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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
(一 板碑の概要)
一
板碑
の概要 弘前市内に残る金石資料のうち、最も多いのは
板碑
である。,一枚の
板碑
が史料として貴重であると同時に、現存する
板碑
を総合的に考察すると、中世史料の少ない津軽地方におけるさまざまな,本節では弘前市内の
板碑
だけでなく、津軽地方に分布する
板碑
も掲載することとした。,
板碑
の造立は、室町時代に入ってからも盛行した。,慈光寺の
板碑
(埼玉県比企郡都幾川村西平) / 一
板碑
の概要
資料編1(古代・中世編)
(四 板碑の様式と石質)
四
板碑
の様式と石質 津軽地方の
板碑
は、関東地方の
板碑
と違って自然石を利用しており、緑泥片岩を使用した,関東地方の
板碑
に比べるとかなり印象を異にする。,緑泥片岩を利用した日高市四本松の
板碑
しかし碑面には、関東地方の
板碑
に似せるために郭線に工夫を,なお、
板碑
の高さは、弘前市中別所の弘安十年(一二八七)八月の
板碑
が二・六メートルあり、津軽地方最高である,この
板碑
の付近には、一・五メートルを超えるものがあり、中別所に近い細越の愛宕神社に移された
板碑
も大型である / 四
板碑
の様式と石質
資料編1(古代・中世編)
(二 青森県の板碑分布)
二 青森県の
板碑
分布 県内で最も古い
板碑
は、弘前市鬼沢字二千苅にある文永四年(一二六七)の
板碑
である,菅江真澄の描いた神明宮と
板碑
(『栖家能山』秋田県立図書館蔵)
板碑
の分布状況を別の観点から,現在は、
板碑
分布の空白地帯になっているが、浅瀬石城の周辺には
板碑
があったと考えられる。,浅瀬石にあった
板碑
。,田舎館村には二基の
板碑
が現存するが、平川の東岸大袋の
板碑
は平川水底から発見されたと言われている。 / 二 青森県の
板碑
分布
資料編1(古代・中世編)
(六 板碑の調査・研究史)
六
板碑
の調査・研究史 津軽地方の
板碑
の調査が始められたのは、江戸時代も中期になってからのことである,菅江真澄も中別所の石仏の
板碑
を描いており、江戸時代の中別所の
板碑
を知る手がかりとして貴重なものである。,昭和五十年代に入ると青森県立郷土館が
板碑
の調査を行い、『青森県の
板碑
』が刊行された。,特に、磯村朝次郎が秋田県鹿角地方の
板碑
を発見したことは、津軽地方の
板碑
を考える上で重要なことだった。,陸の道によってもたらされた
板碑
は、津軽平野内陸部の
板碑
、それに対して西海岸地方の
板碑
は日本海の交通路、 / 六
板碑
の調査・研究史
資料編1(古代・中世編)
(七 板碑の発見と保護の状況)
七
板碑
の発見と保護の状況 青森県立郷土館が、昭和五十七年度から五十九年度にかけて県内の
板碑
を調査した,なお、市史の調査と郷土館調査の
板碑
数は、三ツ目内などの
板碑
の数え方により一致しない。 ,中別所石仏の
板碑
群,重要美術品に指定されている正応の
板碑
(写真左)を含む なお、弘前市は次の
板碑
,鬼沢字二千苅「文永の
板碑
」 一基 国吉字村元「国吉
板碑
群」 一二基 城東中央四丁目「
板碑
, 田町四丁目「熊野奥照神社
板碑
」 一基 新町、誓願寺境内「図像
板碑
」 一基 東目屋の国吉
板碑
群 / 七
板碑
の発見と保護の状況
資料編1(古代・中世編)
(三 板碑の造立者とその時期)
三
板碑
の造立者とその時期 津軽平野内陸部の
板碑
は、十三世紀後半から十四世紀前期にかけて造立されたものが,この
板碑
群に含まれ、国の重要美術品に指定されている正応元年(一二八八)七月造立の
板碑
には、「源光氏」の,県南地方に
板碑
が少ないことは既に述べてきた。津軽平野内陸部の北辺でも確認できる
板碑
は少ない。,南部氏は
板碑
信仰に関心が薄く、もともと
板碑
文化があまり流入していなかった県南地方では、室町時代に入っても,三世寺や和徳町の
板碑
から、
板碑
信仰が十四世紀に入ると庶民と結びついてきたことが分かる。 / 三
板碑
の造立者とその時期
資料編1(古代・中世編)
(五 種子と名号)
五 種子と名号
板碑
の上部には、種子や名号が刻まれている。,『青森県の
板碑
』は弘前の
板碑
一〇五基について分析し、金剛界大日如来を示す〝〓〟(バン)が六五基、〝〓〟,なお、図像
板碑
が弘前市と岩木町に合計四基ある。,これらの中には、
板碑
に加えるべきか否かを決めがたいものもあるがいちおう一覧表に紹介した。,
板碑
の一つに数えられている。
資料編1(古代・中世編)
(〈凡例〉)
〈凡例〉 (1) 津軽地方の
板碑
を内陸部と海岸線に分けて列挙した。,(4) 「西暦」は、
板碑
に年号が刻まれている場合、または推定可能な場合のみ記載した。,陸は、『陸奥古碑集』の略で、下の地名・番号は同書に記載されている
板碑
である。,県は『青森県の
板碑
』の略で下の数字は同書の
板碑
の番号である。,弘前市に限定せず確認できた津軽地方の
板碑
すべてを記載した。
資料編1(古代・中世編)
(参考文献(第四章に関連する主要文献・論文-各節の文中で記述したものは除く))
竹内運平「長勝寺梵鐘の観察過程に就いて」(陸奥史談14輯) (7)成田末五郎「船沢村地内に群立する
板碑
,の
板碑
研究」(東奥文化9・10合併号) (10)福田以久生「嘉元鐘について」(国史研究70号) (,11)戸沢武「乳井福王寺圏内の
板碑
と国吉の頓阿銘
板碑
について」(陸奥史談47集) (12)小舘衷三「,津軽の
板碑
考」(国史研究72号) (13)佐藤仁「歴史地理的に見た弘前周辺の
板碑
」(年報市史ひろさき,2) (14)福井敏隆「
板碑
は語る-北奥地域の
板碑
について」(季刊日本思想史29号) (15)磯村朝次郎
通史編1(古代・中世)
(城館発掘の成果)
この遺跡に隣接して正応元年(一二八八)銘などの年号を有する中別所の
板碑
群が存在し、出土陶磁器と年代的には,つまり、中別所や宮館の
板碑
群は、それらの造立にあたって周辺に位置する荼毘館などの館跡に起居する武士階層,さらに、中別所の地は広大な城館ではないかと指摘する人もおり、城館の中に
板碑
を造営することによって「聖地,
板碑
に関連していえば、荼毘館と境関館からは土の中に埋もれていた
板碑
が発掘調査によって発見されている(写真,写真180 境関館の
板碑
図58 荼毘館の
板碑
独狐館からは中世陶磁器が出土し、古い
資料編1(古代・中世編)
(はじめに)
仏像・刀剣・銅鏡・古銭・擬宝珠などの金属製品に刻まれた文字や五輪塔・宝篋印塔・無縫塔・笠塔婆・磨崖仏・
板碑
,数が最も多い
板碑
の場合、弘前の市街地に古くからあったと推定されるものは、和徳町周辺や城東地区に残る数基,弘前市内で中世の
板碑
・五輪塔などを多く残している地域は、乳井及びその周辺、国吉、宮舘・中別所などである,乳井の
板碑
における福王寺毘沙門堂、国吉における工藤氏の存在、中別所から高杉方面に残存する
板碑
は「高椙(,また、中世に入ってからの金石資料は延べ数は多いが、その大部分は
板碑
であり、それ以外の金石資料は種類・数量
資料編1(古代・中世編)
([口絵])
高野館跡付近から見た東目屋盆地 乳井茶臼館跡遠景(北西から) 中別所公卿塚の
板碑
, (
板碑
一覧弘前62番) 中別所石仏の正応の
板碑
(国指定重要美術品)(
板碑
一覧弘前90番),乳井神社墓地の五輪塔と
板碑
(本文562・586~589頁) 長勝寺の嘉元四年銘
資料編1(古代・中世編)
(種子一覧)
種子一覧 種子一覧『青森県の
板碑
』所載一覧表より作成
通史編1(古代・中世)
(時頼廻国伝説)
写真103 延文の
板碑
(藤崎町) (唐糸の
板碑
) 写真104 法光寺(三戸町)
通史編1(古代・中世)
([口絵])
県重宝)弘前市熊野奥照神社 4 板石塔婆〔正応碑〕 (重美)弘前市 5 延文の
板碑
,〔唐糸碑〕(町指定)藤崎町 6 熊野奥照神社
板碑
〔道光碑〕 (市指定)弘前市熊野奥照神社
資料編1(考古編)
(4.発掘調査以外の遺跡)
宮舘
板碑
群は弘前市大字宮舘に存在し
板碑
の存在でつとに著名であるが、その場所から福田友之によって珠洲の甕破片
資料編1(古代・中世編)
([付図])
推定復元図 堀越城縄張り推定復元図 堀越城及び城下推定復元図 弘前市周辺の
板碑
分布図,市町村
板碑
番号 所在地 所在場所 弘前 1~9 弘前市乳井字古堂 古堂跡 10 弘前市乳井字岩ノ上,蓮華庵境内 青森 1 青森市石江字高間 神明宮境内 2 青森市宮田字玉水 念心寺墓地 -凡例- ●
板碑
位置,○発見後,公的機関に保存されている
板碑
※番号のみは,弘前市内の
板碑
番号は,資料編1「古代・中世編,」第4章の
板碑
一覧と対応 弘前市及び周辺の中世城館跡 1 笹館 66 大釈迦館 2 小友館
通史編1(古代・中世)
(一族の分裂)
ちなみに降人の一人「工藤六郎入道道光」は、弘前市田町の熊野奥照神社境内にある建武三年銘の
板碑
(写真135,写真135 熊野奥照神社
板碑
また降人の半分近くは、安藤氏一族に預けられており、ここから安藤氏
資料編1(古代・中世編)
(一 銅鐘)
源光氏は中別所の正応元年(一二八八)銘の
板碑
にも名前を刻んでいる「高椙郷主」である。,
板碑
が寄進された十四世紀の前期には、安藤氏の内紛がしだいに表面化し、やがて津軽大乱(一三二二~二八)へと,この寺は、北条時頼が愛妾「唐糸御前」の供養のために建立したと伝えられ、付近には五輪塔や
板碑
も残されている
資料編1(古代・中世編)
(新編 弘前市史 資料編1-2 古代・中世編 目次)
……… 五六〇 第三節 宝篋印塔……………………………………………………… 五六五 第四節
板碑
,…………………………………………………………… 五六七 一
板碑
の概要…………………………………,…………………… 五六七 二 青森県の
板碑
分布……………………………………………… 五六八 ,三
板碑
の造立者とその時期……………………………………… 五七〇 四
板碑
の様式と石質……………,の調査・研究史…………………………………………… 五七四 七
板碑
の発見と保護の状況………………
資料編1(古代・中世編)
(五 乳井地区の城館群と宗教的領域)
そして、街道から「寺内」内部へ入る地点には、かつて「仁王門」が立ち、今でも二基の
板碑
が存在する。,青森県南津軽郡石川町郷土史』より転載 旧乳井通り(中世の奥大道)の現状 乳井神社参道入口(仁王門跡) 2つの
板碑
,乳井集落下 さらに注目すべきことに、乳井地区全体を見下ろす福王寺背後の丘陵の頂上には、中世前期の
板碑
通史編1(古代・中世)
(その他の城館跡)
ただこれらの館跡には、鎌倉時代の大小の
板碑
群が五一基(公卿塚(くぎょうづか)六基・石仏(せきぶつ)四十五基
通史編1(古代・中世)
(嘉元鐘銘文に登場する鎌倉武士)
「源光氏(みつうじ)」は、弘前市中別所の正応元年(一二八八)銘の
板碑
(資料編1六一一頁・写真115)にもその,近接する宮舘の大型
板碑
のなかに「源泰氏(やすうじ)」の名があり、泰氏は「高椙(たかすぎ)郷主」というから,写真115 正応の
板碑
(重要美術品) 源光氏の名がある。
資料編1(考古編)
(第1節 中世・近世遺跡の概観)
弘前城跡 弘前市 17,18,19 陶磁器・他 67 南溜池遺跡 弘前市 18 陶磁器 68 宮舘
板碑
遺跡,弘前市 13,14 陶磁器・
板碑
44 69 国吉館跡 弘前市 16 陶磁器
資料編1(考古編)
(あとがき)
特に後者は蝦夷・北方関係史料のほか、中世城館ならびに弘前地域の金石文(五輪搭・宝篋印塔・
板碑
など)が多数盛
通史編1(古代・中世)
(嫡流と庶流)
また惟重の系統が伝領した大平賀郷は平賀郡の政治経済の中心地であり、
板碑
も大平賀郷や岩楯郷には多く現存するのに
通史編1(古代・中世)
(安藤氏の特殊な氏族結合)
松島の雄島(おしま)の貞和五年(一三四九)銘の
板碑
にみえる「安藤太郎妻」を含む多数の結衆は、やはり女系
資料編1(考古編)
(5.荼毘館遺跡)
そのほか、3号堀からは碑面の上部に「札」(ア)と推定される種子の刻まれた
板碑
が1点出土している。,本遺跡周辺には中世城館跡が多く存在し、また、正応元年(1288年)などの年号や源光氏などの氏名の刻まれた
板碑
群
資料編1(考古編)
(第7節 出土遺物と生活)
入ると、浪岡城や根城では、五鈷杵・銅椀・高台・仏像・香炉・鉦・鈴・数珠・塔婆・柿経といった例があり、
板碑
資料編1(古代・中世編)
(二 大浦城の歴史)
また、弘前市内の誓願寺にある応安四年(一三七一)の
板碑
は、大浦城跡の本丸石垣より出土したものと伝えられ
通史編1(古代・中世)
(種里城と町)
鯵ヶ沢町種里周辺には、
板碑
や五輪塔などが散在しており、そのようなことから光信が種里に入る以前の段階には
資料編1(古代・中世編)
(一 はじめに)
それだけに、現在も各地に残る中世の城館跡は、
板碑
・五輪塔などの金石文資料や、考古学的な出土遺物・遺跡とともに
通史編2(近世1)
(本村と新田)
三世寺村の産土(うぶすな)神であった神明宮の境内には、現在付近から集められた
板碑
が七基安置されているが
資料編1(考古編)
(1.境関館遺跡)
SE51からは
板碑
(図105)、鎌、曲物蓋が出土している。,青磁香炉 生花 瀬戸花瓶・青磁鉢 文房具 瀬戸水滴・石製硯 武具 小刀・小柄・小札・鉄鏃 宗教具 六器・
板碑
,93 Ⅱ 性格不明 〔石製品〕 石製品には、石臼(茶臼・粉挽臼)・砥石・硯・温石(おんじゃく)・
板碑
通史編1(古代・中世)
(四 執権時頼の東国廻国をめぐって)
「源光氏」は弘前市中別所の正応元年(一二八八)の
板碑
(写真148)にも見える人物で、光氏の姓は不明であるが,写真148 正応元年の
板碑
「僧證嚴」「沙弥道法」「沙弥覺性」らは不明であるが、「藤原宗直」「
資料編1(考古編)
(3.野脇遺跡)
また、中崎の薬師堂には地蔵立像の
板碑
が残っており、当時の資料となりうる。
通史編1(自然・原始)
(昭和時代)
中村は津軽一円をくまなく歩いて
板碑
(いたび)に関する資料を収集し、昭和二年(一九二七)には『陸奥古碑集
資料編1(考古編)
([付図])
城館跡 平安 02023 高野館遺跡 弘前市大字国吉字耕田28 包含地・城館跡 平安 02024 国吉
板碑
群遺跡,弘前市大字小友字宇田野199 低台地上 城館跡 縄文(前・後・晩期) 縄文土器,擦文土器,土師器,須恵器,
板碑
通史編1(古代・中世)
([付図])
・平安 23 高野館遺跡 国古字耕田28ほか 山林・畑 包蔵地・城館跡 縄文・平安・中世 24 国吉
板碑
群遺跡
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