蝦夷地警衛の体制は縮小へと向かい、文政元年(一八一八)以来、蝦夷地警衛の勤番地は、津軽弘前藩が松前,さらに、松前氏の蝦夷地復領に伴い、蝦夷地に派兵して警衛の任に当たっていた津軽弘前・盛岡両藩は翌年現地から,(『日本歴史大系』3・近世 一九八八年 山川出版社刊、なお松前家復領に至る政治的な背景については、多く,そこに松前藩の復帰工作が展開された。
通史編2(近世1) (津軽人のみた開港場箱館)

この魯僊が安政二年(一八五五)蝦夷地に渡り松前・箱館を旅した。,彼は六月十一日に弘前をたち、同十六日十三湊から松前に渡航、松前城下に二日滞在したのち、二十日箱館に到着,その成果は、三編の著書「箱館紀行」・「洋夷茗話(よういめいわ)」・「松前記行」として現在に残されている,「箱館紀行」では、松前藩に対する批判が随所にみえる。,松前入港時における役人の高慢な取り調べ、ペリー来航時の松前藩家老や箱館奉行のとった態度について厳しい批判
通史編3(近世2) (箱館戦争の開始)

箱館戦争の開始 このとき、上陸を知った箱館府では、派遣されていた福山・大野藩兵と、松前・弘前藩兵、そして,また、弘前藩の二小隊と松前藩兵が大野村へ到着していた。,二十三日には、大野村に陣を敷いた松前藩兵も敗戦し、七重村で防御を固めていた兵も大川までの撤退命令を受けた
通史編3(近世2) (商社の活動内容)

活動の第三の柱は松前産物の買い付けと、それを円滑化するために蝦夷地で場所(漁業生産を行う生産の場)経営,・大木屋円太郎・近江屋弥兵衛が弘前に召集され、松前・蝦夷地での鯡場(にしんば)経営の調査を命じられた。,これを受けて、青森側商人は同年十月に大木屋円太郎・近江屋弥兵衛と三厩の商人安保(あんぽ)正兵衛を松前・,その結果、松前・江差の経営者がいうには、漁民らが弘前藩から借金をしたからには、その者たちの荷物(今年分,の所得などの可処分財産)を取り上げても一向に構わないし、そのうえなお余分がある者から松前・江差の経営者
通史編2(近世1) (ロシアによるエトロフ襲撃事件)

ロシアによるエトロフ襲撃事件 文化四年、幕府は松前および東西蝦夷地一円を直轄化するが、これに大きな影響,なお、文化四年三月の幕府による松前および西蝦夷地の上知と松前藩の陸奥梁川(やながわ)(現福島県伊達郡梁川町
通史編2(近世1) (糧米確保)

こうした津留(つどめ)政策(松前へは条件付きで対象外となった)は、すでに六月に鰺ヶ沢から米が移出された,一方、移出については、さきに述べたように、七月からの津留政策下、条件付きではあるものの松前は除外されていた,七月二十一日、松前藩の家老から青森町奉行を通じて六、七〇〇〇石の米の津出が求められている。,これに対して、松前藩では、使者を派遣して二〇〇〇石を申し入れている。,この後に、松前から米の移出を求められているが、自領も他領から米を移入しているような状況であり、移出は困難
通史編3(近世2) (幕末の交易活動)

するため、幕府は蝦夷地を上知し、箱館奉行を設置するとともに、その警衛を弘前・盛岡・秋田・仙台の東北諸藩と松前藩,その後、安政六年に蝦夷地が松前藩および東北六藩の分領支配とされると、蝦夷地警備を媒体(ばいたい)とする
通史編2(近世1) (津軽領内のアイヌ民族)

それには、松前藩の商場知行制(あきないばちぎょうせい)の確立が影響している。,松前藩は夷島(えぞがしま)を和人の定住地である「松前地」とアイヌの人々の居住地である「蝦夷地」に分け、,この制度が整ってくる寛永期を境に、アイヌの人々はそれまでのように自由な交易をすることができなくなり、松前藩,彼らは蝦夷地にも出漁していた形跡がみられるが、これについても松前藩に運上金を納めなければならなかった(
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

(かきざき)氏も鷹献上を下命され、文禄二年(一五九三)正月、豊臣政権から日本海沿岸の各大名に対して、松前,本州北端の津軽からの鷹献上に次いで、文禄期に入って松前から京都に至る鷹献上の下命がなされたことにより、,これは徳川政権にあっても引き継がれ、慶長九年(一六〇四)八月、徳川家康は松前から京都に至る鷹献上に、沿道
通史編2(近世1) (東西蝦夷地直轄下の勤番体制)

東西蝦夷地直轄下の勤番体制 文化四年三月の松前および西蝦夷地の上知決定に伴い、翌四月、津軽弘前藩は盛岡藩,松前・江差・ソウヤ・北蝦夷地(サハリン、カラフト)が主たる勤番地であり、毎年半数以上の越年者がいることがわかる,なお、文化十二年以降、警衛体制が大幅に縮小され、警衛地も松前一ヵ所と台場(だいば)の守衛に限定された。
通史編2(近世1) (領内アイヌと寛文蝦夷蜂起)

先述した七月十五日付の江戸家老北村からの指示には、外浜・十三・鰺ケ沢の松前往来船数と領内アイヌの所有船数,松前と幕府との間の飛脚船にも犾が徴用されており、老中奉書のような幕府の意志決定を伝える重要文書の運搬に
資料編3(近世編2) (第一節 後期藩政の展開と社会状況)

三)飢饉への対応  (四)廃田開発・大庄屋制  (五)農村の掌握  (六)諸色高値  (七)松前稼
資料編3(近世編2) (第三節 蝦夷地警備と開港下の政治動向)

第三節 蝦夷地警備と開港下の政治動向 一 蝦夷地への出兵と警備  (一)寛政年間の派兵  (二)松前
通史編2(近世1) (三 鷹献上と鷹保護)

当時における鷹の最大の供給地としては、松前蝦夷地と奥羽地方が供給地全体の七割近くを占め、対馬を経由した,なかでも松前は、奥羽地方が後に各大名領での鷹の自給に汲々としていたのに対し、後背地の蝦夷地に広大な鷹の
通史編2(近世1) (人返し令)

特に他領稼ぎについては松前稼ぎが日常化している状況下では、その対応はひととおりではいかないものがあった,「国日記」天明七年十月七日条(資料近世2No.二七~二九)などからは、松前表への鰊割(にしんわり)や鰊漁,同寛政十一年二月二十四日条では、人別改めにおける「出奔(しゅっぽん)」数の増加の理由として、生活難渋のために松前
通史編3(近世2) (法立寺)

日尋は松前・秋田へ布教し、京都で死去した。  
通史編2(近世1) (参勤交代路と街道の状況)

松前藩主も同時期には西浜街道を参勤交代路として利用しているのである。,図85.旧松前街道(平舘台場跡付近)の松並木  現在、「松原」の地名が各地に点在するが、かつての,津軽領で松並木が現存するのは松前街道の平舘(たいらだて)村の平舘灯台付近と、百沢街道の岩木町新法師から
通史編2(近世1) (土着策施行期の廃田開発)

『平山日記』寛政五年条によれば、松前出人夫がおびただしくなることによって、百姓が直接開発のための郷役を,しかしながらこの、人不足→仮子給銀の上昇→百姓潰れ→人不足という悪循環は、松前出人夫の継続と藩財政拡大
通史編2(近世1) (旅行者のみた領内海防)

やや)減じて僅かに百人のみ」とするのは、直接海防に当たる人数ではなく、三厩に勤番し蝦夷地派兵に備える「松前御固人数,さらに平舘は三厩より駐留の兵員が少ないことを述べ、また「松前非常」・「海岸非常」の各一隊ありとしているのは,、「松前非常」隊が三厩駐留の「松前御固人数」のこと、「海岸非常」隊が津軽領沿岸に異国船が来航した際に派遣,この村垣が安政元年(一八五四)、目付堀利煕(ほりとしひろ)と松前、蝦夷地の視察に赴いた。
通史編2(近世1) (負担の増大による民衆の困窮)

寛政十一年、東蝦夷地が当面七ヵ年間の仮上知とされると、松前・蝦夷地への通行量が増加し、街道沿いの村々は,松前・蝦夷地への往来は原則として三厩(みんまや)(現東津軽郡三厩村)からであり、通行筋に当たる油川(あぶらかわ,困窮した者のなかには、内々で松前に雇われている者もあり、このような状況になってしまえば、幕府御用も差し,しかし、幕府の蝦夷地政策はその後、東蝦夷地のみならず、松前・蝦夷地一円を直轄地としていくのであり、助郷負担
通史編2(近世1) (金木屋日記にみる対外危機)

又三郎の日記にはロシアが松前奥地カラフトに侵入し、地元民に漁業をさせているため、松前家の人数が宗谷(そうや,続いて日記では、松前家はこの派兵のため足軽を新規に三〇〇人ほど雇い、軍備に支障が出ないようにしているが
通史編3(近世2) (神明宮)

そのほか安政二年(一八五五)には松前渡海安全の祈祷、慶応三年(一八六七)には疱瘡(ほうそう)安全の守札
資料編3(近世編2) (【解説】)

この騒動にあたり、松前より要請のあり次第出兵すべき旨の幕命があり、弘前藩では合計一六五〇人の出動態勢を,しかし、八月、松前より鎮定の報告があり、結局派兵せずに終わっている。  ,を陸奥梁川九千石に転封し、松前・蝦夷地一円を幕領化していった。,蝦夷地の直轄は、対露関係の相対的緩和によって、文政四年(一八二一)に松前藩に松前・蝦夷地一円が返還されるまで,幕府は翌二年、松前藩領を除いて再び全蝦夷地を直轄地とし、仙台・秋田・盛岡・松前各藩とともに弘前藩に蝦夷地警備
通史編3(近世2) (戦局の推移と戦費負担の増加)

この間にも元年十一月には松前藩主松前徳広(まつまえのりひろ)一行が榎本軍に追われて三厩(みんまや)に落,609  8 徳山藩 252 252  9 大野藩 162 162 10 福山(松前,3,628人  9 清水谷公考青森転陣にともなう警備 217,290 警備人数6,855人 10 松前徳広青森落去
通史編1(古代・中世) (蝦夷か蝦夷の支配者か)

この立場からすれば、松前藩の創成を物語る『新羅之記録』が、蝦夷の子孫である安藤氏が津軽を押領しているという,説話を採用したのは、筆者松前景広が、自らの先祖による「えぞが島」の安藤氏からの簒奪(さんだつ)、すなわち
通史編2(近世1) (民兵の登場)

今別では松前稼ぎのものが多く屈強な者が少なかったため、万一の際には三厩詰将兵が派遣されることになった。,日雇人夫が多かった十三でも、彼らが早春から晩秋まで松前稼ぎに出るために人数が確保できず、隣接する四ヵ組
通史編3(近世2) (八幡宮)

また、松前出兵の藩士へ渡海安全の守札を配布した。  
通史編5(近・現代2) (伊東梅軒)

一八四八)二月一日、藩主に御目見(おめみえ)し、九月結婚、翌二年十月希望して御馬廻七番組となり、海岸并松前非常兵士本手,嘉永七年五月海岸并松前非常の節役長柄奉行となる。,文久二年(一八六二)三月から松前スッツの旗奉行として翌三年六月まで勤務、元治元年(一八六四)からは忰廉三郎
通史編2(近世1) (対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)

藩が松前・蝦夷地を利をもたらす場所としてとらえているにもかかわらず、その地理的な利点を充分に活用しておらず,これに対抗するには、松前における夏の米価が、諸国の米相場と上方から米を載せてくる下り船の状況によって左右,を覚悟で米を売却して米を廻漕する上方商人を駆逐し、冬場には大量の米を高値で売却すれば、津軽領産の米が松前
通史編3(近世2) (宮古湾海戦)

一八〇人 久留米藩兵 二五〇人   福山藩兵 六二一人 徳山藩兵 二五五人   大野藩兵 一六六人 松前藩兵,明治元年十一月、松前藩攻撃の際に座礁させ、沈没した開陽の損失が大きな痛手となった旧幕府軍は海軍力の回復
通史編2(近世1) (捜索・召捕)

町奉行配下の諸役人の手先として利用されたが、職制としては非公認の私的な使用人にすぎなかった(杉山・平松前掲書
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