• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 13件
辞書ファセット
/ 1ページ
通史編3(近世2) (橋雲寺)

橋雲寺 橋雲寺(きょううんじ)(現中津軽郡岩木町)は愛宕権現宮の別当であった。,慶長六年(一六〇一)、為信が京都の愛宕山より勝軍地蔵を浅瀬石村(現黒石市)に勧請して橋雲寺を別当とし、,明治四年(一八七一)、本尊が勝軍地蔵のため神号を止めて鳥居を除くこととして、橋雲寺は存続した。,村民は高原(現市内細越)に愛宕神社をつくり、植田・細越両村の鎮守としたが、橋雲寺は愛宕山頂の奥院を愛宕神社 / 橋雲寺
資料編3(近世編2) (●橋雲寺 愛宕堂 岩木町大字植田字山下)

●橋雲寺 愛宕堂 岩木町大字植田字山下 この愛宕堂の建築年代を示す資料は無いようであるが、構造形式や,図18 橋雲寺愛宕堂平面図 / ●橋雲寺 愛宕堂 岩木町大字植田字山下
通史編3(近世2) (大社の神仏分離)

(ほそごえ))は、本尊が勝軍地蔵尊(しょうぐんじぞうそん)であったため神号をやめて鳥居を除去し、別当橋雲寺,(現橋雲寺、中津軽郡岩木町植田)はそのまま寺院として存続することとなった。,図78.愛宕山橋雲寺お札  岩木三所大権現(現中津軽郡岩木町)は、百沢寺(ひゃくたくじ)が別当を
通史編3(近世2) (真言宗)

図194.真言宗本末関係図  藩では、最勝院・百沢寺・国上寺・橋雲寺・久渡寺を津軽における真言宗
通史編3(近世2) (一代本尊)

虚空蔵菩薩 百沢の虚空蔵(求聞寺) 卯 文殊菩薩 兼平の天満宮→天満宮(弘前) 辰・巳 普賢菩薩 愛宕様(橋雲寺
通史編3(近世2) (大行院)

明治三年(一八七〇)、神仏分離により、修験は橋雲寺から移された天満宮の祠掌となった。
通史編2(近世1) (由緒書から)

また、この嘉右衛門は、越前三国(みくに)の瀧谷寺(たきだんじ)の高僧を津軽に招き、橋雲寺(きょううんじ
通史編4(近・現代1) (行在所金木屋)

至って没落し、弘前の実業界から姿を消していったが、この行在所の建物は、中津軽郡岩木町大字植田の愛宕山橋雲寺
通史編3(近世2) (江戸時代後期の建築)

橋雲寺(きょううんじ)は愛宕様とも呼ばれて一般に親しまれており、愛宕山勝寿院(しょうじゅいん)とも称したという
通史編3(近世2) (二代信枚)

五山は真言宗最勝院、百沢寺(ひゃくたくじ)、国上寺(こくじょうじ)(現南津軽郡碇ヶ関村)、橋雲寺(きょううんじ
通史編3(近世2) (金木屋の生活)

その後、私は老人の道益を誘い、酒・肴を持参して愛宕山(あたごやま)の橋雲寺(きょううんじ)(現中津軽郡岩木町,十九日、今日午前十時過ぎ、正阿弥の兄悴が、江戸から帰ってきた〓兄と〓良七・熊七を連れて愛宕(あたご)(橋雲寺
通史編1(古代・中世) (一 古代における北奥の宗教世界)

を開基 国上寺(真言宗) 付近に田村麻呂建立の森山毘沙堂あり (4) 勝軍地蔵堂 慶長六年 為信公 橋雲寺,真言五山寺 初め、大浦種里村にあり (3) 国上寺 同右 不詳 僧円智の創立とも 真言五山寺 (4) 橋雲寺
通史編3(近世2) (城下での生活)

二十六日、今朝、国上寺(こくじょうじ)(現南津軽郡碇ヶ関村)・橋雲寺(きょううんじ)(現中津軽郡岩木町
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました