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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) ((一)治安機構と共同体規制)

そのため城下では多くの武家屋敷に空家を生じ、城郭内の武家屋敷に住んでいた家臣はそちらへ移転した。
通史編3(近世2) ((三)住居)

武家屋敷には冠木(かぶき)門があり、そこが入口である。,右の城内にあった武家屋敷は、元禄九(一六九六)から十二年にかけて城外に移転させられ、さらに宝永二年(一七,〇五)には残っていた屋敷が移り、武家屋敷の郭外移転は終了したのである。
通史編3(近世2) (宝暦期の城下)

元禄九年(一六九六)から同十二年にかけて武家屋敷の城外移転が進んだ。,その結果、城下の武家屋敷に大量の空き屋敷が生じ、城内の家臣たちがこれらの空き屋敷に移住を命じられたのである,その後、宝永二年(一七〇五)にも三の丸の武家屋敷が城外に移転させられ、同六年にも小規模の屋敷替えがあり,元禄と宝永の二度にわたる武家屋敷の城外移転により、城東地区に下級武士を中心とする新たな侍町が形成されたのである
通史編3(近世2) (門の構造と屋根の材料)

当時の格式とから考え合わせると、冠木(かぶき)門形式のものと解しておくのが妥当である(『弘前の町並―武家屋敷,して土がわらよりは優れ、防火上では、藁葺よりは優ることなどから使用されたものである(前掲『弘前の町並―武家屋敷
通史編5(近・現代2) (見直したい弘前市の記録)

百石町展示館 写真234 三上ビル  一方、弘前城跡の北方、亀甲門から出ると、数々の武家屋敷,昭和五十三年に史跡指定されているが、在府町にあった武家屋敷の旧梅田家、元寺町にあった藩医の旧伊東家も移築,これと隣接する近世江戸期の商家だった石場家住宅、昭和五十六年(一九八一)に市に寄贈された武家屋敷の旧岩川家
通史編3(近世2) (戸口と住民構成)

正保城絵図の下図と思われる寛永末年の「津軽弘前城之絵図」(弘前市立博物館蔵)によれば、城下の武家屋敷(
通史編3(近世2) (火災)

焼失家屋の内訳は大家二二七軒、借家一七〇軒、土蔵五七棟、武家屋敷一二軒の大規模な火災であった(『津軽史事典
通史編2(近世1) (改革の終焉と成果)

弘前城下における町屋敷調査の結果は「宝暦六年弘前町惣屋鋪改大帳」に、武家屋敷は「宝暦五年御家中屋鋪改大帳
通史編3(近世2) ((二)年中行事と生活)

日本都市生活史料集成』五 一九七六年 学習研究社刊)などによって、そのあらましを左に示すことにする(『弘前の町並―武家屋敷
通史編2(近世1) (城下弘前の変化)

その後、宝永二年(一七〇五)三月から、残っていた三の丸の武家屋敷移転が開始され、同四年に本格的移転が行
通史編2(近世1) (土着策と弘前城下)

武家屋敷が城東を中心に縮小され、下級家臣が城下のあちらこちらに居住している状況では、従来の整然とした町割
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