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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(寛文蝦夷蜂起の経過)
寛文蝦夷蜂起の経過 寛文九年(一六六九)、蝦夷地においてアイヌ民族が
松前藩
の支配に対する反発から蜂起,シュムクルは早くから
松前藩
の影響を強く受けていたが、メナシクルは、日高南部から現在の道東地域に勢力を張,
松前藩
は、両者の争いが蝦夷地中のアイヌを巻き込んで大きなものに発展することを恐れ、両集団に戦闘の中止を,援助要請するために
松前藩
に遣わされたオニビシの姉婿ウタフが帰途疱瘡で死んだ。,やがて
松前藩
と蜂起アイヌ側の兵力の差が歴然となり、さらに
松前藩
側がアイヌ側を策によって分断し、アイヌの
通史編2(近世1)
(寛文十年の情報収集)
寛文十年の情報収集 シャクシャインが
松前藩
に謀殺されたのちも、アイヌと
松前藩
との対立状況は、寛文十二年,彼らは
松前藩
士、同地の町人から情報を入手した。,彼らが得た情報は、上・下蝦夷地への密偵船に関する松前城下での風評と
松前藩
の対応、償いと交易再開をめぐる,アイヌの対応、石狩の地形と石狩アイヌ・ハウカセの動向、交易がとだえて火の消えたような松前城下の様子、
松前藩
,
松前藩
は、寛文九年末に蝦夷仕置について幕府の指示を受け入れることを表明し、寛文十一年に同藩がアイヌから
通史編2(近世1)
(情報収集活動)
また、この北村の指示以前、七月十二日に
松前藩
家老蠣崎広林(かきざきひろしげ)・同広隆(ひろたか)方へ阿部喜兵衛,八月十二日から同二十九日まで、須藤惣右衛門と吉村場左衛門が、津軽弘前藩の加勢出兵を予定して、
松前藩
の本陣,両者の任務のうち、道筋の見聞は、蜂起への他藩の介入を恐れる
松前藩
に阻止された。,その内容を整理すると、①
松前藩
の善悪、②犾の善悪、③藩主松前矩広と幕命によって派遣された松前泰広の動静,方の兵力と動静、松前泰広を含めた
松前藩
側の兵力、
松前藩
の概況、また藩が加勢出兵するための下準備ともいうべき
通史編3(近世2)
(近隣諸藩の動向)
また、海峡を挟んだ
松前藩
でも、他藩と同様、藩論は紛糾していた。,
松前藩
は背後に蝦夷地を抱えており、大きく注目される状況下にあった。,図58.箱館奉行所
松前藩
では、五稜郭の警備を請け負うなど、朝廷に対して恭順の意を示していたが,そのため、
松前藩
は、松前勘解由の主導で奥羽越列藩同盟に参加することに決定した。,
松前藩
の藩論を決定したのは、八月に起こったクーデターであった。
通史編2(近世1)
((二)蝦夷地出兵の諸段階)
この「蜂起」は幕府にも大きな衝撃を与え、幕府は津軽弘前藩に出兵を命じるとともに、盛岡藩にも
松前藩
から救援依頼,シャクシャインの戦いは、結局
松前藩
によって制圧されたため、津軽弘前藩は松前に駐屯しただけで帰弘し、また,クナシリ・メナシの戦いに当たって、津軽弘前藩には
松前藩
から要請がありしだい出兵すべしとの幕命があった。,結局、寛政元年(一七八九)八月、
松前藩
から鎮圧の報告が入り、出兵せずに終わっている。 ,寛政十二年から、
松前藩
が復領する文政四年(一八二一)までの期間がこれに当たる。
通史編2(近世1)
(「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)
この時期は
松前藩
の蝦夷地復帰により始まり、開国、安政元年(一八五四)の箱館近辺の上知を経て、同二年に東西蝦夷地上知,文政四年(一八二一)十二月七日、幕府は両藩に対してほぼ同内容の達書を発し、
松前藩
の蝦夷地復領を告げるとともに,一方、文政四年十二月七日に
松前藩
主松前章広へ申し渡された公儀からの達書をみると、津軽弘前・盛岡両藩との,派兵準備の事前協議を求め、さらに両藩の派兵に全面的に依存することを戒め、
松前藩
による蝦夷地の備えを疎かにしないよう,現地派兵が行われなかった理由としては、
松前藩
が、さきにみた文政四年の復領の際の達に記された津軽弘前・盛岡両藩
通史編1(古代・中世)
(下国伊駒安陪姓之家譜)
下国伊駒安陪姓之家譜 『下国伊駒安陪姓之家譜』(史料一一五五・写真127)は、安藤氏庶子系の子孫である松前下国氏(
松前藩
,さらにこの安日長髄は、欲界第六天主他化自在天の内臣天魔の次男とされ(
松前藩
の歴史書『新羅之記録』にも同様
通史編3(近世2)
(幕末の交易活動)
するため、幕府は蝦夷地を上知し、箱館奉行を設置するとともに、その警衛を弘前・盛岡・秋田・仙台の東北諸藩と
松前藩
,その後、安政六年に蝦夷地が
松前藩
および東北六藩の分領支配とされると、蝦夷地警備を媒体(ばいたい)とする
通史編2(近世1)
(幕府の蝦夷地政策)
また、
松前藩
や場所請負(ばしょうけおい)商人たちが不当な交易や強制労働によってアイヌから莫大な利益を得,このことは、幕府の認識の中に、
松前藩
の個別的対応を越えて幕府が直接的・全体的に乗り出し、諸藩に軍役の発動,寛文九年(一六六九)のシャクシャインの戦いから一二〇年を経て、幕府は再び津軽弘前・盛岡両藩に対し、
松前藩
,それは、
松前藩
に従来どおり蝦夷地の支配を任せておくとしても、琉球に対する薩摩藩や朝鮮に対する対馬藩のそれに,こうして寛政十一年一月、幕府は東蝦夷地を七年間の「当分御用地」として
松前藩
からの「仮上知(かりあげち)
通史編2(近世1)
(寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)
と津軽弘前藩 寛文蝦夷蜂起に際して、奥羽諸藩は、幕府から軍役発動を命じられたり、兵糧・武器の援助を
松前藩
,
松前藩
と海を隔てて隣国である津軽弘前藩や盛岡藩にとっては、蜂起の報がもたらされた段階で、今後の派兵が想定,寛文九年七月八日、津軽弘前藩に
松前藩
から蝦夷蜂起の第一報が届いた。,情報の到達時点で幕府や
松前藩
の派兵に関する意向をつかめなかったためであろう。 ,しかし、結局幕府は、七月十七日
松前藩
から救援要請があった場合の出兵を認めた。
通史編3(近世2)
(松前方面の攻防と青森)
ここで彼らの次の標的が
松前藩
へと設定されたのである。,結局松前城は持ちこたえられずに落城し、
松前藩
兵は城下に火を放ちながら館城や江差へと退却していった。,
松前藩
主徳広(のりひろ)からは十月晦日付で援軍を要請する内容の書状が弘前藩主宛てにもたらされ(同前No,.五五六)、十一月七日にも、
松前藩
家老より弘前藩家老宛てに、相次ぐ敗戦の状況を説明した十一月三日付の援兵催促状,十三日には、
松前藩
へも出兵手配が行われていることが報じられた。
通史編3(近世2)
(箱館戦争の開始)
また、弘前藩の二小隊と
松前藩
兵が大野村へ到着していた。,二十三日には、大野村に陣を敷いた
松前藩
兵も敗戦し、七重村で防御を固めていた兵も大川までの撤退命令を受けた
通史編2(近世1)
(津軽領内のアイヌ民族)
それには、
松前藩
の商場知行制(あきないばちぎょうせい)の確立が影響している。,
松前藩
は夷島(えぞがしま)を和人の定住地である「松前地」とアイヌの人々の居住地である「蝦夷地」に分け、,この制度が整ってくる寛永期を境に、アイヌの人々はそれまでのように自由な交易をすることができなくなり、
松前藩
,彼らは蝦夷地にも出漁していた形跡がみられるが、これについても
松前藩
に運上金を納めなければならなかった(
通史編3(近世2)
(政府軍の乙部上陸)
それによると、先鋒となるのは、長州藩三〇〇人、弘前藩三〇〇人、福山藩三〇〇人、
松前藩
四〇〇人、大野藩一,たまらず旧幕府軍は敗走し、上陸を終えた政府軍は
松前藩
を先頭に、江差・松前方面・木古内(きこない)間道方面
通史編2(近世1)
(開国と箱館警備)
この事態に備え、幕府は安政元年(一八五四)六月二六日、
松前藩
主松前崇広(まつまえたかひろ)に対して、「,異国船が不慮に着岸して不義を働くような事態が発生した場合、鎮圧に人数が必要ならば津軽弘前藩・盛岡藩・
松前藩
,(安政元年) 警衛担当大名 佐竹義睦(秋田藩) 伊達慶邦(仙台藩) 上杉斉憲(米沢藩) 松前崇広(
松前藩
,箱館千代ヶ台 スッツ 盛岡藩 箱館 エサン岬から東蝦夷地ホロヘツまで 箱館水元 東蝦夷地エトモ
松前藩
通史編2(近世1)
(警備引き揚げとその背景)
財政の面からみれば幕府の蝦夷地直轄経営は黒字であったが、陸奥国梁川に移された
松前藩
、および現地派兵を命,そこに
松前藩
の復帰工作が展開された。,
松前藩
は、将軍家斉の実父一橋治済(ひとつばしはるさだ)や、水野忠成を頼って運動を展開し(北海道庁編纂・,結果として、水野は
松前藩
の工作を受け入れ、蝦夷地全土を復領し、津軽・南部両家の警衛の人数もそれぞれ自領
通史編3(近世2)
(宮古湾海戦)
一八〇人 久留米藩兵 二五〇人 福山藩兵 六二一人 徳山藩兵 二五五人 大野藩兵 一六六人
松前藩
兵,明治元年十一月、
松前藩
攻撃の際に座礁させ、沈没した開陽の損失が大きな痛手となった旧幕府軍は海軍力の回復
通史編3(近世2)
(清水谷公考の退去)
そして、二十五日から二十六日にかけて、清水谷公考とともに箱館府兵五二人・
松前藩
兵一一五人・雇兵隊四〇人
通史編3(近世2)
(松前徳広の領内落去)
松前徳広の病状も思わしくなかったが、官軍の応援も届かない状況下では、自力で津軽領へ脱出するよりほかなく、
松前藩
主一行七一人,ならぬ苦労を乗り越えてきた一行の姿は「見ル人毎ニ涙汲申候」という状況であったこと、食事等の対応の様子、
松前藩
家老下国安芸,図68.松前城
松前藩
一行が油川(あぶらかわ)・浪岡・藤崎などを通り、ようやく弘前の薬王院(やくおういん,なお、
松前藩
に残った藩兵は旧幕府軍から降伏を促され、藩主の出帆を知った後の二十日、武装を解除した。
通史編3(近世2)
(戦争の波紋)
、伊予松山藩ばかりとなっているという情報を得たこと、また、蝦夷地詰めの庄内藩士には帰藩命令が出され、
松前藩
通史編2(近世1)
(糧米確保)
七月二十一日、
松前藩
の家老から青森町奉行を通じて六、七〇〇〇石の米の津出が求められている。,
松前藩
は再度申し入れるが、八月二十九日に、青森・鰺ヶ沢の米改めを行い、全面的な移出禁止を伝えることになった,これに対して、
松前藩
では、使者を派遣して二〇〇〇石を申し入れている。
通史編2(近世1)
(家中払米の展開)
日本庶民生活史料集成 第四巻』一九七九年 三一書房刊)には、寛文期(一六六一~七三)に毎年一万俵の米が津軽領から
松前藩
,)七〇〇〇俵の沖口出が、弘前藩の不作を理由に拒否されていること(「国日記」延宝三年三月十六日条)は、
松前藩
通史編2(近世1)
(津軽人のみた開港場箱館)
「箱館紀行」では、
松前藩
に対する批判が随所にみえる。,松前入港時における役人の高慢な取り調べ、ペリー来航時の
松前藩
家老や箱館奉行のとった態度について厳しい批判
通史編4(近・現代1)
(廃藩置県)
このときの五県とは本州陸奥国の五県で、北海道の館県(旧
松前藩
)は入っていなかった。
通史編2(近世1)
(ロシアによるエトロフ襲撃事件)
なお、文化四年三月の幕府による松前および西蝦夷地の上知と
松前藩
の陸奥梁川(やながわ)(現福島県伊達郡梁川町
通史編1(古代・中世)
(蝦夷か蝦夷の支配者か)
この立場からすれば、
松前藩
の創成を物語る『新羅之記録』が、蝦夷の子孫である安藤氏が津軽を押領しているという
通史編2(近世1)
(参勤交代路と街道の状況)
松前藩
主も同時期には西浜街道を参勤交代路として利用しているのである。
通史編3(近世2)
(町方の軍事負担)
さらに、人的負担も大きく、たとえば明治元年十一月に榎本武揚(たけあき)の旧幕府脱艦隊に攻められて、
松前藩
主徳広
通史編2(近世1)
(東蝦夷地直轄下の勤番体制)
八月には
松前藩
の内願により、箱館地方およびウラカワまでがこれに加えられ、幕府は東蝦夷地全域を直轄地とした
通史編3(近世2)
(商社の活動内容)
明治二年九月に
松前藩
が従来の場所請負制(うけおいせい)を廃止すると、同二十三日に青森側商人の長谷川与兵衛
通史編3(近世2)
(藩から県へ)
らによって詳細な取り調べがあり、四年九月四日に県域の五県と、同じく財政難にあえいでいた館(たて)県(旧
松前藩
通史編3(近世2)
(戦局の推移と戦費負担の増加)
この間にも元年十一月には
松前藩
主松前徳広(まつまえのりひろ)一行が榎本軍に追われて三厩(みんまや)に落
資料編3(近世編2)
(【解説】)
直轄統治に踏み切り、以後、享和二年(一八〇二)には東蝦夷地を永久上知、さらに文化四年(一八〇七)には
松前藩
,蝦夷地の直轄は、対露関係の相対的緩和によって、文政四年(一八二一)に
松前藩
に松前・蝦夷地一円が返還されるまで,幕府は翌二年、
松前藩
領を除いて再び全蝦夷地を直轄地とし、仙台・秋田・盛岡・松前各藩とともに弘前藩に蝦夷地警備
通史編2(近世1)
(安政期の蝦夷地警備と交通問題)
そして蝦夷地の警備は箱館奉行の指揮下、弘前・盛岡・秋田・仙台・会津・鶴岡の東北諸藩と
松前藩
により分担されることとなった
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