• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 155件
辞書ファセット
/ 4ページ
通史編4(近・現代1) (荒城の桜)

荒城の桜 藩政時代、弘前城内に桜の木は数少なかった。,菊池の試みが頓座したのを見て、内山は再び城内全域に桜を植えることを決意するに至った。,ここに、全国的な桜の名所となる基礎が築かれたのである。  ,大正期に入るころには、明治十五年の生き残りの桜とその後に植栽された桜が見事に開花した。,さらに、外堀一帯や本丸下西濠へも数百本の桜の若木が植えられ、城内および外濠の桜は二〇〇〇本を数えるほどになっていった / 荒城の桜
通史編5(近・現代2) (桜庭芳露の活躍)

桜庭芳露の活躍 桜庭芳露(さくらばほうろ)は明治二十七年(一八九四)、弘前市田代町に生まれた。,昭和三年、『桜庭芳露第一詩集』(資料近・現代1No.七四〇)を刊行する。 / 桜庭芳露の活躍
通史編5(近・現代2) (観桜会運営の一側面)

観桜会運営の一側面 市立図書館には『観桜会に関する綴』という行政文書も保存されている。,それには昭和二十四年(一九四九)の観桜会公園使用料金が記されている。,観桜会にはどれくらいの人々が来たのだろうか。,しかも自然界の生物である桜自体も天候に左右されることが多く、桜の開花状況は諸業界を一喜一憂させた。,そのため観桜会期間中に桜が咲くか咲かないかで観光客の出足は相当に異なった。 / 観桜会運営の一側面
通史編4(近・現代1) (弘前観桜会の幕開け)

弘前観桜会の幕開け 弘前商工会の中でも観桜会開催への気運が高まった。,市民は桜花に酔い、歓を尽くし、観桜会は成功裡(り)に終わったのである。,写真197 大正期の観桜会風景  その後、弘前観桜会は、弘前商工会の一大行事として毎年催されていくことになる,翌八年の観桜会には、園内にさまざまな出店が現れた。,弘前公園の桜が評判になるにつれて、県外にも観桜会が宣伝されるようになったのは、大正十一年からである。 / 弘前観桜会の幕開け
通史編5(近・現代2) (桜田市長リコール問題)

桜田市長リコール問題 昭和二十六年(一九五一)四月二十三日、桜田清芽が岩淵勉市長の跡を継いで第二〇代,桜田市政は戦後改革を断行した岩淵市政の後をうけ、極度の財政難からスタートした。,写真149 第20代市長桜田清芽  極度の財政難に陥っていた弘前市政を建て直すため、桜田市長が選,桜田市長は、就任早々こうした難しい問題に出くわし、大なたを振るわざるを得なかった。,これに対し桜田市長は、前任者の編成した予算では桜田市政の事業を十分に運営できないと反駁し、就任後自ら編成 / 桜田市長リコール問題
通史編5(近・現代2) (桜田市政と合併対策)

桜田市長はこうした宣伝活動で常に先頭に立ち、合併成立に邁進した。,桜田市政の大胆な行政改革が大きな合併を可能にしたのである。,けれども桜田市長は合併終了後の市長選挙に落選した。,赤字財政で桜田市長は本当に望んでいた事業を展開できなかったうらみがあった。,けれども桜田市長は今日の弘前市の産みの親である。 / 桜田市政と合併対策
通史編5(近・現代2) (観桜会運営の打合会議)

観桜会運営の打合会議 観桜会の打合事項に関する書類が弘前市立図書館に残されている。,市当局も観桜会に暴力団や他の私的団体が利益を貪る傾向を取り締まり、観桜会を市の観光の目玉にしようとしていたのである,弘前市が観桜会を市の観光の名物にしようとしていたのは、観桜会への観光客誘致に関する打合会の開催からもわかる,臨時列車を運行し、列車の外部に「弘前観桜会」の標識を記載する案も出された。,写真228 弘前観桜会風景  打合会で仙台鉄道当局は「仙台としては弘前観桜会を第一に考へて居るのですから / 観桜会運営の打合会議
通史編4(近・現代1) (大正期観桜会あれこれ)

大正期観桜会あれこれ 大正期の観桜会といえば、市内の会社、官公署、近所の人々がこぞって来るのが主流で,、いわば大人たちのための観桜会であった。,観桜会余興で人気を集めた催し物の一つに、自転車競走があった。,その前夜祭は弘前観桜会の前ぶれとなり、観桜会のため準備中の露天商なども、その夜から開店し、にぎわった。 / 大正期観桜会あれこれ
通史編5(近・現代2) (観桜会(さくらまつり)の運営方針)

観桜会(さくらまつり)の運営方針 弘前市の観光政策の主体が観桜会にあることはいうまでもないだろう。,ここでは占領行政が終了する前後の観桜会に関する市当局や商工団体の運営実態を紹介しておこう。  ,戦後間もないころの観桜会にはたくさんの露店が軒を連ねていた。,観桜会の運営に関して運営委員会の報告書を見ながら概要を紹介してみたい。,そこでは市と商工会議所が共同で観桜会を開催し、日程や運営内容の問題点を検討し合っている。 / 観桜会(さくらまつり)の運営方針
通史編5(近・現代2) (観光客受入態勢の必要性)

同じことが弘前城の桜にもいえた。桜は明治末期に先覚者の主唱によって植えられたものである。,新たに桜を植樹して数を増やし、桜としての公園を造成していかなければ、いつかは桜は枯渇し、桜の弘前城のイメージ,『陸奥新報』も、今の観桜会は「先覚者の功績をあらわす桜の美観だけにたよつて、いわば資源略奪的な観桜会をやつている,現在に至るまでの弘前市の観光政策が、弘前城と桜に極度に依存してきたことは事実であろう。,しかし、弘前城と桜がもつイメージが大きすぎるためか、観光関係当局も市民も、先人の築き上げた観桜会イベント
通史編4(近・現代1) (呑気(のんき)倶楽部)

このころ、桜の季節になると、津軽各地から大勢の人々が秋田市の千秋公園へと花見に出かけていた。,呑気倶楽部では、上野公園や千秋公園の観桜会を何度か視察していた。,保守的な町のこととて、一方では不評を買いながらも、呑気倶楽部の観桜会はたちまち盛大なものとなり、後の観桜会,また、この年、本丸には千数百燭ものアーク灯が点じられ、夜桜見物もにぎわった。,写真196 観桜会名物の仮装行列
通史編3(近世2) ([口絵])

能楽鑑賞図 口絵6 津軽越中守承昭公 御参内御装束帯御行列之図 口絵7 新井晴峰筆 観桜観楓図, (右隻) 口絵7 新井晴峰筆 観桜観楓図 (左隻) 口絵8 弘前八幡宮祭礼絵馬
資料編1(古代・中世編) (一 東目屋地区の中世城館と領主の歴史)

記録に伝えられた「十二人屋形城衆」の名は、①桜庭太郎左衛門、②中畑惣助、③村市与七郎、④大秋彦次郎、⑤,また『津軽一統志』巻七も、「古城垣上」として「桜庭太郎左衛門初名兵助信正、(中略)国吉関惣右衛門、弟黒土近江,これによれば、東目屋地区には、少なくとも桜庭・国吉・黒土・中畑の四つの城館が、戦国時代に存在していたことになる,さらに『封内事実秘苑』では、彼らのうち桜庭・黒土・蒔苗・大秋・中畑の五人が、大浦為信の津軽統一作戦において
通史編5(近・現代2) (狂乱物価の諸相)

弘前市でも小沢地区に桜ヶ丘団地を造成するなど郊外にどんどん住宅が建てられていた時期だった。  ,写真217 造成が始まった頃の桜ヶ丘団地(昭和48年)
通史編5(近・現代2) (昭和弘前市民の一側面)

写真8 昭和初期の瑪耶渓  昭和四年、弘前市民は自らが誇る弘前城と、そこに見事な花を咲かせる桜が,鉄道省が全国の桜の名所を撮影し、それを『桜咲く日本へ』と題して外国で放映することになったのである。,事業自体は鉄道省の観光客吸引策だったが、弘前公園の桜は非常に好評を博した。,当時弘前城には津軽為信の銅像があり、桜と天守閣と為信像は市民のシンボルであり誇りでもあった。,当時の観桜会を紹介した写真を見ても、恐慌・凶作・戦争のイメージは全く見られない。
通史編5(近・現代2) (観光協会の事業計画)

観桜会では多数の外来客があるので、「年間を通し外客の誘致に努めると共に受入態勢の確立」を期さればならない,…観光民謡放送、サービス講習会、観光弘前写真展、観光関係者協議会   四月下旬…観光案内所設置、観桜会,三月上旬…観光土産品展示会 写真227 田園を行くお山参詣の列 これらの行事予定を見ると、観桜会,もちろん「ネプタ祭」や、現在さくらまつりと呼ぶ「観桜会」は、今も弘前市を代表する観光事業である。
通史編5(近・現代2) (菊ともみじまつり)

すでに弘前市の祭りでは、春の観桜会(さくらまつり)と夏のねぷたが有名だった。,市町村合併を終えた弘前市としても、観光都市を目指すためには春の観桜会と夏のねぷたまつりのほかに、なにかもう,弘前城はあまりにも桜だけが有名になったが、松の古木・巨木が多いことでも注目されている。
通史編3(近世2) (陽光院)

陽光院 陽光院(ようこういん)は、桜庭村(現市内)に開山を喜山として創建された。
通史編2(近世1) (信政晩年の藩政)

このような時期、藩士桜庭太郎左衛門は宝永二年から同七年にかけて三通の「建白書」を藩に差し出している(国史津,桜庭は為信以来の譜代家臣であり、この時期には藩主信政の近習を務めていた人物である。,このような中、宝永六年(一七〇九)正月、桜庭太郎左衛門は二通目の建白書を差し出した。,このような中、桜庭太郎左衛門は宝永七年(一七一〇)二月十八日付の三通目の建白書を提出する。,桜庭の建白書は、信重への提出を目的としていることがうかがわれる。
通史編5(近・現代2) (ひばり幼稚園)

小沢地区は、昭和四十七年に桜ヶ丘住宅団地の造成が完工、分譲が開始されるとともに、大開地区も市街化区域への
通史編4(近・現代1) (市会と市役所開庁)

宮川富三郎 蒲田廣 本多謙一 花田直太郎 葛西末吉 芹川得一 佐田正之丞 桜庭又蔵 奈良誠之助 石郷岡文吉,五月十三日に市会を召集、長谷川如泡が議長となり、市長候補を選挙した結果、第一菊池九郎、第二長谷川如泡、第三桜庭又蔵
通史編5(近・現代2) (市会の勢力図)

政友派  桜庭源三郎 伊藤金蔵 桜田清芽 工藤福弥 宮川久一郎 成田貞次郎 雨森勝三郎 山崎峰次郎 久保喜一郎
通史編4(近・現代1) (まえがき)

まえがき 近・現代専門部会執筆編集員 稲葉克夫  今年の桜が頂点を極めた一日(いちにち,樹齢五百年以上のしだれ桜も精いっぱい花をつけて、春雪の岩木山と対峙(たいじ)していた。
通史編5(近・現代2) (後藤健次の手紙)

七月には北方詩風社詩話会を開き、一戸玲太郎、桜庭芳露をはじめ、今官一ら「わらはど」のグループや、郷土音楽研究家
通史編2(近世1) (七 津軽一統志)

四代藩主信政時代に計画され、資料収集を企てたが実現せず、五代藩主信寿(のぶひさ)の享保十二年(一七二七)に用人桜庭半兵衛
通史編5(近・現代2) (土地区画整理事業)

弘前市内においては、昭和四十二年(一九六七)から平成にかけて、栄町、桜ヶ丘、茂森新町、浜の町、宮園などで,(単位:ha, 人) 区域名 事業年度 事業面積 計画人口 栄町 S42~S44 4.9 670 桜ヶ
通史編2(近世1) (正徳から天明にかけての大名課役)

門番の務めは、江戸城本丸・西丸などの内郭の諸門には幕府の番方、大手門・内桜田門・西丸大手門の大門三門や,、西丸への出入りを押さえる外桜田門・馬場先門・和田倉門、大手前から北丸への出入りを押さえる竹橋門に譜代大名,譜代 1万石 4 2 25 20 51 ㉒ 半蔵 譜代 1万石余 4 3 27 23 57 ㉓ 外桜田,175 ㉘ 平河 先手組与力同心 ㉙ 竹橋 譜代 1万石余 4 2 25 20 51 ㉚ 内桜田
通史編4(近・現代1) (弘城政社の内紛と解散)

猪股幸次郎 岩見篤三郎 野村音次郎 川村武次郎 近藤東助 藤田弥助 内山覚弥 久保初太郎 田辺富吉 桜庭秀輔, 佐藤誠四郎 大高歳行  ◇弘城政社派 金沢万弥 桜庭又蔵 村谷勘右衛門 高木由吉 秋庭有穂 井上浩
通史編4(近・現代1) (城跡の荒廃)

  欅 四六本  梨 一九本  銀杏 六本  梅 二五本   木瓜 一七本 胡桃 四三本  まだ桜は,桜は、明治十三年に内山覚弥が三の丸へ二〇本、十五年に菊池楯衛が一〇〇〇本を西の郭と二の丸に植えたのが始
通史編5(近・現代2) (中弘地区の合併推移)

当時の弘前市長桜田清芽は、和徳、藤代、大浦、駒越、清水、千年、堀越、豊田の八ヵ村との合併を考慮していた,桜田市長も合併案は当初打ち出した八、九ヵ村に限定しないと発言し、合併問題は新たな段階に入った。,説明会では合併に対する種々さまざまな意見が出されたが、桜田市長は合併で得た財政力は関係村に還元し、弘前市
通史編3(近世2) (討庄応援部隊の解兵)

佐藤英馬は閏四月二十一日に白石を出立し、二十五日に横手へ到着して、秋田詰めの桜庭富蔵へ討庄応援兵の解散,桜庭富蔵は、佐藤の指示を弘前藩の総大将山崎所左衛門や本荘在陣の松野栄蔵に連絡するなど、早速解兵手続きを
資料編1(考古編) (〈2〉津軽地方で生産された須恵器)

発掘調査が行われたのは、砂田B-1号窯、鞠ノ沢A窯、持子沢B窯、持子沢D窯、砂田D-1窯、砂田D-2窯、桜ケ,北奥古代文化」第6号 S49.5 13 真言館窯 未 須恵器,窯体壁片採集 No.10.11に同じ 14 桜ヶ,峰窯 新谷武 S48.9 半地下無階無段登窯 1基 新谷武「桜ヶ峰窯跡調査概要」 S48 15 郷山前窯
通史編3(近世2) (景勝の地としての南溜池)

国日記」文化四年(一八〇七)四月二十九日条によれば、「大円寺通」の土居沿いに「中之橋」「矢場地」まで松と桜を,植え付けたり、万延元年(一八六〇)にはこれらの桜や松にいたずらせぬように触書を出した(「国日記」万延元年閏三月三十日条
通史編5(近・現代2) (国家総動員体制下の商工業)

また、大正七年以来実施してきた観桜会の実施も危ぶまれたが、「時局と桜の催し」として開催された。  
通史編1(古代・中世) (青森県内の田村麻呂伝説)

浪岡町や今渕(現在の今別町)、桜庭(現在の弘前市桜庭)のそれは田村麻呂創建と伝えられている。
通史編1(古代・中世) (東目屋地域に見られる城館跡)

記録に伝えられる「十二人屋形城衆」の名は、桜庭太郎左衛門(さくらばたろうざえもん)・中畑惣助(なかはたそうすけ,また『津軽一統志』第七によると、東目屋地区には少なくとも桜庭(さくらば)・国吉・黒土(くろつち)・中畑
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

*12 橘善光 「青森県下北半島八森遺跡調査慨報」(貝塚42) 1952年 *13 西村正衛・桜井清彦,・玉口時雄 「青森県森田村附近の遺跡調査概報」(古代5) 1952年 *14 西村正衛・桜井清彦・玉口時雄,1953年 *16  〃  「青森県下北半島稲崎遺跡調査報告」(古代12) 1953年 *17 桜井清彦,1955年 *21 江坂輝弥「青森県下北郡ムシリ遺跡」(日本考古学年報4) 1955年 *22 桜井清彦,27 氏家和典 「古代土師器の型式分類とその編年」(歴史14) 東北史学会編 1957年 *28 桜井清彦
通史編5(近・現代2) (二人市長事件)

同時に、非政友派の柏議員から工藤議長懲罰不信任の動議が出され、その退場を迫ったが議長は動かず、その間に桜田議員,動議成立と頑張り、議長が二人ということで、議場は議員の怒号と傍聴人の野次(やじ)で喧騒、このとき、神山、桜田,、野村三議員から市長選挙の件が同義として提出され、工藤福弥議長は選挙立会人に神山、桜田陵名を指名、一方
通史編4(近・現代1) (鬼沢小学開校と「村落小学」)

現千年小学校の前身 大和沢小学 同 大和沢村 同九月四日 同 同 一 三二 同 現大和沢小学校 桜庭小学,現東目屋小学校 番館小学 同 中畑村 同七月 同 同 一 二九 二 同 明治二十二年廃校 学区は桜庭小
通史編5(近・現代2) (観光協会をめぐる紛糾)

写真226 さくらまつりのポスター(昭和45年)  研究会の代表は桜田弘前市長に現行の観光協会の,観桜会を中心に弘前市の観光が、市内の商工業界に一定の利益をもたらす以上、商工会議所が主導する観光協会は,実際にこの後、観桜会を中心に、商工会議所はさまざまなイベントを講じ、観光都市の育成に大きく貢献している
通史編1(自然・原始) (春)

四月になると、上旬には平地の積雪の多い地域でも雪が消え、下旬には桜が咲き始める。
通史編5(近・現代2) (石川町の存在)

一方で弘前市も桜田清芽から岩淵勉に市長が交替し、その岩淵が病に倒れた翌年二月十八日の選挙で藤森睿が市長
通史編5(近・現代2) (弘前女学校のキリスト教)

そうとも知らず私は松森町にある桜庭駒五郎氏宅にこの件に関しておもむいたところ、御夫婦は身を白装束に清め,勿論桜庭さん御夫婦とも手をにぎりあって喜んだ。笹森先生といえばこの終戦の詔を青森駅頭で聞いたという。
資料編3(近世編2) ([口絵])

) (弘前市・最勝院蔵) 公私自分留書(弘前大学附属図書館蔵弘前八幡宮文書) 桜庭村切支丹改証文
通史編1(自然・原始) (春)

四月になると、平地の積雪の多い地方でも雪がすっかり消え、下旬には桜が咲き始める。
通史編4(近・現代1) (弘前総町聯合会)

笹森要蔵   菊池定次郎  出町大助 桜庭又蔵   太田滝五郎  寺井純司 黒滝忠造   佐藤英司
通史編5(近・現代2) (昭和初期の弘前女学校)

外国伝道局)の寄贈金五万ドルと同窓生の寄付金を充てて建てられたもので、施工者はクリスチャン棟梁として有名な桜庭駒五郎
通史編4(近・現代1) (歌舞伎・新派劇)

また、同年二月の尾上松鶴一座は『義経千本桜』を見せ、九月の中村芝鶴・実川八百蔵一座の狂言は、『桔梗旗揚
通史編5(近・現代2) (二 中学校教育)

一二 12 中学校 清水 清水富田字桔梗野二三 斉藤尚徳 一一 三三一 八 13 中学校 東目屋 桜庭字清水流四六
資料編1(古代・中世編) (二 各城館の位置)

⑥桜庭館跡  『青森県の中世城館』『弘前の文化財』や「弘前市文化財位置図」が紹介しているが、『青森県,の中世城館』は黒土館跡を「桜庭館跡」として紹介し(しかも位置が間違っていた)、また『弘前の文化財』「弘前市文化財位置図
/ 4ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました