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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(貞享検地)
貞享
検地
貞享
検地
は、津軽領における最大の統一的
検地
で、貞享元年(一六八四)に始まり、同四年五月の
検地
水帳,貞享
検地
は、越後高田
検地
(天和元年〈一六八一〉の越後騒動の結果、幕府に収公された松平光長旧領の
検地
)に,越後高田
検地
と貞享
検地
との相関性は、 ①貞享
検地
のおもだった役人が、越後高田
検地
の経験者である。,③一間六尺一分の
検地
竿、一反三〇〇歩の
検地
基準は、幕領
検地
の基準と同じものである。,④越後高田
検地
での
検地
竿は「なよ竹」を使用しており、貞享
検地
でも唐津船が積んで来た「なよ竹」「唐竹」を / 貞享
検地
通史編2(近世1)
(検地の実施)
検地
の実施 前期の津軽領では、寛永・明暦に続き、寛文・延宝・天和と
検地
が実施された。,4月21日~25日
検地
役人帰弘。 9月21日
検地
役人出弘。,黒土・林は、前年の
検地
における
検地
奉行である(このとき、
検地
奉行は、六人が二人一組で任命された)。,この
検地
は、斎藤与五右衛門・矢作十右衛門が
検地
奉行を務め、黒土らとはまったく別に
検地
を行っていたと思われる,
検地
奉行三人、もしくは三組という編成、そして春と秋の二期に
検地
が実施されるという在り方は、延宝期の
検地
/
検地
の実施
通史編2(近世1)
(検地帳の特色)
検地
帳の特色 さて、この
検地
帳をみてみると、
検地
竿は一間六尺五寸、一反=三〇〇歩、そして、一筆ごとに,所在地・田畑の別・面積と名請人(耕地の所有者として
検地
帳にその名を記載された百姓)が記されている。,次に、明暦の
検地
帳の収穫量表示は、実際の生産力を正確に反映したものであったかということが問題となるが、,この
検地
帳では、田・畑・屋敷地の面積に一律の石盛を乗じることによって石高を算出している。,したがって、明暦の
検地
帳は、その表示方式は石高によって土地の生産高を示しているものの、実際の生産力とは /
検地
帳の特色
通史編2(近世1)
(元文検地の実施)
元文
検地
の実施 藩では享保十二年(一七二七)、村位と年貢率を全領的に手直した(『五所川原市史』史料編,俵元・広須・金木の三新田の
検地
は、享保二十年(一七三五)九月、実施が命じられた。,翌年に入り
検地
が実施され、元文二年(一七三七)に
検地
帳が作成された(同前)。,これが「元文
検地
」と呼ばれる
検地
である。 ,図120.元文元年の
検地
水帳 目録を見る 精細画像で見る / 元文
検地
の実施
通史編2(近世1)
(貞享検地への影響)
貞享
検地
への影響 領内総
検地
である「貞享
検地
(じょうきょうけんち)」は、高田領
検地
の翌年、貞享元年(,「貞享
検地
」のおもだった役人は、高田領
検地
の派遣役人、ないし高田領
検地
と何らかのかかわりを有する者であり,元締め二人のうち、田口維章(これあき)は高田領
検地
では
検地
奉行であり、武田定清は天和年間の領内
検地
においては,
検地
奉行三人のうちの一人であり、高田領
検地
が下命されると領内
検地
を中止して城下弘前へ戻るよう命じられ、,このような
検地
役人の共通性のほかにも、高田領
検地
と「貞享
検地
」の関連性をうかがわせる事例としては、「貞享
検地
/ 貞享
検地
への影響
通史編2(近世1)
(一 明暦検地の意義)
一 明暦
検地
の意義 津軽領では、寛永二年(一六二五)から全領の
検地
が三年をかけて行われたと伝えられる,しかしながら、現在のところ
検地
帳も発見されておらず、その詳細についてはわからない。 ,現在、津軽領に残されている最も古い
検地
帳は、明暦二年(一六五六)のものである。,この
検地
は、明暦二年の六月下旬から七月中旬にかけて、山形・黒石・平内(ひらない)の順で実施されたという,したがって、
検地
の実施範囲は、信英へ分知された地域に限られていた。 / 一 明暦
検地
の意義
通史編2(近世1)
(検地の性格と目的)
検地
の性格と目的 延宝期の場合、
検地
の目的は生産量の把握と土地の丈量とにあったとされている。,しかし、
検地
打出分の蔵入地(藩の直轄地)編入を原則禁止とする一方で、知行地不足の給人の私的な土地の交換,知行地不足の給人が、畑から田に地目変更をする場合、
検地
を受け実際の生産高と都合をつけることになっていた,前期
検地
の竿入は、こうした開発地に集中する傾向があった。,前期
検地
の目的の一つは「高」を確定することにあったということになる。 /
検地
の性格と目的
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
七月二十六日に幕府代官設楽孫兵衛から「帳面改」のため
検地
帳の提出を求められているが、これ以降
検地
を担当,津軽家が担当した二郡の内三嶋郡の
検地
帳が残存している(「越後国三嶋郡御
検地
村高帳」弘図古)。,図91.越後国三嶋郡御
検地
村高帳 目録を見る 精細画像で見る 次に、この
検地
に派遣された人々,○印は高田
検地
につき,新規召し抱えられた者。△印は高田
検地
下命前の召し抱え。 ,たとえば、高田領
検地
における実務責任者といえる
検地
奉行財津永治(ざいつながはる)と
検地
奉行加役田口維章 / 越後高田領
検地
の実施
通史編2(近世1)
(前期農政と検地)
前期農政と
検地
前期
検地
は、大光寺遣のような古い村落でも実施されたように、開発地のみであったわけではない,そして、寛文期以降、とくに延宝期から天和期にかけて
検地
が継続的に実施されたのは、新開地の増大という面のほかに / 前期農政と
検地
通史編2(近世1)
(大名の改易と幕領検地)
大名の改易と幕領
検地
元禄時代は、大名の浮沈が激しかったこと、家格制度が完成した形になっていないこと,幕領
検地
の執行は、家綱政権下の延宝五年(一六七七)畿内・近国幕領
検地
施行時から、幕府役人から近隣諸藩が,この後、綱吉政権下にかけて近隣大名を幕領
検地
に動員することが常となる。,の長さとして用いられる一間=六尺一寸竿が使用されず、旧来の
検地
結果に基づく石高標示が温存されていた地域,、③
検地
水帳そのものが欠損あるいは不完全な場合、など
検地
実施を必然化するいくつかの理由が考えられるという / 大名の改易と幕領
検地
通史編2(近世1)
(知行安堵と検地)
知行安堵と
検地
宇都宮に到着した秀吉は、奥州の諸大名を呼び寄せて知行割を決定した(以下の記述は特に断,天正十八年七月、前田利家が
検地
を行うために出羽・奥州へ向かい、津軽地域にも赴いている(資料近世1No.,この時の
検地
の成果をもとに、知行高が決められたのであろう。,つまり、大名権が確立された大名については、
検地
は実施されなかったのである。,太閤
検地
は、奥羽全域に等しく実施されたものではなかったのである。 / 知行安堵と
検地
資料編2(近世編1)
(第三節 検地の実施と新田開発)
第三節
検地
の実施と新田開発 一 越後
検地
二 領内
検地
三 新田開発の展開 / 第三節
検地
の実施と新田開発
通史編2(近世1)
(二五 陸奥国津軽郡御検地水帳(みずちょう))
二五 陸奥国津軽郡御
検地
水帳(みずちょう) 藩政時代の津軽領内の
検地
帳。,弘前市立図書館に九二二冊収蔵されており、貞享四年(一六八七)~明和四年(一七六七)に至る
検地
帳のうち、,なお黒石市蔵の明暦二年(一六五六)の
検地
帳が、津軽領に残る最古のものとされている。 / 二五 陸奥国津軽郡御
検地
水帳(みずちょう)
通史編2(近世1)
(三 貞享検地と地方支配機構の確立)
三 貞享
検地
と地方支配機構の確立 津軽弘前藩は、貞享元年(一六八四)から貞享総
検地
に着手するとともに / 三 貞享
検地
と地方支配機構の確立
通史編2(近世1)
(「不作」と本百姓体制―貞享検地の前提―)
「不作」と本百姓体制―貞享
検地
の前提― 貞享
検地
の直前の農政の様子を、貞享四年(一六八七)二月の家老連署,それだけ「新検」、すなわち、貞享
検地
により「不作」を回避する支配体制をとりえたとする藩の姿勢をうかがえるが,、逆にいうと、この
検地
の課題は、「不作」を解決することにあった。 ,このような変化が進展することにより、藩はこれを個別的・地域的な
検地
では把握しきれなくなった。,このような前例を踏まえ、貞享
検地
は、単なる
検地
にとどまらず、土地と農民への支配体制を再編成しようという / 「不作」と本百姓体制―貞享
検地
の前提―
通史編2(近世1)
(一 検地・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り)
一
検地
・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り 天正十八年(一五九〇)三月一日、豊臣秀吉は京都をたち、小田原,それは、①当知行安堵、②妻子在京(人質徴収)、③
検地
の実施、④城破(しろわ)り、の四点であった(資料近世 / 一
検地
・人質徴収・城破(わ)り・刀狩り
資料編2(近世編1)
(【解説】)
第三節では、「
検地
の実施と新田開発」として、津軽領における
検地
と新田開発に関する史料を掲げた。,そもそも津軽領の
検地
は、天正十八年(一五九〇)の奥羽日の本仕置(ひのもとしおき)において太閤
検地
が実施,され(第一章「藩政への道」の該当条を参照のこと)、この
検地
は指出(さしだし)
検地
といわれる。,、この
検地
帳は寛文十一年から天和元年(一六八一)にかけて実施された「天和の
検地
」と、翌二年一月から実施,これらの
検地
の結果が、先述した貞享
検地
帳である。
通史編2(近世1)
(浅利頼平の比内帰還)
そのため、浅利領は「御
検地
之御帳面御朱印」に登録され役儀を務めてきた(『能代市史』資料古代・中世一、中世二,天正十八年七月以後の奥羽仕置において、秋田の
検地
奉行として木村重茲、津軽の
検地
奉行として前田利家、仙北,の
検地
奉行として大谷吉継と上杉景勝がそれぞれ派遣された。,秋田の
検地
奉行である木村重茲は、同年の八月ころから
検地
を実施し、十一月中旬に上洛している。,前田利家も同じ期間に
検地
を行って帰国、上洛している。
通史編2(近世1)
(一 九戸一揆と動員大名)
おううひのもとしおき)が終了し、その仕置軍が帰還した直後の同年十月、奥羽の地においては、豊臣政権の徹底した
検地
,この時、
検地
奉行として津軽の
検地
を終え帰国の途次にあった前田利家(まえだとしいえ)は、この起こったばかりの
資料編2(近世編1)
(第二節 村方の様子)
第二節 村方の様子 一 村方の生活 二
検地
と村(表形式横組のため巻末(1)より所載)
通史編2(近世1)
(殖産政策の前提)
かいはくごししんれい)などの諸政策がそれに当たるし、津軽弘前藩でいえば貞享四年(一六八七)の領内統一
検地
,従来、藩がとった領内の新田開発や
検地
などによって年貢を増徴しようとする策は、開発すべき土地に限りがあったり
通史編2(近世1)
(土着策実施への布石(Ⅱ期))
このほか、寛政二年八月には
検地
人を定め、明細な田畑生荒調査を行っている(「国日記」寛政二年八月二十日条,これらは、帰農令および生産基盤の把握を意味するものであるが、特に寛政二年の
検地
が本
検地
ではなく、荒地吟味
資料編2(近世編1)
(【解説】)
村方の様子では、百姓農民の生活全体を統制する藩の法令を掲げ、次いで天和の書上と正保の知行高帳及び貞享の
検地
水帳,貞享の
検地
水帳は、貞享元年(一六八四)から開始し同四年に終了した、いわゆる貞享
検地
の結果をまとめたものであり,えば地積の記載において、天和の書上が原則として二百歩を一人役とする「人役」表示であるのに対して、貞享の
検地
水帳,また、貞享の
検地
帳は、弘前市域の農村を掲げたが、分量が膨大であることから、帳尻の数値を表化して掲載した
通史編2(近世1)
(知行安堵)
知行安堵 豊臣政権による
検地
が実施されようとしたころ、天正十八年(一五九〇)七月二十七日に陸奥の南部信直,さて、天正十八年八月十二日、奥羽両国に
検地
条目が出され(資料近世1No.二四)、九月末にかけて
検地
が実施,十二月から翌年一月にかけて、出羽の大小名はこぞって上洛し、
検地
の成果による領地朱印状が下された。,一方、陸奥では、
検地
の後に起きた葛西・大崎一揆、和賀・稗貫一揆の影響で、上洛は果たせなかったようであり
通史編2(近世1)
(近世大名と大名課役)
日光社参時の将軍への供奉(ぐぶ)、改易大名の領地受け取り・在番、江戸城の門番、江戸市中の火消役、他領
検地
,一六六九)の寛文蝦夷蜂起(シャクシャインの戦い)に際しての松前出兵、天和二年(一六八二)の越後高田領
検地
通史編3(近世2)
(藩政中期四代信政)
寺社領については、明暦三年(一六五七)の
検地
帳が耕春院(現宗徳寺)と藤先寺(とうせんじ)に現存するところをみると,、この前年に信政の後見役信英の所領となる黒石領の
検地
が行われているので、寺社領の把握もなされたものとみられる,貞享元年(一六八四)から四年間をかけて実施した「貞享
検地
」は詳細を極めたもので、寺社領については年貢地,正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」(弘図津)は五代藩主信寿の時代のものであるが、貞享
検地
帳との照合
通史編2(近世1)
(新施策の実施と知行制度の転換)
新施策の実施と知行制度の転換 津軽弘前藩は、貞享(じょうきょう)元年(一六八四)から実施された領内総
検地
,である「貞享
検地
(じょうきょうけんち)」を契機に一連の施策を打ち出した。
通史編2(近世1)
(安永期の蔵米化)
これら帳簿類には貞享の
検地
以後の移動の状況が記された。,そして、翌年には元文年間に
検地
を終えた新田地方の村々を新たに知行地として組み入れるなどの処置が行われた,もっとも藩側の論理では、貞享
検地
から既に九〇年以上が経って減石が目立ち、このままでは勤務に差し支えるとして
資料編2(近世編1)
(第二節 乳井貢の思想【解説】)
一巻 安永七年、期月而已可 一巻 安永八年、通財一事凡例 一巻、得失問答一巻、制地考 一巻 安永六年、
検地
法, 一巻、
検地
政一巻、城制法 一巻、城制規矩 一巻。
通史編2(近世1)
(刀狩り)
現福島県岩瀬郡長沼町)で、長沼その外在々の百姓らの刀・弓・鑓(やり)・鉄砲、並びに武具類を改め、また、
検地
,も行うように(『青森県史』資料編近世1)と、局所的ではあるが奥州で初めての刀狩りと
検地
を指示した(藤木久志,そして、出羽・奥州、さらには津軽の果てまでをも射程に入れた刀狩りと
検地
とが一体となって施行されることを
通史編2(近世1)
(一里塚)
津軽弘前藩では元禄六年(一六九三)に領内の道程
検地
を行い、その成果が翌年の「御国中道程之図」(以下「道程之図,おんふだしょ)迄道路絵図」の二本に分けられており、従来の藩境から街道が始まるという描き方はされておらず、道程
検地
通史編2(近世1)
(生産力の把握)
さらに、明暦
検地
帳による石盛はあくまで平均値であり、これら二つを乗じて算出される生産力表示もやはり、実際,前期農政が、人役制を採用して生産力を把握しようとしたことは、土地の丈量(じょうりょう)、すなわち、
検地
通史編2(近世1)
(中期農政と農村構造の変化)
飢饉の犠牲となって亡くなったり逃散してしまった中下層の農民は、
検地
帳に耕作者として名前の載らない「高無,その結果、飢饉の後には高持百姓(
検地
帳に名の記された百姓。
通史編2(近世1)
(新編弘前市史 通史編2(近世1) 目次)
……………… 10 第二節 天正十八年の奥羽日の本仕置と北奥 ……………………… 15 一
検地
,と領内統一
検地
…………………………… 244 三 寛文蝦夷蜂起への出兵 ……………………………,…… 289 第二節 土地制度の確立と前期農政の展開 ………………………… 305 一 明暦
検地
,の意義 ……………………………………………… 305 二 寛文~天和
検地
と本百姓体制の確立 ……,………………… 308 三 貞享
検地
と地方支配機構の確立 …………………………… 315
通史編2(近世1)
(地方支配機構の確立)
ただし、この時の「組」は、貞享
検地
に伴って成立した「二十五組」とは別のものと考えられる。,しかし、貞享末年から元禄初年にかけて、これら小身の代官が存立しえなくなっていたことが、貞享
検地
以後の課題
通史編4(近・現代1)
(地券の発行準備)
地券渡方心得書 第壱条 一、従来之
検地
帳今日ニ至リ錯乱之廉(かど)不少ニ付、惣而(そうじて)一村限絵図面差出候積,以、持主限為(かぎり)書出、一村限取纏メ台帳江記入之事 第弐条 一、地所番号管内ニ無之、然ニ
検地
帳突合者従来誰抱
通史編2(近世1)
(九戸一揆の背景)
する一方で(『伊達家文書』)、家臣浅野長吉(あさのながよし)(後に長政(ながまさ))を和賀・稗貫郡に
検地
奉行,なお、南部領は
検地
等の直接的仕置は受けなかったが、長吉は信直の家臣の中で帰服しないものがある旨を聞き、
通史編2(近世1)
(信政の襲封と黒石分知)
さらに六月下旬から、これらの地域の
検地
が実施され、七月下旬に終了した。
通史編2(近世1)
(「出頭人」の台頭)
一六二二~一六八五)の一族やその薫陶を受けた「素行派(そこうは)」と呼ぶべき人々、もう一つは、財政・
検地
等,のエキスパートで、領外の幕領
検地
や領内
検地
などで実務的な能力を発揮し、やがて藩の勘定方・郡方を掌握し、
通史編2(近世1)
(秋田安東実季の名護屋参陣)
この紛争は、かつて奥羽仕置の際に秋田の
検地
奉行を勤めた豊臣秀次の家臣木村重茲が調停に入り、結局実季が浅利氏
通史編2(近世1)
(農村の再開発)
宝永六年(一七〇九)、諸役が無課税となっていた年期が明け、年貢および諸役を規定どおり賦課するために
検地
,また、新田地方を対象とする「元文
検地
(げんぶんけんち)」(後述)が開始される直前の元文元年(一七三六)
通史編2(近世1)
(名護屋における「日本之つき合」)
前田利家は、天正十八年の奥羽仕置の際、
検地
奉行として津軽の
検地
を行っているが、その利家から「表裏之仁」,そして、具体的には
検地
衆が「奥州・津軽・日の本まで、さしつかわされ、そのうへ、国々御
検地
」(「太閤さま
通史編2(近世1)
(豊臣政権の奉行衆)
前田利家は、天正十八年(一五九〇)の奥羽仕置の際、秋田や津軽の
検地
奉行として派遣され、家康らと同様に分権派
通史編2(近世1)
(九戸一揆の意義)
天正十八年の奥羽仕置では
検地
等の直接的仕置はなされなかったが、この再仕置によって南部領にも直接的に秀吉
通史編2(近世1)
(浅利頼平の怪死)
頼平は、慶長二年、上洛命令により京へ向かい、九月三日に「御
検地
之年秋田方へ仕軍役物成上申候覚」と「比内千町
通史編2(近世1)
(経済政策の前提)
宝暦三年十月十日の家中俸禄調査(資料近世1No.八九七)、同四年一月の反別帳(たんべつちょう)・貞享
検地
帳等
通史編2(近世1)
(染織技術の導入政策)
染織技術の導入政策 貞享
検地
以降、元禄の大飢饉に至るまでの農政は、藩による年貢収納の強化に主眼が置かれたが
通史編2(近世1)
(上方廻米)
また、貞享
検地
に伴う新たな収取体系の整備、すなわち、米納年貢増徴政策などがその背景にあったのであろう。
通史編2(近世1)
(人質徴収)
しかし、
検地
の後に起きた葛西・大崎一揆、和賀・稗貫一揆の影響で、天正十八年末にこぞって上洛した出羽のような
通史編3(近世2)
(信政の文治)
信政は新田開発、岩木川改修、貞享
検地
、領内産業の育成等々多くの治績をあげたが、文教面でも江戸上方から多
/ 2ページ