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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
四 城館の
構
造 推定復元される乳井茶臼館の縄張りを示したのが図47である。,Ⅱ)を含めて城館の
構
造を考えることにした。,平場⑧を過ぎると、d地点を通って、平場⑩に入り、さらに遺
構
e・遺
構
fへと進む。,その数メートル先に遺
構
i、さらに先に遺
構
jがある。,茶臼館西側の斜面には、小さな道路(遺
構
p)がある。 / 四 城館の
構
造
通史編3(近世2)
(町家の遺構)
町家の遺
構
石場家(いしばけ)住宅(重文)は、外堀を隔てて弘前城の北門(きたもん)(亀甲門)の真向かいにある,全体的に木柄が太く、
構
えも大規模で、改造が加えられてはいるが、近世後期の数少ない商家の遺
構
として貴重である,石場家は、黒石の豪商高橋家(たかはしけ)住宅(現黒石市中町、重要文化財)とともに現存する町屋の遺
構
の双璧 / 町家の遺
構
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
四 城館の
構
造 大浦城跡は、慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」(弘前市立図書館蔵八木橋文庫,曲輪Ⅱ(二の丸)跡には、津軽中学校の校舎やグランドが建設され、遺
構
の破壊が著しい。,曲輪の北側と南側には土塁や堀跡といった遺
構
が存在していたはずだが、ここも同じく破壊され、遺
構
は残っていない,また遺
構
eとした部分で堀h2と堀h4は断ち切られており、一種の通路になっていた。,以上のように、最終段階の大浦城は六つの曲輪から
構
成されていた。 / 四 城館の
構
造
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
四 城館の
構
造 石川城には「石川十三館」と呼ばれる多数の曲輪(郭)が存在するが、図5に示したように、,区切られた武者溜状の遺
構
bなどの防御施設が設けているからである。,また、Cに向かう途中には、小テラスが段状に設けられた遺
構
cや、縦堀に似た遺
構
dなど、複雑な遺
構
が見られる,、虎口Dの「横矢がかり」と合わせ、非常に注目すべき遺
構
である。,茂兵衛殿館は簡単な造りで、防御遺
構
は見られない。 / 四 城館の
構
造
資料編1(考古編)
(-鍛冶場遺構-)
-鍛冶場遺
構
- 次に、鍛冶段階の遺
構
について触れる。,これまで、津軽地方において専用の鍛冶場遺
構
として検出されているものは、杢沢遺跡の3例のほかに山元(2),杢沢遺跡の例でこの
構
造を見ると、一辺が2m~2.5mの方形の竪穴
構
造で上屋を持つが、一般住居で普遍的に,図28 杢沢遺跡鍛冶遺
構
と出土遺物 / -鍛冶場遺
構
-
資料編1(古代・中世編)
(四 城館の構造)
四 城館の
構
造 慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」には、「堀越古城」として、,さらに、現在残る遺
構
や、分限図・航空写真・古絵図を参照して考えれば、堀越城の縄張りはこの四つの曲輪にとどまらず,この
構
築技術の普及は、津軽地方では戦国時代に入ってからとのことである」という。,また曲輪ⅡCの南側の「折り」の部分からは、土留め遺
構
も検出された。,や枡形虎口などで曲輪の出入口を立派に
構
築している。 / 四 城館の
構
造
通史編2(近世1)
(堀越城の構造)
堀越城の
構
造 堀越城跡は、弘前市街から旧国道七号を通って石川に至るほぼ中間、市内堀越字川合・柏田にある,取り囲む形で複数の曲輪が配置され、城の中心部に達するにはいくつもの曲輪や虎口を通過しなければならない
構
造,また、防御遺
構
をみると、幅の広い水堀を設け、敵を多方向から攻撃できる「横矢(よこや)がかり」などの工夫,がなされ、さらに食い違い虎口や桝形虎口などで曲輪の出入り口を堅固に
構
築している。,堀、外周を前川や水濠によって囲まれた曲輪であり、大浦城は「城―町曲輪―町」という戦国期城下町に特有の
構
造 / 堀越城の
構
造
通史編1(自然・原始)
(四 地質構造)
四 地質
構
造 ここでは温泉の掘さく深度と泉質組成の分布に基づいて、津軽平野の地下に伏在する断層系について / 四 地質
構
造
資料編1(古代・中世編)
((3)城館の構造)
(3)城館の
構
造 坂本館は、東の「古館」、西の「新館」の二つで
構
成されていたと言われるが、古館の規模,曲輪Ⅲの東側には遺
構
d(土橋?)があり、dを通って曲輪Ⅱに入る。,平場⑤には現在土塁状の遺
構
hが見られるが、城館に伴う遺
構
かどうか判断が難しい。,遺
構
cから曲輪Ⅲに入る通路は確認できない。,曲輪Ⅰの中にある遺
構
k・lのように、何のための施設か判断が難しく、建設途中で放棄した遺
構
ではないかと思 / (3)城館の
構
造
通史編2(近世1)
(支配機構の整備)
支配機
構
の整備 寛文二年(一六六二)九月二十二日、津軽信英が弘前城内で死去した。,行政・軍事両面から支えていく「役方(やくかた)」(藩の行政執行機関)、「番方(ばんかた)」(藩の軍事機
構
),が徐々に確立していった時期である(福井敏隆「津軽藩における支配機
構
の一考察―天和・貞享・元禄期を中心として,から四番組を
構
成する組士に限定された。,また組によって本参のみ、新参のみという制限がなくなり、各組を
構
成する藩士は入り交じっている。 / 支配機
構
の整備
通史編3(近世2)
(戸口と住民構成)
戸口と住民
構
成 江戸時代前期における弘前城下の人口や住民
構
成は、武家人口についての記録がなくはっきりしたことはわからない,江戸時代後期における弘前城下の人口と住民
構
成は、明和年間(一七六四~一七七一)ころに作成されたと思われる / 戸口と住民
構
成
資料編1(考古編)
((2)集石・配石遺構)
(2)集石・配石遺
構
石を利用して造られた遺
構
には、石棺墓のほかに、集石・配石などと言われる遺
構
もあり,集石・配石遺
構
は、土壙墓の上部を多数の石で覆ったもの、火を焚いた炉跡としての性格を持つもの、何かの施設,大湯と小牧野遺跡を参考にすると、前者は野中堂と万座の2地区に分かれており、両地区とも内帯と外帯の二重
構
造,一方の万座地区は、外帯が43、内帯は4のブロックで
構
成され、こちらは、外帯に接して日時計と呼ばれる集石,これらの遺
構
については、祭祀場説が濃厚である。 / (2)集石・配石遺
構
資料編1(古代・中世編)
((3)城館の構造)
(3)城館の
構
造 国吉館は曲輪が一つだけの、いわゆる「単郭」の城館であるが、虎口の位置や地割の在り方,としては比較的単純な造りで、戦争に備えた城郭ではなく、領主が日常居住する平時の居館であったことは、こうした
構
造,ではもう一つ、館跡の北西側に、堀跡h4を挟んで「武者溜」(出撃や防衛のために兵を詰めておく場所)状の遺
構
c,現時点では調査不十分だが、国吉館跡北側の丘陵上部に城館跡らしき遺
構
があり、「山伏館」と呼ばれていることから,、背後の丘陵に戦闘時に立てこもる山城(詰の城)があり、その山城との連絡通路を兼ねた遺
構
とも考えられる。 / (3)城館の
構
造
通史編2(近世1)
(家臣団構成)
家臣団
構
成 現在、津軽黒石藩の分限帳としては、明暦二年(一六五六)、享保二年(一七一七)、寛延三年( / 家臣団
構
成
通史編5(近・現代2)
(商業構成の変化)
商業
構
成の変化 高度経済成長期の青森県内の主要都市の商業
構
成の変化を見るために、昭和三十五年(一九六,弘前市) 前掲『弘前市における商工業の現状と将来』 昭和四十一年(一九六六)の弘前市の商業
構
成 / 商業
構
成の変化
通史編3(近世2)
(農家の遺構)
農家の遺
構
一般農民の家屋は、狭い建坪に田の字型の間取りに土間(どま)と馬屋がついているのが基本型である / 農家の遺
構
通史編1(古代・中世)
(北畠親房の政権構想)
北畠親房の政権
構
想 後醍醐(ごだいご)天皇(写真152)は、正慶二年(元弘三年、一三三三)六月、北条氏滅亡,としていたと一般には考えられているが、後醍醐のブレーンであった北畠親房はもう少し柔軟な意見をもっており、幕府機
構
の,そのために陸奥国府を「奥州小幕府」的な機
構
に再建していった。 ,それは北畠氏が、かつてこの地を独占的に支配していた北条氏の権力
構
造をそのまま継承・発展させようとしていたことによるものとも / 北畠親房の政権
構
想
通史編2(近世1)
(大浦城の構造)
大浦城の
構
造 大浦城を含む中世の当地城は鼻和郡大浦郷に属し、津軽平野西部の岩木山麓に位置することから,・拡張されたが、最終段階では本丸・二の丸・三の丸・西の丸・西の郭・南郭の六つの曲輪(くるわ)によって
構
成 / 大浦城の
構
造
資料編1(古代・中世編)
((1)立地と遺構の現状)
(1)立地と遺
構
の現状 坂本館跡は、弘前市館後字新田、館後集落の東方二〇〇メートルに位置し、割山南西山麓,東に古館、西に新館の二つの館からなり、古館は南北三つの曲輪から
構
成される。,現在、館跡は大部分がリンゴ園として利用されており、そのため段築があっても、城館の遺
構
なのか、リンゴ園を / (1)立地と遺
構
の現状
通史編1(古代・中世)
(環壕集落の構造と年代)
環壕集落の
構
造と年代 九世紀代に発達をみる津軽地方を中心とする東北地方北部の農耕文化は、一〇世紀代には,主要とみられる数軒の竪穴を空堀・土塁・柵列などの施設で区画して、その後背地に集落の主体部分を配置する
構
造,のものと、空堀・土塁などの施設で集落全体を囲む
構
造のものと、二つのタイプがあり、前者は上北地方に特徴的,にみられ、後者は津軽地方で特徴的にみられるが、規模は
構
造的にみても後者が圧倒的に大きい。,環壕集落の特徴として、鉄生産に関わる遺
構
や遺物、そして擦文土器の出土が目立つという点から推(お)して、 / 環壕集落の
構
造と年代
通史編3(近世2)
(門の構造と屋根の材料)
門の
構
造と屋根の材料 門の
構
造については記録がなく不明といってよいが、前掲「御家中屋鋪建家図」(資料近世,図100.薬医門 図101.冠木門 次に屋根を葺いた材料については、門の
構
造と同様に / 門の
構
造と屋根の材料
通史編3(近世2)
(家屋の規模と構造)
家屋の規模と
構
造 津軽弘前藩の平野部にある農村の屋敷地の面積は、貞享四年(一六八七)の五所川原村(現五所川原市,また家屋の内部はみえないが、
構
造は田の字型の間取りに土間と馬屋がついたものであったろう。 / 家屋の規模と
構
造
通史編1(自然・原始)
(立構山で観察される火道の断面)
立
構
山で観察される火道の断面 このような水中に生じた噴火活動の様子は、大鰐町の宿川原(しゅくがわら),や元長峰(もとながみね)北方の採石場、そして立
構
(たてかまえ)山の採石場で実際に目にすることができる。,採石場は、ちょうど立
構
山の断面がみられるようになっている(写真62a)。,立
構
山の噴火の様子は次のようなものであったろう。,写真62a 弘前市と相馬村の境にある立
構
山の採石場。 / 立
構
山で観察される火道の断面
通史編3(近世2)
(信明の学校構想)
信明の学校
構
想 藩校創設の機運は好学の八代藩主信明(のぶはる)の治世から高まってきた。,一時二本松丹羽侯に招かれ国政参与の機会もあったが、妬まれて江戸に帰り、上野池ノ端に私塾を
構
えた。,風俗を正し、英才を教育するために「学館」を設けるべきことを説いているが、こういった考え方が信明の学問所
構
想,このような関係からして、信明の学校
構
想の思想的背景として、先の灊水の教えや、重賢・定信を通して学んだ徂徠学的 / 信明の学校
構
想
資料編1(古代・中世編)
((1)立地と遺構の現状)
(1)立地と遺
構
の現状 国吉館跡は、弘前市国吉字坂本、国吉集落の北に隣接する小丘上にある。,国吉が東目屋盆地の中心集落であること、館が国吉集落に隣接して
構
えられ、平時の居館にもなる立地であることから / (1)立地と遺
構
の現状
資料編1(考古編)
(-鉄生産遺構と製鉄炉の性格-)
-鉄生産遺
構
と製鉄炉の性格- 鉄生産のうち、最も基本となる製鋼の方法には、鉄原料(砂鉄・鉄鉱石)を、,当然ながら、この二種類の炉には
構
造上の違いも指摘されることとなった。,鉄生産遺
構
とする場合には、この製・精錬遺
構
(製鉄炉)を指す場合が多いが、実際鉄生産遺跡には製鉄炉のほか,これらも、本来的には鉄生産遺
構
と見なすことが必要である。,このような
構
造を持つものは、米代川流域の寒川Ⅱ遺跡(能代市)や大平遺跡(昭和町)でも認められている。 / -鉄生産遺
構
と製鉄炉の性格-
通史編3(近世2)
((一)治安機構と共同体規制)
(一)治安機
構
と共同体規制 四代藩主津軽信政(のぶまさ)の治政下、元禄八年(一六九五)の大飢饉を契機,藩では城下の形成とともに、犯罪の防止、災害の予防、風紀の乱れの粛正など、治安機
構
の整備と共同体規制が強化 / (一)治安機
構
と共同体規制
通史編2(近世1)
(改革推進体制の構築)
改革推進体制の
構
築 さて、右の課題を解決するため、家老津軽主水、用人毛内有右衛門、勘定奉行乳井市郎左衛門,いわゆる機
構
改革であり、役所の無駄を省きながら、改革推進のための中心的な役割を果たす役所・組織を新設した,べたような、御調方役所の設置による行政組織の再編成と、元司職乳井貢への権限集中による強力な政策推進体制の
構
築 / 改革推進体制の
構
築
通史編2(近世1)
(地方支配機構の確立)
地方支配機
構
の確立 前期の津軽弘前藩の地方支配の体制は、代官がその要となっていた(以下は、浪川前掲「,代官所の機
構
は、無縁手代(むえんてだい)一八人・同小遣(こづかい)二四人・同三口一五人、別に御百姓手代二九人 / 地方支配機
構
の確立
通史編4(近・現代1)
(市税の構造)
市税の
構
造 表22は、市税の弘前市歳入に占める位置を見るために、弘前市の予算を明治二十二年以後五年間隔,これによれば、市の歳入に占める市税の
構
成比は、明治期から大正期にかけてしだいに減少していることが分かる / 市税の
構
造
資料編2(近世編1)
(第一節 領内支配と支配機構の整備)
第一節 領内支配と支配機
構
の整備 一 領内支配に関する法令 二 役職の整備 三 軍役の整備 四 / 第一節 領内支配と支配機
構
の整備
資料編1(古代・中世編)
(五 堀越城下(都市としての堀越)の構造)
五 堀越城下(都市としての堀越)の
構
造 堀越城の在り方を考える際、重要な問題として城と町場のかかわりがある,これまでの中世都市研究によって、戦国時代の城下町においては、一般に、①城郭、②「町曲輪」「町
構
」「外
構
,」「宿城」などと呼ばれる城郭の一部に取り込まれた町並み地域、③その外側の「町」「宿」の地域、の三重
構
造,を取っていたことが明らかにされているが、以上から復元される堀越城下町もまた、明確にそうした
構
造を持っていたことが,羽州街道に沿って街村状をなす「両側町」の形態であること、②城-町曲輪-町という、戦国期城下町に特有の
構
造 / 五 堀越城下(都市としての堀越)の
構
造
通史編2(近世1)
(三 貞享検地と地方支配機構の確立)
三 貞享検地と地方支配機
構
の確立 津軽弘前藩は、貞享元年(一六八四)から貞享総検地に着手するとともに / 三 貞享検地と地方支配機
構
の確立
通史編2(近世1)
(中期農政と農村構造の変化)
中期農政と農村
構
造の変化 元禄の大飢饉を機に津軽弘前藩の前期農政が転換を迫られ、中期農政へと移っていく / 中期農政と農村
構
造の変化
通史編2(近世1)
(領内海防と台場の構築)
領内海防と台場の
構
築 津軽弘前藩は、蝦夷地警衛などに当たった実績と、その影響によって、同様の境遇にあった / 領内海防と台場の
構
築
資料編1(古代・中世編)
(五 大浦城と「城下」の構造)
五 大浦城と「城下」の
構
造 大浦城は戦国大名大浦氏の居城であり、天正十八年(一五九〇)~文禄三年(一五九四 / 五 大浦城と「城下」の
構
造
資料編1(考古編)
(-各窯跡の構造と出土須恵器の概要-)
-各窯跡の
構
造と出土須恵器の概要- 〔砂田B-1号窯〕 半地下式無階無段登窯。,D-2窯は灰原のみの調査であるため、窯
構
造の特徴については明らかでない。 / -各窯跡の
構
造と出土須恵器の概要-
通史編1(自然・原始)
(一 平野の地下地質の評価法)
一 平野の地下地質の評価法 丘陵や山地を
構
成する地質は、河床や崖に露出する地層から得られる岩相や地質
構
造,、また地形から読みとれるリニアメント(線
構
造)などから詳細に把握できる。,これに対し、私たちの多くが生活する平野を
構
成する地質は、露頭として地表で確認できるものは表層部を
構
成する,したがって、平野を
構
成する地質を把握する手法には、①丘陵や山地に分布する地層の走向・傾斜等の地質
構
造から,地質の区分・地質
構
造の検討を行うことにした。
通史編1(自然・原始)
(縄文集落)
秋田県鹿角(かづの)市の高屋館(たかやだて)遺跡は、後期前葉の十腰内Ⅰ群(式)土器期の各遺
構
が、配石遺
構
,けられ、それを取り巻いて墓壙、フラスコ状ピットなどの土坑、掘立柱建物に関連の柱穴、竪穴住居などの各遺
構
が,これに対し三内丸山遺跡は外見すると異なる
構
造に思われるが、各遺
構
の配列は「北の谷」の南を東西の方向に並,んだ高床式掘立柱建物群を中心にして、住居の配列が円形の
構
造を示しているように考えられる。,このように縄文集落の
構
造は、中期と後期において円形(環状)を基本にした計画のもとに造成されたのであろう
資料編1(考古編)
(6.独狐遺跡)
(4)遺
構
・遺物の概要 2次にわたる発掘調査の結果、平安時代では竪穴住居跡・土壙・溝状遺
構
、中世では,掘立柱建物跡・竪穴遺
構
・井戸跡・段状遺
構
の各遺
構
が検出されている。 ,平安時代の遺
構
は、竪穴住居跡が1軒検出されているが、これは一辺が5m前後のもので、全体の3分の1しか精査,また、この時期の土壙や溝跡あるいは遺
構
外の出土遺物には、10世紀後半~11世紀代の土師器甕・坏・須恵器甕,12世紀後半の遺
構
は、掘立柱建物跡の一部や溝跡、あるいは竪穴遺
構
の一部があるものと考えられるが、遺
構
内
資料編1(古代・中世編)
(二 各城館の位置)
現地に行ってみると、東目屋盆地の入口、割山から南に伸びる尾根の先端を、空堀で掘り切った遺
構
が存在していた,したがって、この遺
構
が城館跡であるのか、街道の要所を押さえる関所のような施設なのかについては、結論が出,②坂本館跡(坂本古館・新館跡) すべての研究が紹介し、現地には明瞭な遺
構
が存在している。,④国吉館跡 すべての研究が紹介し、現地には明瞭な遺
構
が存在している。,また遺
構
はあるが城館としてとらえてよいのか疑問なものが高野館・番館である。
資料編1(考古編)
(5.荼毘館遺跡)
この台地は、岩木山の墳出物により
構
成された火山性台地で、岩木山麓一帯に広く発達しているものの一部である,なかでも、平安時代後期(10世紀後葉~12世紀前葉)の遺
構
・遺物が主体を占める。,〔縄文時代〕 遺
構
は認められず、少量の土器・石器・土製品が散見するにすぎない。,検出された遺
構
は、竪穴住居跡30軒、掘立柱建物跡15棟、井戸跡6基、土壙94基、焼土遺
構
19基、溝状遺
構
,ほかに、調査区外に伸びるため、規模、
構
造が不明なものが3棟ある。
通史編5(近・現代2)
(新弘前市総合開発計画(昭和五十九年計画)の策定)
弘前市総合開発審議会は、昭和五十九年(一九八四)一月に、福士市長に対し、新弘前市総合開発計画の基本
構
想,津軽定住圏は、弘前・黒石・五所川原の三市と西津軽・中津軽・南津軽の三郡の一二町一三村で
構
成され、弘前市,を策定して総合的な開発の施策体系を
構
築した。,、また、同
構
想における弘前市の比重を高めるものであって、産業開発の方向、学園都市の
構
想、文化施設拡充の,計画、都市づくりの
構
想等、総合開発計画の推進は、県の
構
想による津軽地域開発の一翼をも担うこととなるものである
資料編1(考古編)
(4.中崎館遺跡)
なお、本遺跡においては、該期に属する遺
構
は不明である。,〔平安時代末期〕 検出された遺
構
は、掘立柱建物跡43棟・竪穴遺
構
2基・焼土遺
構
5基・井戸跡8基・土壙12,②竪穴遺
構
2棟検出されたうち、ST01が完掘されている。,⑥出土遺物 平安時代末期(12世紀後半)の遺物が、各種遺
構
及び遺
構
外から出土している。,第Ⅲ期は、SD08堀によってⅢ郭が
構
成される段階である。
通史編1(自然・原始)
(環状列石)
近畿地方にまで広がりをみせるが、分布は北海道と東北北部に多く(79)、したがって北方文化を特色づける遺
構
遺跡,こまきの)遺跡(後期・十腰内Ⅰ群〈式〉土器期)など五遺跡であり、発掘調査の手が加わっていないが、類似遺
構
を,弘前市・大森勝山遺跡で検出された環状列石 これらの遺
構
は、いわば多数の石を円形に配した石の集合体,であり、数個ないし数十個の石を一つの単位とする集石の配列によって
構
成され、なかには立石を伴うものもある,相互間を数段にわたって横石を積み上げた組石(特殊な組み方のため小牧野式組石ともいわれる)など、組石の
構
造
資料編1(考古編)
((1)石棺墓)
(1)石棺墓 この遺
構
は、扁平な石材を用いて箱状のものを作り、その内部に遺体を埋葬し蓋石で覆い隠蔽したものをいう,次世界大戦以前はともかく、戦後数年を経てから注目され、中から人骨や歯などが発見されるようになり、当該遺
構
の,この遺
構
は、長方形に扁平な石を組み合わせ、蓋石が乗っていたといわれる。,本県では、昭和42年(1967)9月、青森市久栗坂の山野峠において、6基の積石をした当該遺
構
が江坂輝彌,なお、当該遺
構
の時期は、伴出した甕棺により十腰内Ⅰ群(式)土器期とされている。
資料編1(考古編)
(7.小友遺跡)
(4)遺
構
・遺物の概要 調査の結果、縄文時代・弥生時代・平安時代後期の遺
構
・遺物が発見されている。,〔平安時代〕 堀跡・溝跡・柱穴列・井戸跡・鍛冶遺
構
等の各遺
構
と、土師器・須恵器・擦文土器・鉄製品・羽口,形成した建物跡で、中央部に白色粘土と切石を用いた鍛冶炉を持つ遺
構
である。 ,各遺
構
及び遺
構
外から出土した平安時代の土器には、土師器では坏・甕・把手付土器・小型土器、須恵器では坏・,発見された主体的な遺
構
内外の遺物は、全て平安時代に属するものだけである。
資料編1(考古編)
(3.石川長者森遺跡)
このうち、1号遺
構
は外径約3m、内径約2.2m、深さ約5cmの周溝である。,2号遺
構
は、円形周溝の約半分しか検出していないが、規模は1号遺
構
とほぼ類似する。,3号遺
構
は全体の約3分の1の検出であり、全体的な規模は不明である。,遺
構
内及び周辺から出土遺物もなく、
構
築時期及び性格等の詳細は不明であるが、本周溝は東北地方北部から北海道道央部,にかけて、7世紀~9世紀前半期に築かれた終末期古墳群に類する
構
造を持つ。
資料編1(古代・中世編)
(一 はじめに)
一 はじめに 本章は、弘前市内とその周辺にある主な中世城館跡を取り上げ、遺
構
の現状と過去、及び
構
造や,そうしたなかで、中村良之進や沼舘愛三は、この地域の城郭遺
構
を実測し、図面化して、城郭の
構
造を分析する作業,堀・土塁・切岸などによって仕切られた一区画)など城の防御遺
構
を把握。,それをもとに城郭の詳細な平面図=「縄張り図」を作成し、この図から城の
構
造や機能を読み取るという作業が行,本章は、以上述べた近年の研究状況を踏まえて
構
想された。
資料編3(近世編2)
(●誓願寺 山門 新町--重要文化財)
四脚門のような柱配置を取りながらも、切妻造柿葺の屋根に招破風を付け加えて重層とし、しかも妻入という珍しい
構
造形式,全体に彩色がなされ、十二支の絵も描かれ、懸魚に鶴や亀の彫刻が用いられている珍しい
構
造で「鶴亀門」とも通称,この門の建立年代は、その
構
造形式からすると江戸時代中期のものと推定されるが、下層の蟇股などの形式は室町期
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