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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(松前城の恢復)
松前
城の恢復 江差を早々に押さえた政府軍の兵力は、木古内口の攻防と、
松前
城下の恢復に注がれた。,四月十六日、政府軍は原口(はらぐち)(現北海道
松前
郡
松前
町原口)に陣を構えていた。,まず、春日丸が海上より敵を引きつけ、発砲を開始し、
松前
へ追い立てていく。,陸路からの軍勢もその後を追い
松前
へと迫っていった。,旧幕府軍は折戸(おりと)の台場で必死の防戦を行ったが、長州
藩
・徳山
藩
の働きが大きく、ついに
松前
城を恢復 /
松前
城の恢復
通史編3(近世2)
(松前方面の攻防と青森)
ここで彼らの次の標的が
松前
藩
へと設定されたのである。,結局
松前
城は持ちこたえられずに落城し、
松前
藩
兵は城下に火を放ちながら館城や江差へと退却していった。,その間、
松前
からは援軍の要請が弘前
藩
へ届いていた。,
松前
藩
主徳広(のりひろ)からは十月晦日付で援軍を要請する内容の書状が弘前
藩
主宛てにもたらされ(同前No,十三日には、
松前
藩
へも出兵手配が行われていることが報じられた。 /
松前
方面の攻防と青森
通史編3(近世2)
(松前徳広の領内落去)
松前
徳広の領内落去 さて、
松前
の状況は非常に切迫していた。,旧幕府軍の勢いに、
藩
主
松前
徳広らは土橋(現北海道檜山郡厚沢部町)へ避難して情勢を見守るしかなかったという,、
松前
藩
主一行七一人は、熊石村関内で長栄丸を借用して、十九日、ようやく出帆を果たした。 ,図68.
松前
城
松前
藩
一行が油川(あぶらかわ)・浪岡・藤崎などを通り、ようやく弘前の薬王院(やくおういん,なお、
松前
藩
に残った
藩
兵は旧幕府軍から降伏を促され、
藩
主の出帆を知った後の二十日、武装を解除した。 /
松前
徳広の領内落去
通史編3(近世2)
(日雇と松前稼ぎ)
藩
では領民の
松前
稼ぎを禁止する布達をたびたび出している。,が
松前
稼ぎに行っている。,女性の内一人は洗濯師として
松前
へ渡っている。,女性も二人おり、いずれも洗濯師として
松前
に出稼ぎに行っている。,逆に、この年の春に一家五人が
松前
稼ぎから戻って来た場合もあった。 / 日雇と
松前
稼ぎ
通史編2(近世1)
(「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)
「
松前
復領期」における蝦夷地派兵準備体制 後期幕
藩
体制下における蝦夷地支配において、幕領前期と後期の,文政四年(一八二一)十二月七日、幕府は両
藩
に対してほぼ同内容の達書を発し、
松前
藩
の蝦夷地復領を告げるとともに,
松前
復領期にあっては、幕領の時期と同様、津軽弘前・盛岡両
藩
主が暇を賜って帰国する際、儀礼の中で「必
松前
表,(千葉一大「
松前
復領期における盛岡
藩
の蝦夷地派兵準備体制」『青森県史研究』四)。 ,一方、文政四年十二月七日に
松前
藩
主
松前
章広へ申し渡された公儀からの達書をみると、津軽弘前・盛岡両
藩
との / 「
松前
復領期」における蝦夷地派兵準備体制
通史編3(近世2)
(近隣諸藩の動向)
また、海峡を挟んだ
松前
藩
でも、他
藩
と同様、
藩
論は紛糾していた。,
松前
藩
は背後に蝦夷地を抱えており、大きく注目される状況下にあった。,図58.箱館奉行所
松前
藩
では、五稜郭の警備を請け負うなど、朝廷に対して恭順の意を示していたが,そのため、
松前
藩
は、
松前
勘解由の主導で奥羽越列
藩
同盟に参加することに決定した。,
松前
藩
の
藩
論を決定したのは、八月に起こったクーデターであった。 / 近隣諸
藩
の動向
通史編2(近世1)
(寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)
松前
藩
と海を隔てて隣国である津軽弘前
藩
や盛岡
藩
にとっては、蜂起の報がもたらされた段階で、今後の派兵が想定,寛文九年七月八日、津軽弘前
藩
に
松前
藩
から蝦夷蜂起の第一報が届いた。,
松前
からの「蝦夷蜂起」の報によって、加勢が幕閣で討議されることを見越した江戸
藩
邸は、「
松前
表御加勢御人数定,しかし、結局幕府は、七月十七日
松前
藩
から救援要請があった場合の出兵を認めた。,また、
松前
藩
からの要請に応じて、津軽弘前
藩
、秋田
藩
、盛岡
藩
、仙台
藩
が兵器・兵糧の貸与という具体的な形での / 寛文蝦夷蜂起と津軽弘前
藩
通史編2(近世1)
(弘前藩の副藩主)
弘前
藩
の副
藩
主 明暦二年(一六五六)、津軽弘前
藩
主四代信政の襲封(しゅうほう)に伴い、その後見役として,
松前
警備や沿岸警備の任務を負っていたのであって、当然ながら不測の事態においては軍事指揮権を含んでいたと,後見役から「副
藩
主」へという立場の変化は、津軽弘前
藩
と黒石
藩
の一体化が、図られていったということにもなろう,逆のケースとしては、黒石六代寧親が本
藩
九代
藩
主となり、黒石九代順徳(ゆきのり)が改名して本
藩
十一代
藩
主順承,黒石立
藩
の立て役者となったのが本
藩
藩
主となった寧親であり、彼以後両
藩
の家系維持のための交流が多く行われ / 弘前
藩
の副
藩
主
通史編2(近世1)
(情報収集活動)
情報収集活動 津軽弘前・盛岡・秋田の三
藩
は、
松前
へ
藩
士を派遣して戦況等に関する情報を入手する一方、それぞれの,を密かに
松前
に派遣すること、
藩
御用達の
松前
町人工藤忠兵衛に状況を報告させること、小身の侍一人を
松前
に派遣,両者の任務のうち、道筋の見聞は、蜂起への他
藩
の介入を恐れる
松前
藩
に阻止された。,その内容を整理すると、①
松前
藩
の善悪、②犾の善悪、③
藩
主
松前
矩広と幕命によって派遣された
松前
泰広の動静,方の兵力と動静、
松前
泰広を含めた
松前
藩
側の兵力、
松前
藩
の概況、また
藩
が加勢出兵するための下準備ともいうべき
資料編3(近世編2)
(第一節 後期藩政の展開と社会状況)
第一節 後期
藩
政の展開と社会状況 一 宝暦・天明期の社会状況 (一)宝暦飢饉 (二)天明飢饉,三)飢饉への対応 (四)廃田開発・大庄屋制 (五)農村の掌握 (六)諸色高値 (七)
松前
稼,ぎ 二
藩
財政の窮乏と商品流通 (一)廻米と借財 (二)知行借り上げと蔵入り (三 / 第一節 後期
藩
政の展開と社会状況
通史編2(近世1)
(寛文蝦夷蜂起の経過)
寛文蝦夷蜂起の経過 寛文九年(一六六九)、蝦夷地においてアイヌ民族が
松前
藩
の支配に対する反発から蜂起,シュムクルは早くから
松前
藩
の影響を強く受けていたが、メナシクルは、日高南部から現在の道東地域に勢力を張,援助要請するために
松前
藩
に遣わされたオニビシの姉婿ウタフが帰途疱瘡で死んだ。,
松前
家から蝦夷蜂起の報を受けた幕府は、
松前
家の分家である旗本
松前
泰広(まつまえやすひろ)を下向させた。,やがて
松前
藩
と蜂起アイヌ側の兵力の差が歴然となり、さらに
松前
藩
側がアイヌ側を策によって分断し、アイヌの
通史編2(近世1)
(寛文十年の情報収集)
寛文十年の情報収集 シャクシャインが
松前
藩
に謀殺されたのちも、アイヌと
松前
藩
との対立状況は、寛文十二年,彼らは
松前
藩
士、同地の町人から情報を入手した。,彼らが得た情報は、上・下蝦夷地への密偵船に関する
松前
城下での風評と
松前
藩
の対応、償いと交易再開をめぐる,の様子、
松前
藩
の兵糧等などである。,
松前
藩
は、寛文九年末に蝦夷仕置について幕府の指示を受け入れることを表明し、寛文十一年に同
藩
がアイヌから
通史編2(近世1)
(家中払米の展開)
日本庶民生活史料集成 第四巻』一九七九年 三一書房刊)には、寛文期(一六六一~七三)に毎年一万俵の米が津軽領から
松前
藩
,俵の沖口出が、弘前
藩
の不作を理由に拒否されていること(「国日記」延宝三年三月十六日条)は、
松前
藩
にとって,夷島つまり
松前
は弘前
藩
士にとって米の売捌(うりさばき)場所として
藩
政当初から有力な市場であった。 ,このように、青森から
松前
へは、
藩
の重臣から小知行士まで階層を問わず、
藩
士の米が家中払米として積み出されたのである,このように、青森をはじめとして鰺ヶ沢・小泊・十三湊など領内の各湊から
松前
へ
藩
士の米が家中払米として積み
通史編4(近・現代1)
(廃藩置県)
廃
藩
置県 明治四年(一八七一)七月十四日、弘前
藩
知事津軽承昭(つぐあきら)は全国二六一
藩
知事らと参朝,そして
藩
知事は東京に留め置かれ、全員免官となった。,写真2 弘前
藩
知事免官の詔 事態は早打で七月二十五日横島彦八が弘前にもたらし、翌二十六日
藩
士総登城,当時の弘前
藩
の指導者は次のメンバーであった。 ,このときの五県とは本州陸奥国の五県で、北海道の館県(旧
松前
藩
)は入っていなかった。 / 廃
藩
置県
通史編3(近世2)
(藩政後期)
藩
政後期
藩
政後期の宝暦改革は、元司職の乳井貢が
藩
財政の再建を強力に推し進めたものであった。,これらは
藩
士・寺社の破綻した経済を再建させるための政策であった。,寛政四年(一七九二)にロシアの使節ラクスマンが根室で通商を求めると、弘前
藩
も幕府の命により
松前
へ
藩
士を,文化十年(一八一三)クナシリ方面への出兵に当たって、八幡宮(現弘前八幡宮)は
藩
命により
松前
渡海安全の祈祷,これには
藩
主・
藩
からの下賜品を細大漏らさず記載したほか、在村小社の堂社の管理者である神職・修験の把握も /
藩
政後期
通史編3(近世2)
(政府軍の乙部上陸)
それによると、先鋒となるのは、長州
藩
三〇〇人、弘前
藩
三〇〇人、福山
藩
三〇〇人、
松前
藩
四〇〇人、大野
藩
一,これを受けて、弘前
藩
主津軽承昭(つぐあきら)は翌五日、
松前
へ渡海する
藩
兵へ激励書を送った(資料近世2No,政府軍の対応は素早く、上陸を終えた
松前
・大野
藩
兵などが直ちに布陣して反撃した。,たまらず旧幕府軍は敗走し、上陸を終えた政府軍は
松前
藩
を先頭に、江差・
松前
方面・木古内(きこない)間道方面,そして、既に
松前
近くまで進軍してきた政府軍と根部田(ねぶた)村(現北海道
松前
郡
松前
町)付近で衝突し、政府軍
通史編2(近世1)
((二)蝦夷地出兵の諸段階)
この「蜂起」は幕府にも大きな衝撃を与え、幕府は津軽弘前
藩
に出兵を命じるとともに、盛岡
藩
にも
松前
藩
から救援依頼,津軽弘前
藩
では一五八二人を救援隊として組織し、七〇〇余人を
松前
に派遣した。,シャクシャインの戦いは、結局
松前
藩
によって制圧されたため、津軽弘前
藩
は
松前
に駐屯しただけで帰弘し、また,ラクスマンの通商要求に対し、幕府は石川忠房らを宣諭使(せんゆし)として派遣し、ラクスマンと福山(現北海道
松前
郡
松前
町,、三厩から
松前
へ渡海させている。
通史編2(近世1)
(土着策と蝦夷地警備)
つまり、土着策の起点は寛政二年であり、その廃止は
藩
士を実際に
松前
に派遣した同九年十一月から半年後に行われているからである,たとえば役長柄奉行の建部菊太夫は
松前
出仕の支度金として一五両の借用を
藩
に願い出ているが、同時に郷人夫の,大量の従者が
藩
から貸与されていたのであり、それによって軍団編成がなされ、
松前
派兵が可能となっていたのである,この従者の要望とともに、
藩
士の窮乏を背景として、
松前
出仕において必要とされる武具の準備が、
藩
士にとってはかなりの,八〇石以下の知行取、切米、金給については、すべて
藩
が貸し付けるとしている(「
松前
箱館御固御用留帳」弘図古
通史編2(近世1)
(開国と箱館警備)
この事態に備え、幕府は安政元年(一八五四)六月二六日、
松前
藩
主
松前
崇広(まつまえたかひろ)に対して、「,盛岡
藩
・
松前
藩
に人数を差し出させ、箱館勤番の人数に差し加えるようにすることが定められた。,(米沢
藩
)
松前
崇広(
松前
藩
) 援兵担当大名 津軽順承(弘前
藩
) 南部利剛(盛岡
藩
) 元陣屋 マシケ,安政二年二月二十二日、
松前
地を除く蝦夷地全土の上知が
松前
家に命じられた(同前)。,そして、三月十四日、蝦夷地の警衛は、従来の
松前
・盛岡・津軽弘前三
藩
のほかに、仙台・秋田両
藩
が加わって担当
通史編2(近世1)
(幕府の蝦夷地政策)
このことは、幕府の認識の中に、
松前
藩
の個別的対応を越えて幕府が直接的・全体的に乗り出し、諸
藩
に軍役の発動,寛文九年(一六六九)のシャクシャインの戦いから一二〇年を経て、幕府は再び津軽弘前・盛岡両
藩
に対し、
松前
藩
,それは、
松前
藩
に従来どおり蝦夷地の支配を任せておくとしても、琉球に対する薩摩
藩
や朝鮮に対する対馬
藩
のそれに,翌九年十月には津軽弘前・盛岡両
藩
に対して、交代で
松前
詰めを命じている。,および西蝦夷地をも上知して
松前
地・蝦夷地全域を直轄地とし、
松前
藩
を陸奥梁川(やながわ)(現福島県伊達郡梁川町
通史編2(近世1)
(「分領」はなぜ行われたのか)
われたのか 安政六年(一八五九)、幕府は従来蝦夷地の警衛に当たっていた津軽弘前・盛岡・仙台・秋田の各
藩
に,、会津・庄内両
藩
を加えて、警衛の任に当たらせるとともに、東西蝦夷地を分割してこれら諸
藩
に与えた。,分領は、幕府が蝦夷地出兵諸
藩
に対して軍役負担を強いたことへの見返りとする見方もあるが(『
松前
町史』通説編一下, 一九八八年
松前
町刊)、安政六年七月の対露交渉の場で、カラフトの全面的領有を主張するロシア側から、箱館奉行,の力では、とても全蝦夷地の警衛は行き届くはずがないと指摘された幕府が、全蝦夷地に幕
藩
制国家の軍事力を導入
通史編2(近世1)
(蝦夷地への人口流出)
松前
稼ぎには、鯡場(にしんば)稼ぎに代表される漁場労働のみならず、箱館・
松前
など都市部における「飯炊并勤奉公,」・茶屋奉公・売春などの稼ぎも相当数あり、また、
松前
のブローカーと結託して、女性を拘引(こういん)同様,天保元年(一八三〇)、
藩
は
松前
渡海に関する規定を設け、領民が渡海しようとする時は湊口(みなとぐち)改めを,そして
松前
から帰帆の際は、この切手によって身分を照会するものとした。,しかし、同時期に
藩
は蝦夷地の再幕領化に伴い多数の
藩
士の派遣を余儀なくされており、海岸の取り締まり能力が
通史編3(近世2)
(箱館戦争の開始)
箱館戦争の開始 このとき、上陸を知った箱館府では、派遣されていた福山・大野
藩
兵と、
松前
・弘前
藩
兵、そして,戦いの口火を切ったのは、弘前
藩
兵だった。木村隊はこの日、箱館府より七重村への出張を命じられた。,また、弘前
藩
の二小隊と
松前
藩
兵が大野村へ到着していた。,二十三日には、大野村に陣を敷いた
松前
藩
兵も敗戦し、七重村で防御を固めていた兵も大川までの撤退命令を受けた,二十四日、本道を箱館府の大野
藩
兵が、中道を箱館府の福山
藩
兵が、そして山道を弘前
藩
兵が進発し、七重村で銃撃戦
通史編2(近世1)
(警備引き揚げとその背景)
文政四年(一八二一)十二月七日、幕府は、陸奥国梁川(やながわ)(現福島県伊達郡梁川町)に移封されていた
松前
家当主
松前
章広,
松前
、盛岡
藩
が箱館のみにそれぞれ限定されていたし、蝦夷地への渡海地である三厩に配備されていた出張人数も,さらに、
松前
氏の蝦夷地復領に伴い、蝦夷地に派兵して警衛の任に当たっていた津軽弘前・盛岡両
藩
は翌年現地から,ただ、この拝借金が
藩
財政に与えた影響は、当時の
松前
奉行が同時に金七〇〇〇両の拝借を許された盛岡
藩
ともども,そこに
松前
藩
の復帰工作が展開された。
通史編2(近世1)
(文化~文政期の藩財政)
文化~文政期の
藩
財政 天明の飢饉後も津軽弘前
藩
の
藩
財政は好転することはなかった。,当時の弘前
藩
の会計は「金方」と「米方」に分かれていたが、金方における蝦夷地警備費(「
松前
方入用」)は、,なお、その後はしだいに減少し、
松前
や吉岡台場など渡島(おしま)半島部に勤番地が縮小された文化十二年(一八一五,0.65 ⑭ 御手山入用賄米,杣子飯料 1,032 0.41 ⑮
松前
詰人数賄米,ほかに江戸詰めの
藩
士への扶持米が六六二五石あり、この両者が江戸
藩
邸の運営費というべき性格のものであった / 文化~文政期の
藩
財政
通史編3(近世2)
(商社の活動内容)
活動の第三の柱は
松前
産物の買い付けと、それを円滑化するために蝦夷地で場所(漁業生産を行う生産の場)経営,明治二年九月に
松前
藩
が従来の場所請負制(うけおいせい)を廃止すると、同二十三日に青森側商人の長谷川与兵衛,・大木屋円太郎・近江屋弥兵衛が弘前に召集され、
松前
・蝦夷地での鯡場(にしんば)経営の調査を命じられた。,これを受けて、青森側商人は同年十月に大木屋円太郎・近江屋弥兵衛と三厩の商人安保(あんぽ)正兵衛を
松前
・,その結果、
松前
・江差の経営者がいうには、漁民らが弘前
藩
から借金をしたからには、その者たちの荷物(今年分
通史編3(近世2)
(藩論の紛糾)
藩
論の紛糾 さて、この奥羽列
藩
同盟参加、鎮撫総督軍の領内通行問題、そして、秋田
藩
境封鎖に至る過程の中,で、
藩
の姿勢をどのように定めるかをめぐり、
藩
論が決定的に二分したのであった。,一方で藤川能登や秋田
藩
の戸田十太夫へも、
藩
内で激徒が蜂起したため危険であるという
藩
境封鎖についての説明,当然、総督軍も秋田
藩
も弘前
藩
の動向について不信の念を抱くことになる。,(しみずだにきんなる)も薩長兵を多く引き連れて
松前
に渡海していた。 /
藩
論の紛糾
通史編1(古代・中世)
(下国伊駒安陪姓之家譜)
下国伊駒安陪姓之家譜 『下国伊駒安陪姓之家譜』(史料一一五五・写真127)は、安藤氏庶子系の子孫である
松前
下国氏,(
松前
藩
の家老職にあった一族)に伝えられた伝承に基づき成立したものと推測され、貞季以降の世系は『秋田家系図,さらにこの安日長髄は、欲界第六天主他化自在天の内臣天魔の次男とされ(
松前
藩
の歴史書『新羅之記録』にも同様
通史編3(近世2)
(幕末の交易活動)
幕末の交易活動 安政の開港と幕末の流通については、すでに通史編2第四章第五節で詳述したが、
藩
や民間では,するため、幕府は蝦夷地を上知し、箱館奉行を設置するとともに、その警衛を弘前・盛岡・秋田・仙台の東北諸
藩
と,
松前
藩
にゆだねた。,その後、安政六年に蝦夷地が
松前
藩
および東北六
藩
の分領支配とされると、蝦夷地警備を媒体(ばいたい)とする,このもくろみは結果的に失敗に終わったが、
藩
当局が交易を主体的に行おうとした点は注目されよう。
通史編3(近世2)
(藩から県へ)
藩
から県へ 明治四年(一八七一)七月十四日、廃
藩
置県(はいはんちけん)の詔勅が発布され、
藩
体制は名実,この当時、青森県域には江戸時代からの
藩
領を管轄する弘前・黒石・八戸
藩
と、盛岡
藩
の減封に伴って明治二年に,成立した七戸
藩
、同年会津
藩
の減転封により、二戸・三戸・北郡を領有した斗南(となみ)
藩
の五
藩
が存在した(,このため斗南
藩
は弘前
藩
に農具購入資金の救助を訴え、弘前
藩
は一〇〇〇両を拠出している(『弘前
藩
記事』明治四年二月二十九日条,らによって詳細な取り調べがあり、四年九月四日に県域の五県と、同じく財政難にあえいでいた館(たて)県(旧
松前
藩
/
藩
から県へ
通史編2(近世1)
(糧米確保)
こうした津留(つどめ)政策(
松前
へは条件付きで対象外となった)は、すでに六月に鰺ヶ沢から米が移出された,七月二十一日、
松前
藩
の家老から青森町奉行を通じて六、七〇〇〇石の米の津出が求められている。,
松前
藩
は再度申し入れるが、八月二十九日に、青森・鰺ヶ沢の米改めを行い、全面的な移出禁止を伝えることになった,これに対して、
松前
藩
では、使者を派遣して二〇〇〇石を申し入れている。,このことは、津軽弘前
藩
の
松前
への津留除外、すなわち蝦夷地支配のための物資の供給の保証をすることになっていたにもかかわらず
通史編2(近世1)
(東西蝦夷地直轄下の勤番体制)
東西蝦夷地直轄下の勤番体制 文化四年三月の
松前
および西蝦夷地の上知決定に伴い、翌四月、津軽弘前
藩
は盛岡
藩
,今回の増援要請は津軽弘前・盛岡両
藩
以外にもなされ、秋田・鶴岡両
藩
も出兵している。,翌五年には秋田・鶴岡両
藩
に代わって仙台
藩
と会津
藩
が出兵し、四
藩
の総動員数は四〇〇〇人に及んだという。,
松前
・江差・ソウヤ・北蝦夷地(サハリン、カラフト)が主たる勤番地であり、毎年半数以上の越年者がいることがわかる,なお、文化十二年以降、警衛体制が大幅に縮小され、警衛地も
松前
一ヵ所と台場(だいば)の守衛に限定された。
通史編2(近世1)
(津軽領内のアイヌ民族)
それには、
松前
藩
の商場知行制(あきないばちぎょうせい)の確立が影響している。,
松前
藩
は夷島(えぞがしま)を和人の定住地である「
松前
地」とアイヌの人々の居住地である「蝦夷地」に分け、,この制度が整ってくる寛永期を境に、アイヌの人々はそれまでのように自由な交易をすることができなくなり、
松前
藩
,彼らは蝦夷地にも出漁していた形跡がみられるが、これについても
松前
藩
に運上金を納めなければならなかった(,その搬出すべき米は青森御蔵にあった津軽弘前
藩
の蔵米が充てられており、勘定奉行が
藩
側の払米責任者となり管理
通史編2(近世1)
(津軽人のみた開港場箱館)
この魯僊が安政二年(一八五五)蝦夷地に渡り
松前
・箱館を旅した。,彼は六月十一日に弘前をたち、同十六日十三湊から
松前
に渡航、
松前
城下に二日滞在したのち、二十日箱館に到着,その成果は、三編の著書「箱館紀行」・「洋夷茗話(よういめいわ)」・「
松前
記行」として現在に残されている,「箱館紀行」では、
松前
藩
に対する批判が随所にみえる。,
松前
入港時における役人の高慢な取り調べ、ペリー来航時の
松前
藩
家老や箱館奉行のとった態度について厳しい批判
通史編2(近世1)
(ロシアによるエトロフ襲撃事件)
ロシアによるエトロフ襲撃事件 文化四年、幕府は
松前
および東西蝦夷地一円を直轄化するが、これに大きな影響,続いてエトロフの中心であるシヤナに二度にわたって上陸し、勤番の津軽弘前・盛岡
藩
兵を撃退し、ナイボ同様、,このレザノフ来航から択捉島などの北辺襲撃に至る過程は、幕府や奥羽諸
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のみならず、民衆をも巻き込んで、対外危機意識,なお、文化四年三月の幕府による
松前
および西蝦夷地の上知と
松前
藩
の陸奥梁川(やながわ)(現福島県伊達郡梁川町,しかしながら、この事件がレザノフ来航の延長上にあり、また上知段階の定数に加え、各
藩
に臨時出兵が要請されるなど
通史編2(近世1)
(人返し令)
特に他領稼ぎについては
松前
稼ぎが日常化している状況下では、その対応はひととおりではいかないものがあった,「国日記」天明七年十月七日条(資料近世2No.二七~二九)などからは、
松前
表への鰊割(にしんわり)や鰊漁,同寛政十一年二月二十四日条では、人別改めにおける「出奔(しゅっぽん)」数の増加の理由として、生活難渋のために
松前
,これらは、
藩
が、
藩
域を超えて展開している労働関係が大量に存在し、しかも長期間にわたっていること認識しつつ,百姓の成り立ちと領内の人不足という矛盾のなかで、
藩
の苦悩がここにみられる。
通史編2(近世1)
(三 鷹献上と鷹保護)
らかにされてきたところである(長谷川成一『近世国家と東北大名』一九九八年 吉川弘文館刊、同編『弘前の文化財 津軽
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初期文書集成,近世に入ってからも、鷹献上の行為は、大名から将軍へ、また大名同士でも盛んに行われ、全幕
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領主を巻き込む,また放鷹(ほうよう)は、鷹献上とともに武家社会における伝統的な慣習であったが、幕
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体制成立期における放鷹制度,当時における鷹の最大の供給地としては、
松前
蝦夷地と奥羽地方が供給地全体の七割近くを占め、対馬を経由した,なかでも
松前
は、奥羽地方が後に各大名領での鷹の自給に汲々としていたのに対し、後背地の蝦夷地に広大な鷹の
通史編2(近世1)
(土着策施行期の廃田開発)
一七八七)から寛政元年(一七八九)にかけて展開された大庄屋制(おおじょうやせい)の失敗から、この時期、
藩
による,廃田開発(はいでんかいはつ)は、平沢三右衛門を廃田開発役に命じ、彼が
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から開発を請け負う形で進める形態,つまり、平沢が見立てた廃田を
藩
に申し立て、それに
藩
が許可を与えて必要経費を出し、それをもって帰国した人々,『平山日記』寛政五年条によれば、
松前
出人夫がおびただしくなることによって、百姓が直接開発のための郷役を,しかしながらこの、人不足→仮子給銀の上昇→百姓潰れ→人不足という悪循環は、
松前
出人夫の継続と
藩
財政拡大
通史編2(近世1)
(参勤交代路と街道の状況)
このため、
藩
祖為信時代から西浜街道が重視されたものと思われる。,この点は二代
藩
主信枚、三代
藩
主信義と踏襲された。,
松前
藩
主も同時期には西浜街道を参勤交代路として利用しているのである。,図85.旧
松前
街道(平舘台場跡付近)の松並木 現在、「松原」の地名が各地に点在するが、かつての,津軽領で松並木が現存するのは
松前
街道の平舘(たいらだて)村の平舘灯台付近と、百沢街道の岩木町新法師から
資料編3(近世編2)
(【解説】)
寛政元年(一七八九)まで
松前
派兵の幕命は下っていない。,
松前
派兵を命じた。,を陸奥梁川九千石に転封し、
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・蝦夷地一円を幕領化していった。,蝦夷地の直轄は、対露関係の相対的緩和によって、文政四年(一八二一)に
松前
藩
に
松前
・蝦夷地一円が返還されるまで,幕府は翌二年、
松前
藩
領を除いて再び全蝦夷地を直轄地とし、仙台・秋田・盛岡・
松前
各
藩
とともに弘前
藩
に蝦夷地警備
通史編3(近世2)
(戦局の推移と戦費負担の増加)
〇〇〇人以上の動員計画がなされ、七月に
藩
論が勤皇に統一されてからは、挙
藩
体制での鶴岡
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討伐が行われ、同
藩
,この間にも元年十一月には
松前
藩
主
松前
徳広(まつまえのりひろ)一行が榎本軍に追われて三厩(みんまや)に落,
藩
名
藩
兵人数 夫卒人数 計 1 鹿児島
藩
263 263 2 山口(長州,162 162 10 福山(
松前
)
藩
531 531 11 熊本
藩
118 38 156 12 黒石
藩
,3,628人 9 清水谷公考青森転陣にともなう警備 217,290 警備人数6,855人 10
松前
徳広青森落去
通史編2(近世1)
(対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)
万延元年(一八六〇)、青森の商人は、滝屋が仙台
藩
、藤林家が会津
藩
、金沢屋が庄内
藩
の御用達に任命された。,滝屋は仙台
藩
の御用達として、船の調達や、渡海する
藩
士・物資の輸送、青森における
藩
士の旅館としての役割を,
藩
が
松前
・蝦夷地を利をもたらす場所としてとらえているにもかかわらず、その地理的な利点を充分に活用しておらず,これに対抗するには、
松前
における夏の米価が、諸国の米相場と上方から米を載せてくる下り船の状況によって左右,を覚悟で米を売却して米を廻漕する上方商人を駆逐し、冬場には大量の米を高値で売却すれば、津軽領産の米が
松前
通史編2(近世1)
(負担の増大による民衆の困窮)
寛政十一年、東蝦夷地が当面七ヵ年間の仮上知とされると、
松前
・蝦夷地への通行量が増加し、街道沿いの村々は,
松前
・蝦夷地への往来は原則として三厩(みんまや)(現東津軽郡三厩村)からであり、通行筋に当たる油川(あぶらかわ,困窮した者のなかには、内々で
松前
に雇われている者もあり、このような状況になってしまえば、幕府御用も差し,しかし、幕府の蝦夷地政策はその後、東蝦夷地のみならず、
松前
・蝦夷地一円を直轄地としていくのであり、助郷負担,蝦夷地警備による労働力不足と負担増のなか、
藩
は、
藩
士土着策の失敗を経て、積極的な廃田開発や新田開発を行
通史編2(近世1)
(領内アイヌと寛文蝦夷蜂起)
領内アイヌと寛文蝦夷蜂起 このように津軽弘前
藩
が寛文蝦夷蜂起に深くかかわっていたため、領内に住むアイヌ,先述した七月十五日付の江戸家老北村からの指示には、外浜・十三・鰺ケ沢の
松前
往来船数と領内アイヌの所有船数,
松前
と幕府との間の飛脚船にも犾が徴用されており、老中奉書のような幕府の意志決定を伝える重要文書の運搬に
通史編2(近世1)
(信政晩年の藩政)
このような時期、
藩
士桜庭太郎左衛門は宝永二年から同七年にかけて三通の「建白書」を
藩
に差し出している(国史津,
藩
の支配層は、
藩
主に直結する出頭人グループ、城普請に消極的な門閥層(
藩
重臣)、桜庭が建白書でその存在を,
松前
買物代米 40.,政実が
藩
政の執行者であったことを
藩
政の乱れの原因とすることは、政実に代表される素行派と、彼らとともに
藩
政,これは、桜庭自身が現在の
藩
政状況に見切りを付けて、新しい
藩
主のもとでの
藩
政の展開に期待し始めていたことを / 信政晩年の
藩
政
通史編2(近世1)
(民兵の登場)
民兵の登場 幕末、異国船が頻繁に日本沿岸に現れるようになると、各
藩
はこれまでの兵力や動員体制の改善を,津軽弘前
藩
が採用したのは百姓等を兵士として採用する民兵制度であった。 ,当時、海岸線を領有していた
藩
の数は約一二〇
藩
あり、うち農兵を採用した
藩
は、判明するだけで五四
藩
である。,今別では
松前
稼ぎのものが多く屈強な者が少なかったため、万一の際には三厩詰将兵が派遣されることになった。,日雇人夫が多かった十三でも、彼らが早春から晩秋まで
松前
稼ぎに出るために人数が確保できず、隣接する四ヵ組
通史編3(近世2)
(宮古湾海戦)
この時、陸奥湾周辺へ詰めていた官軍諸
藩
の兵力は次のように把握されている(『弘前
藩
記事』二)。 ,長州
藩
兵 七七六人 岡山
藩
兵 五〇〇人 津
藩
兵 一八〇人 久留米
藩
兵 二五〇人 福山
藩
兵 六二一人,徳山
藩
兵 二五五人 大野
藩
兵 一六六人
松前
藩
兵 五五二人 弘前
藩
兵 二八八六人 黒石
藩
兵,さらに、三月、四月と薩摩・水戸・熊本
藩
等の兵が続々と送られ、その他軍夫などを合わせると、最終的には総勢一万二,明治元年十一月、
松前
藩
攻撃の際に座礁させ、沈没した開陽の損失が大きな痛手となった旧幕府軍は海軍力の回復
通史編5(近・現代2)
(伊東梅軒)
自分の身分に応じて
藩
の仕事に励み、国事に深い関心を寄せている地味で有能な
藩
士となった。,して御馬廻七番組となり、海岸并
松前
非常兵士本手となった。,嘉永七年五月海岸并
松前
非常の節役長柄奉行となる。,文久二年(一八六二)三月から
松前
スッツの旗奉行として翌三年六月まで勤務、元治元年(一八六四)からは忰廉三郎,盛岡
藩
の戦端が開かれたので
藩
境碇ヶ関町奉行助(すけ)として赴任、盛岡
藩
降伏後、十月十一日改めて箱館戦争
通史編3(近世2)
(神明宮)
藩
主は正月に社参するのを恒例とした。,そのほか安政二年(一八五五)には
松前
渡海安全の祈祷、慶応三年(一八六七)には疱瘡(ほうそう)安全の守札,を
藩
士と領民へ配布した(「国日記」)。
通史編3(近世2)
(八幡宮)
藩
主は最勝院へ立ち寄り、それから社参するのを常とした(「国日記」元禄十四年三月十八日条)。,毎年正月には
藩
士による鉄砲打・二月の初卯日・八月十五日には神楽が奏され、祈祷が行われた。,また、
松前
出兵の
藩
士へ渡海安全の守札を配布した。
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