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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(検地帳の特色)
検地帳
の特色 さて、この
検地帳
をみてみると、検地竿は一間六尺五寸、一反=三〇〇歩、そして、一筆ごとに,所在地・田畑の別・面積と名請人(耕地の所有者として
検地帳
にその名を記載された百姓)が記されている。,次に、明暦の
検地帳
の収穫量表示は、実際の生産力を正確に反映したものであったかということが問題となるが、,この
検地帳
では、田・畑・屋敷地の面積に一律の石盛を乗じることによって石高を算出している。,したがって、明暦の
検地帳
は、その表示方式は石高によって土地の生産高を示しているものの、実際の生産力とは /
検地帳
の特色
通史編2(近世1)
(二五 陸奥国津軽郡御検地水帳(みずちょう))
二五 陸奥国津軽郡御検地水帳(みずちょう) 藩政時代の津軽領内の
検地帳
。,弘前市立図書館に九二二冊収蔵されており、貞享四年(一六八七)~明和四年(一七六七)に至る
検地帳
のうち、,なお黒石市蔵の明暦二年(一六五六)の
検地帳
が、津軽領に残る最古のものとされている。
通史編2(近世1)
(一 明暦検地の意義)
しかしながら、現在のところ
検地帳
も発見されておらず、その詳細についてはわからない。 ,現在、津軽領に残されている最も古い
検地帳
は、明暦二年(一六五六)のものである。,この
検地帳
は、藩政前期の土地と生産把握の在り方を示す数少ない史料である(以下は、特に断らないかぎり、浪川健治,現在伝えられている
検地帳
は二〇冊であるが、山形(現黒石市)・黒石・平内には三〇ヵ村以上あるので、すべての,村の分がそろっているわけではない(七尾美彦「黒石藩明暦二年の
検地帳
をめぐって」『弘前大学国史研究』五六
資料編2(近世編1)
(【解説】)
現在、
検地帳
が全領内的に残存するのは、貞享(じょうきょう)四年(一六八七)に作成された貞享
検地帳
であるが,、この
検地帳
は寛文十一年から天和元年(一六八一)にかけて実施された「天和の検地」と、翌二年一月から実施,これらの検地の結果が、先述した貞享
検地帳
である。,本巻の第五章第二節「村方の様子」に、貞享
検地帳
に見える弘前市内の農村を掲げたので参照されたい。
通史編2(近世1)
(中期農政と農村構造の変化)
飢饉の犠牲となって亡くなったり逃散してしまった中下層の農民は、
検地帳
に耕作者として名前の載らない「高無,その結果、飢饉の後には高持百姓(
検地帳
に名の記された百姓。
通史編2(近世1)
(元文検地の実施)
翌年に入り検地が実施され、元文二年(一七三七)に
検地帳
が作成された(同前)。
通史編4(近・現代1)
(地券の発行準備)
地券渡方心得書 第壱条 一、従来之
検地帳
今日ニ至リ錯乱之廉(かど)不少ニ付、惣而(そうじて)一村限絵図面差出候積,以、持主限為(かぎり)書出、一村限取纏メ台帳江記入之事 第弐条 一、地所番号管内ニ無之、然ニ
検地帳
突合者従来誰抱
通史編2(近世1)
(貞享検地)
そして、
検地帳
には各一筆ごとに所在地(このとき地字(じあざ)の変更が行われた)・地目・面積・等級・生産高,また、
検地帳
をもとに作成された原子(はらこ)村(現五所川原市)の見取場等改帳には(『五所川原市史』史料編
通史編3(近世2)
(藩政中期四代信政)
寺社領については、明暦三年(一六五七)の
検地帳
が耕春院(現宗徳寺)と藤先寺(とうせんじ)に現存するところをみると,正徳元年(一七一一)の「寺社領分限帳」(弘図津)は五代藩主信寿の時代のものであるが、貞享
検地帳
との照合
通史編2(近世1)
(生産力の把握)
さらに、明暦
検地帳
による石盛はあくまで平均値であり、これら二つを乗じて算出される生産力表示もやはり、実際
通史編2(近世1)
(経済政策の前提)
宝暦三年十月十日の家中俸禄調査(資料近世1No.八九七)、同四年一月の反別帳(たんべつちょう)・貞享
検地帳
等
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
七月二十六日に幕府代官設楽孫兵衛から「帳面改」のため
検地帳
の提出を求められているが、これ以降検地を担当,検地役人は十一月二十日に江戸に戻っている((国日記」天和二年十一月二十日条)、江戸藩邸では十一月七日から
検地帳
,津軽家が担当した二郡の内三嶋郡の
検地帳
が残存している(「越後国三嶋郡御検地村高帳」弘図古)。
通史編2(近世1)
(土着策への本格的展開(Ⅲ期))
(5)来春に田畑の生荒状況を詳細に把握し、荒地や遠在の地を繰り替えた
検地帳
を作成し、年貢徴収を四ツ物成
通史編2(近世1)
(漆の栽培奨励)
十七世紀後半の貞享
検地帳
では領内の漆の総数は三二万七〇〇〇本であるのに対し、文化二年(一八〇五)の「御郡中漆之覚
資料編2(近世編1)
(【解説】)
また、貞享の
検地帳
は、弘前市域の農村を掲げたが、分量が膨大であることから、帳尻の数値を表化して掲載した
通史編2(近世1)
(改革推進体制の構築)
田畑の収納高調査については、同四年一月二十七日に反別帳・貞享
検地帳
・取ケ帳などの回収指示が出され、また
通史編3(近世2)
(藩政後期)
享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」(資料近世2No.三九九)は、「貞享
検地帳
」、正徳の「寺社領分限帳
資料編3(近世編2)
(【解説】)
の「寺社領分限帳」は、正徳元年(一七一一)の「御改元帳」を引き継ぐものであり、貞享四年(一六八七)の
検地帳
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