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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(古代・中世) (桓武の登場)

桓武の登場 この間に七三歳の老帝光仁天皇は、天応元年(七八一)、位を子の桓武天皇に譲った。,その最晩年に、「天下徳政相論」と呼ばれた論争で、「造作と軍事」こそが最大の政治問題となった桓武天皇の治世,征夷戦争は、桓武天皇の治世の重要な柱の一つであった。  ,桓武天皇は古佐美に対して、全権委任の証(あかし)である節刀(せっとう)を賜る際に、「坂東の安危はこの一挙
通史編1(古代・中世) (阿弖流為の投降)

しかしこの征夷は、翌年、病に伏せた桓武天皇の病床で繰り広げられた、菅野真道(すがののまみち)と藤原緒嗣,大同元年(八〇六)三月には桓武天皇も七〇歳で世を去った。  ,その場には、天皇の弟の弱冠一二歳の葛井(ふじい)親王(桓武天皇と田村麻呂の娘春子との間の子)も同席していたが
通史編1(古代・中世) (蝦夷首長阿弖流為)

この停滞に激怒した桓武天皇に叱責されて(史料二〇三。,当然のことながら、桓武天皇は官軍の将を激しく非難するが、古佐美はこれまでの功績に免じて不問。
通史編1(古代・中世) (後三条天皇の登場)

まさに平安王朝の創始者桓武天皇の再来を彷彿とさせるものであった。  
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

つまり、坂上田村麻呂を媒体として、蝦夷平定事業に血道をあげる桓武天皇、官僧かつ天台僧である最澄をこの上,なく重用し続けた桓武天皇、この桓武天皇を中心軸とした坂上田村麻呂と最澄の三者が思い描く政教関係の構図では,したのではなく、天台宗系に属する神社として始まったこと、したがって、その意味では古代北奥の宗教界は、桓武天皇,前述したように、この一文は桓武天皇-坂上田村麻呂-最澄の三位一体的な政教一如の態を窺見して余りあるものであり,この碇ヶ関-大鰐地域は、桓武天皇-坂上田村麻呂-最澄という三者一体の政教一如の態が顕現した北奥における
資料編1(古代・中世編) ([八世紀])

桓武天皇、副将を非難。 ●延暦八年(七八九)六月九日、征東将軍紀古佐美、軍の解散を奏上。,桓武天皇これを非難。 ●延暦八年(七八九)七月十七日、桓武天皇、戦況報告書を非難。
通史編1(古代・中世) (四 執権時頼の東国廻国をめぐって)

古代において、桓武天皇-坂上田村麻呂-最澄の三者によって彩られてきた北奥の天台宗的仏教世界は、ここに装,古代の北奥仏教界が桓武天皇-坂上田村麻呂-最澄を中心軸に天台宗系色に染め抜かれたのを、いま中世のそれは
資料編1(古代・中世編) (第一章 綱文・史料一覧)

桓武天皇、副将を非難。,桓武天皇これを非難。,……………………………… 続日本紀 46 ●延暦八年(七八九)七月十七日、桓武天皇、戦況報告書を非難。
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