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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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資料編1(古代・中世編) ((2)戦国時代の「石川城(石川大仏ケ鼻城)」)

関門に当たる石川・大鰐一帯の地は軍事的緊張が続いたため、為信は、戦略的要地である石川城を重視して、重臣板垣兵部,したがって、今日残る石川城の遺構には、板垣兵部時代のものも加わっているはずである。  ,これらの城館も単独ではなく、南部高信時代の三戸との「繋(つな)ぎの城」、あるいは板垣兵部時代の石川城防衛,その後、石川城は板垣兵部が城代のまま近世を迎えるが、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いに際して、兵部は,その後の石川城については明らかでなく、板垣兵部の討死以後、廃城になったと伝えられている。
通史編2(近世1) (堀越城の限界性)

慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦いの際に為信が遠く関ヶ原へ出陣していた時、尾崎喜蔵(おざききぞう)・板垣兵部
通史編3(近世2) (為信)

慶長五年(一六〇〇)、為信が関ヶ原の戦に出陣中、板垣兵部らが堀越城で反乱を起こしたのを、日健が和睦をもちかけて
通史編2(近世1) (関ヶ原の戦いと津軽氏)

津軽家の官撰史書である「津軽一統志」からこの動乱時の動向を拾ってみれば、為信出陣、尾崎喜蔵・板垣兵部・
資料編1(古代・中世編) (四 城館の構造)

 この地区には、現在「梵応塚」と呼ばれる削平された場所があり、墓地となっていて、南部高信あるいは板垣兵部
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