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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (日雇と松前稼ぎ)

藩では領民の松前稼ぎを禁止する布達をたびたび出している。,が松前稼ぎに行っている。,女性の内一人は洗濯師として松前へ渡っている。,女性も二人おり、いずれも洗濯師として松前に出稼ぎに行っている。,逆に、この年の春に一家五人が松前稼ぎから戻って来た場合もあった。 / 日雇と松前稼ぎ
通史編3(近世2) (松前方面の攻防と青森)

ここで彼らの次の標的が松前藩へと設定されたのである。,また、十一月一日には軍艦開陽が箱館港に入港する一方で、蟠龍が松前湾において、松前城に砲撃を行い、同城に,松前勢も知内(しりうち)において夜襲を仕掛けるが敗退。,結局松前城は持ちこたえられずに落城し、松前藩兵は城下に火を放ちながら館城や江差へと退却していった。,その間、松前からは援軍の要請が弘前藩へ届いていた。 / 松前方面の攻防と青森
通史編1(古代・中世) (安藤氏の没落)

安藤氏の没落 その後の両者の衝突は永享四年(一四三二)にみられ、安藤氏と南部氏との戦いの結果、安藤氏,攻められ松前に逃れ、盛季の子康季(やすすえ)が文安二年(一四四五)に夷島より津軽へ戻るが引根(ひきね),しかも、下国惣領家の没落後に、外が浜潮潟(うしおがた)の道貞(みちさた)に始まる潮潟安藤氏の系統が南部氏,いわば、南部氏の傀儡(かいらい)的な存在であったのだが、南部氏にとっては、北方海域に割拠していた安藤氏,南部氏は自らの支援で安藤氏の擁立をしてまでも、安藤氏権力を吸収したかったのである。 / 安藤氏の没落
通史編1(古代・中世) (下国伊駒安陪姓之家譜)

下国伊駒安陪姓之家譜 『下国伊駒安陪姓之家譜』(史料一一五五・写真127)は、安藤氏庶子系の子孫である,松前下国氏(松前藩の家老職にあった一族)に伝えられた伝承に基づき成立したものと推測され、貞季以降の世系,この家譜では、冒頭に、安藤氏の始祖として「安日(姓)長髄(名)」なる人物を置く。,さらにこの安日長髄は、欲界第六天主他化自在天の内臣天魔の次男とされ(松前藩の歴史書『新羅之記録』にも同様,またやはり他と異なり、安日長髄が下国氏を称したことも記述されている。  
通史編2(近世1) (三 鷹献上と鷹保護)

一九九八年 吉川弘文館刊、同編『弘前の文化財 津軽藩初期文書集成』一九八八年 弘前市教育委員会刊 以後、津軽氏の,すきにならせられ候て、此方より御たかまいり候」(「家忠日記」天正十六年三月晦日条)と記録しており、徳川氏も,当時における鷹の最大の供給地としては、松前蝦夷地と奥羽地方が供給地全体の七割近くを占め、対馬を経由した,なかでも松前は、奥羽地方が後に各大名領での鷹の自給に汲々としていたのに対し、後背地の蝦夷地に広大な鷹の
通史編2(近世1) (警備引き揚げとその背景)

文政四年(一八二一)十二月七日、幕府は、陸奥国梁川(やながわ)(現福島県伊達郡梁川町)に移封されていた松前家当主松前章広,解決以降、蝦夷地警衛の体制は縮小へと向かい、文政元年(一八一八)以来、蝦夷地警衛の勤番地は、津軽弘前藩が松前,さらに、松前氏の蝦夷地復領に伴い、蝦夷地に派兵して警衛の任に当たっていた津軽弘前・盛岡両藩は翌年現地から,(『日本歴史大系』3・近世 一九八八年 山川出版社刊、なお松前家復領に至る政治的な背景については、多く,そこに松前藩の復帰工作が展開された。
通史編1(古代・中世) (蝦夷か蝦夷の支配者か)

、安藤氏を安倍氏の後裔である「東夷」として扱い、「蝦夷」とは系譜的に区別していることからすると、安藤氏,を蝦夷の子孫とする系譜よりは、その蝦夷の統括者であった安倍氏こそが安藤氏の祖であるとする系譜のほうが古,この立場からすれば、松前藩の創成を物語る『新羅之記録』が、蝦夷の子孫である安藤氏が津軽を押領しているという,説話を採用したのは、筆者松前景広が、自らの先祖による「えぞが島」の安藤氏からの簒奪(さんだつ)、すなわち,安藤氏の末裔である秋田氏が、近世に一時期使用した「伊駒」姓も、日本神話はもとより、蝦夷の祖である安日・
通史編2(近世1) (鷹献上システムの成立)

同様に夷島の蠣崎(かきざき)氏も鷹献上を下命され、文禄二年(一五九三)正月、豊臣政権から日本海沿岸の各大名,に対して、松前から京都に至る鷹献上の道中に支障のないように指令が下された(『福山秘府』)。,本州北端の津軽からの鷹献上に次いで、文禄期に入って松前から京都に至る鷹献上の下命がなされたことにより、,これは徳川政権にあっても引き継がれ、慶長九年(一六〇四)八月、徳川家康は松前から京都に至る鷹献上に、沿道
通史編3(近世2) (八幡宮)

また、松前出兵の藩士へ渡海安全の守札を配布した。  ,神主小野氏は、別当最勝院の支配を受け、熊野宮(現熊野奥照(くまのおくてる)神社)神主長利氏とともに社家頭
通史編1(古代・中世) (津軽奪還を目指して)

このことから、師季の保護は、南部氏が十三湊安藤氏にかわる安東(この時期に「安藤」から「安東」に氏の表記,によって、師季が自立した勢力として南部家に対抗する土台が形成されたと考えられ、二年後の康正二年、上之国・松前,さらに同年、秋田にいる安東氏の一族、湊安東(みなとあんどう)氏の当主安東堯季(たかすえ)は、安東師季を,これがのちの檜山安東(ひやまあんどう)氏の始まりとなる。,写真183 『松前年代記』 安東政季の渡海 目録を見る 精細画像で見る 写真184 安東師季願文
通史編1(古代・中世) (浪岡城攻略)

山科家は浪岡北畠氏の朝廷取り次ぎ役的な立場にあったともみられる。,そして、具永・具運といった名前は浪岡北畠氏の当主であり、伊勢国司の北畠氏と同じ「具」を通字とし、伊勢北畠氏,の浪岡周辺を中心に、岩木川下流域から外浜の北半分に及んでいたといい、しかも松前家の家譜である「新羅之記録,浪岡御所北畠氏は夷島の蠣崎氏もその影響下に置き、日の本将軍安藤氏と密接な関係にある存在であった。,安藤氏による津軽侵攻を招くことになった。
通史編1(古代・中世) (「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏)

浪岡北畠氏は、戦国期に入っても近隣の諸氏から「浪(波)岡御所」と呼ばれ、強い権威を有していた(史料九四八,浪岡北畠氏が一定の勢力を保つことができたのは、檜山へ移動した下国安東氏と南部氏両者の緩衝勢力として、幕府,一六世紀半ばには、しばしば浪岡北畠氏の名が同時代史料にあらわれるようになる。,これらの官位は比較的高いものであり、任官コースは、「三国司家」と呼ばれた浪岡北畠氏と同族とされる伊勢国司北畠氏,、松前からの船着き場として「稲我郡潮潟之野田玉川村」(現青森市後潟(うしろがた))を与えたことがみえる / 「津軽(郡)中名字」と浪岡北畠氏
資料編3(近世編2) (【解説】)

この騒動にあたり、松前より要請のあり次第出兵すべき旨の幕命があり、弘前藩では合計一六五〇人の出動態勢を,しかし、八月、松前より鎮定の報告があり、結局派兵せずに終わっている。  ,を陸奥梁川九千石に転封し、松前・蝦夷地一円を幕領化していった。,蝦夷地の直轄は、対露関係の相対的緩和によって、文政四年(一八二一)に松前藩に松前・蝦夷地一円が返還されるまで,幕府は翌二年、松前藩領を除いて再び全蝦夷地を直轄地とし、仙台・秋田・盛岡・松前各藩とともに弘前藩に蝦夷地警備
資料編1(古代・中世編) ([十五世紀])

●永享四年(一四三二)十月、下国安藤氏、南部氏に敗れ蝦夷島に敗走。幕府、調停に乗り出す。,享徳三年(一四五四)八月、武田信広・相原政胤・河野政通ら、安東政季(師季)を擁し、陸奥大畑より蝦夷島松前,●文明年間(一四六九~八七)初めごろ、陸奥国宮城郡留守氏の一族餘目氏、「餘目氏旧記」を作成。,●明応五年(一四九六)十一月、檜山屋形下国安東忠季、蝦夷島よりの注進をうけ、松前守護下国恒季を討伐するという,●明応八年(一四九九)、一向宗門徒弘賢、蝦夷島松前上ノ国に浄願寺を建立するという。
通史編2(近世1) (近世大名と大名課役)

津軽家の大名課役について概観するが、寛文九年(一六六九)の寛文蝦夷蜂起(シャクシャインの戦い)に際しての松前出兵,長谷川成一「北方辺境藩研究序説―津軽藩に課せられた公役の分析を中心に―」・「所謂『北狄の押へ』の再検討―浪川氏の
通史編2(近世1) (北奥羽の領知確定)

由利五人衆の石沢氏・祢々井(ねのい)氏・下村(しもむら)氏らはわずか一ヵ村のみを知行する小名であるが、,豊臣政権はこれら由利の小名や仙北衆・秋田氏、そして津軽氏を「隣郡之衆」に編成することにより、太閤蔵入地,津軽氏や南部氏については、現在のところ石高表記の朱印状が確認されていないが、天正十九年の十月までには両氏,夷島の蠣崎(松前)氏も、文禄二年(一五九三)一月五日、名護屋に参陣し、夷島の支配権を公認する秀吉朱印状,松前氏の領内にも御鷹場が設置されていることから、政権は太閤蔵入地以外の高外地をも支配下に置き、統一政権
資料編1(古代・中世編) ([十六世紀])

●永正十年(一五一三)六月、松前大館、蝦夷の攻撃により陥落し、松前守護相原季胤自害するという。,●永正十一年(一五一四)三月、蠣崎光広父子、上ノ国より松前大館に移り、のち檜山屋形下国安東尋季より狄島守護,●天文十三年(一五四四)、弘前親方町竹内氏、この年より先祖嘉右衛門が十三湊にて大浦氏の廻船御用を務めると,●永禄元年(一五五八)、北夷地(樺太)産の上質の鷲羽、松前にもたらされ、蠣崎季広、これを熊野大社に奉納,●天正六年(一五七八)十月四日、松前の蠣崎季広、下国安東愛季の側近にあてて書状を送り、檜山勢の津軽出陣
資料編1(古代・中世編) (二 乳井茶臼館の歴史)

福王寺門前集落(寺内)のすぐ南にそびえる茶臼館の立地から考えて、館の築造者はこの福王寺別当乳井氏以外には,乳井氏は、もともと独立の領主であったが、天正二年(一五七四)、福王寺玄蕃が大光寺城主瀧本重行に謀殺されたことから,翌七年(一五七九)には、麾下の蝦夷島松前館主・蠣崎季広に渡海・出陣を命じるとともに、自らも再び津軽に出兵
通史編1(古代・中世) (一六世紀の湊)

『新羅之記録』によると、永禄三年(一五六〇)に勝山館から松前に移った蠣崎(かきざき)氏が浪岡御所北畠氏,このように一六世紀の陶磁器の動きをみると、主体となる交易港は十三湊ではなく、外浜を支配していた浪岡北畠氏を
通史編3(近世2) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

131~132頁 1986年 北方新社刊 7 守貞漫稿 国立国会図書館蔵 8 刑罪大秘録 八木橋武實氏旧蔵,日条 弘前市立図書館蔵津軽家文書 20 奥民図彙 国立公文書館蔵内閣文庫 21 津軽風俗画巻 長谷川隆氏蔵,仙台市博物館写真提供 55 作成 56 御用留 明治2年2月16日条 弘前市立図書館蔵岩見文庫 57 鶴ヶ岡ヨリ松前海道津軽青森江出箱舘江渡海蝦夷地宗谷迄道中絵図明細記鶴岡市郷土資料館蔵原家文書,青森県上北郡野辺地町 66 北海道檜山郡江差町 財団法人 開陽丸青少年センター写真提供 67 作成 68 松前町郷土資料館蔵,146 青森県弘前市実地明細絵図 弘前市立図書館蔵一般郷土資料 147 佐藤吉長氏蔵 148 高谷信夫氏蔵
通史編1(古代・中世) (四 中世津軽の宗教世界の特色)

既述の安藤氏の津軽山王坊や修験的先達をはじめ、北畠氏の京徳寺、武田氏の宗徳寺、津軽氏の藤先寺、大浦氏の,長勝寺・海蔵寺・天津院、乳井氏の盛雲院などは、在地領主主導の寺社造立である。  ,嘉吉三年、武田太郎源信廣、海ヲ越テ蝦夷国ヘ乱入シ、終ニ地ヲ得コト小道四百二十里、今道七十里、是即今ノ松前也,此松前ノ北ノ限リヲ熊石ト云、多賀城ヨリ熊石マデ小道一千三百二十里、今道二百二十里也。,「夷俘」は、地名を氏とし、「公」を姓とすることが多い。
資料編2(近世編1) (編年史料 (天正十七年~明暦二年))

●文禄二年(一五九三)正月六日、豊臣秀吉、松前よりの巣鷹献上に、津軽為信等の領内で献上道中に支障なきよう,●元和元年(一六一五)三月九日、津軽信枚、松前福山城主松前慶広を高岡城にて饗し、双互の親和回復を図る。,●元和六年(一六二〇)、この年、キリスト教宣教師ディオゴ・カルワーリュ、松前から津軽高岡に至り、信者の,●寛永十七年(一六四〇)六月十四日、これより先、松前恵山の嶽噴火し、津軽領にも灰降る。,●正保元年(一六四四)九月、松前福山城主松前家の一門松前景広の嫡男宣広、松前を出航し津軽に漂着するという
通史編2(近世1) (太閤蔵入地の設定)

太閤蔵入地の設定 右にみてきたように、天正十九年十月までに確定された津軽氏の領知高は三万石程度であったと,その後、政権が徳川氏に移った後、津軽地方に設定された太閤蔵入地は、自動的に津軽氏の領地として編入されたのである,そして、ここに幕藩体制下における津軽氏の本高四万五〇〇〇石が確定したのである。,そして、その支配形態も、秋田氏と同じように、太閤蔵入地・津軽氏知行地の双方が各村に含まれ、代官として津軽氏,鷹の保護が命じられたのは、単に津軽地域が松前と並んで鷹の産地であったからというのではなく、「御鷹」、すなわち
通史編2(近世1) (「津軽一統志」の編纂)

この書は津軽氏の事績を記すことに主眼があり、同じ事件にいくつかの説がある場合、まず本来の事象と考えられるものを,中でも、巻一〇に収められた寛文蝦夷蜂起の際の松前出兵に関する記事は、その詳細さによって、現在でもこの事件,イデオロギーの面から津軽弘前藩の存在の正当性を明らかにし、補強しようとしたものといえよう(長谷川成一「津軽氏」
通史編3(近世2) (町方の軍事負担)

町 名 氏 名 年齢 家業・他  1 不 明 中畑忠司 20歳 中畑忠三郎二男  ,さらに、人的負担も大きく、たとえば明治元年十一月に榎本武揚(たけあき)の旧幕府脱艦隊に攻められて、松前藩主徳広
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

… 新羅之記録・松前家記・八戸湊文書 250 ●康正二年(一四五六)ころ? ,… 新羅之記録・福山秘府・松前家記 253 ●康正三年(一四五七)ころ? ,、松前守護相原季胤自害するという。,… 新羅之記録・松前家記・八戸湊文書 289 ●天文十五年(一五四六)、浪岡御所北畠氏、「津軽郡中名字,…………… 新羅之記録・松前家記 328 ●天正四~十年(一五七六~八二)の間? 
通史編2(近世1) (奥羽大名の名護屋参陣)

途中にある朝鮮は対馬の属国と考えており、当然朝鮮は関白の秀吉に服属すべきものと考え、その服属の仲介を宗氏に,しかし、一方の朝鮮側では宗氏は朝鮮に服従しているとみなし、また、宗氏自身朝鮮との交易で利益を得ており、,宗氏は苦心の末、秀吉の日本統一を祝賀するという名目で、天正十八年十一月、朝鮮の通信使(つうしんし)を訪日,加賀宰相前田利家の配下には南部信直・本堂忠親(ほんどうただちか)、蒲生氏郷の配下には最上義光・大崎義隆,すでに秀吉は、九戸一揆鎮圧によって、津軽為信、南部信直、そして「日の本」領主蠣崎(松前)慶広らの大名衆
通史編1(古代・中世) (掲載図版・写真の典拠・所蔵一覧)

南津軽郡大鰐町 大円寺蔵 口絵15 和歌山県東牟婁郡那智勝浦町 熊野那智大社蔵 口絵16 秋田系図 秋田美篤氏蔵,写真117 八戸市立図書館蔵南部家文書 南部光徹氏蔵 写真118 岩手大学附属図書館蔵宮崎文書 写真,119 撮影 写真120 八戸市立図書館蔵南部家文書 南部光徹氏蔵 写真121 同上 写真122 同上, 南6光徹氏蔵 写真165 聞老遺事 弘前市立図書館蔵 写真166 福井県小浜市 羽賀寺蔵 写真167,179 弘前市教育委員会 写真180 撮影 写真181 弘前市教育委員会 写真182 同上 写真183 松前年代記
通史編1(古代・中世) (一 中世寺院の建立)

子息と室による藤先(ふじさき)村(現藤崎(ふじさき)町)の藤先寺、乳井(にゅうい)村(現弘前市)に乳井氏が,津軽一統志』貞昌寺  そのなかにあって、唯一、特異なのが、中野(浪岡町)に造営され、浪岡城主北畠氏の,この一五世紀の末葉の油川は、「日ノ本将軍」安藤氏の従前の拠点十三湊に代わって、奥大道の終着点であると同時,「当寺開基日尋は本山開祖日秀か八代の法孫なり本満寺の衆徒なり、故有て擯せられ、其罪を補として、松前に蟄,このような、夷島と津軽との交流を、十三湊を拠点とする「蝦夷管領」安藤氏は、幕府の現地執行者として、また
通史編3(近世2) (三 八幡宮の祭礼と山車の運行)

このため、藩主より町民に至るまで氏子であった。,一七五八)から領内不作で神輿の渡御のみであったが、安永三年(一七七四)、山車が復活し、南部・仙台・秋田・松前,紺屋町と新町から山車を出す願いがあったが、この町内は、袋宮権現宮(現熊野宮、市内茜町(あかねちょう))の氏子
資料編1(古代・中世編) (出典・典拠一覧(第一章・第二章))

「戦国期若狭小浜の関戸氏と組屋氏」福井県総務部県史編さん課『県史資料』4 か 廻船式目 …………………, …………… 大島正隆氏論文「北奥大名領成立過程の一断面」(『東北中世史の旅立ち』) 佐藤弥六氏所蔵文書,松前家記 ………………………………………………………………………………………………… 『松前町史』史料編,1 松前旧事記 …………………………………………………………………………………………………… 北海道立文書館本,松前年歴捷径 ………………………………………………………………………………………………… 北海道立文書館本
通史編3(近世2) (城下での生活)

今日城下の町々へ、各家々で氏神を祭り、八月十五日より八幡祭りを行うようにとの命令が出された。  ,松前からの使者と木村助左衛門が今帰ったことを高屋権兵衛をもって申し上げる。  
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

 1956年 *26 鈴木尚 「青森県上北郡滝尻洞窟」(日本考古学年報5) 1957年 *27 氏家和典, 「尻高(5)遺跡・郷沢遺跡の製塩土器」(青森県考古学2) 1985年 *242 久保泰 『札前』松前町教育委員会,(5)遺跡』(青森県埋蔵文化財調査報告書第106集) 1987年 *253 八木光則 「安倍・清原氏の,尾上町原遺跡発掘調査報告』尾上町教育委員会 1990年 *324 三浦圭介 「考古学的に見た奥州藤原氏と
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