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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編1(自然・原始)
(水田跡の発見・垂柳遺跡)
水田跡
の発見・垂柳遺跡 昭和五十六年(一九八一)に至り、交通体系の変化に伴う国道一〇二号バイパス建設,工事に先立つ事前の試掘調査の結果、一〇枚に及ぶ田舎館式土器期の
水田跡
が発見され、翌年から二ヵ年にわたる,発掘調査を県の教育委員会と垂柳遺跡調査会が実施し、六五六枚にのぼる
水田跡
を発見したのである。,またこれら
水田跡
に伴って農作業のための大畦(あぜ)や、給排水のための用水路なども発見されている。,田舎館村・垂柳遺跡で発見された
水田跡
/
水田跡
の発見・垂柳遺跡
通史編1(自然・原始)
(砂沢遺跡)
水田跡
は六枚発見されている。,発見順序にしたがって一号から六号まで区分しているが、完掘できた
水田跡
は二号
水田跡
のみで平面プランは不整,表22 砂沢遺跡発見 弥生時代
水田跡
一覧表
水田跡
大きさ(m) 面積 (m2) 長軸 方向 傾斜,我々は当該
水田跡
発見の当初、溜池の築造前に造成された、江戸時代の
水田跡
ではなかろうかと推定していたが、,弘前市・砂沢遺跡の完掘した2号
水田跡
垂柳ならびに砂沢遺跡の
水田跡
発見により、東北北部の地でも
資料編1(考古編)
(4.垂柳遺跡)
4.垂柳遺跡 砂沢遺跡の
水田跡
発見をさかのぼる6年前の昭和56年(1981)に、国道102号のバイパス,建設に伴う事前の試掘調査で、田舎館村垂柳地区から
水田跡
10枚が発見され、翌年から2か年にわたりバイパス,予定地内の発掘が行われ、計656枚にのぼる
水田跡
を検出した*155。,ただし、
水田跡
の発見数に相当の開きがあり、両遺跡を比較するのは難しい。,表13 砂沢遺跡発見 弥生時代
水田跡
一覧表
水田跡
大きさ m 面積m2 (復元面積) 長軸方向 傾斜方向
資料編1(考古編)
(8.砂沢遺跡)
(4)遺構・遺物の概要 当遺跡は、弥生人の居住地と目される高台地区と
水田跡
の発見された低地帯に分けられ,順次低地帯へ移り、前述と同期の竪穴住居跡(2・3号住居跡)・水路状溝跡等を検出し、第4次では弥生時代前期の
水田跡
,を2枚発見して、さらに多くの存在を確かめるため第5次調査を実施し、計6枚の
水田跡
(図17・P474写真,石器(石鏃・石匙・磨製石斧)・石製品(凹石・石皿)及び土製品(土偶破片)等であり、高台地区から低地帯の
水田跡
,調査中の2号
水田跡
調査終了後の
水田跡
図18 砂沢遺跡出土土器(砂沢遺跡発掘調査報告書
資料編1(考古編)
(3.砂沢遺跡)
3.砂沢遺跡 弘前市教育委員会による昭和59年(1984)からの継続調査によって、6枚の
水田跡
を発見,砂沢遺跡の
水田跡
は、緩やかな傾斜面に客土して造成するというかなり高度な農地造成の技術を有しており、在地
資料編1(考古編)
(2.弥生時代の初期稲作について)
53年(1978)の福岡市板付遺跡における調査で、弥生初期の板付Ⅰ式土器が出土した土層のさらに下層から
水田跡
,が発見され、しかもその
水田跡
は、縄文時代晩期終末の夜臼(ゆうす)式土器に属する事が明らかになった。,佐賀県唐津市菜畑(なばたけ)遺跡において、板付遺跡よりもさらに古い縄文時代晩期後半の山ノ寺式土器期に相当する土層で
水田跡
通史編1(自然・原始)
(高杉面)
なお、砂沢溜池内の砂沢遺跡(一六~一八メートル)で検出された弥生時代の
水田跡
は舌状に張り出した中位段丘,
水田跡
は、谷底を埋積した駒木浮石流凝灰岩が稜線部まで埋積したために形成された平坦面にあって、
水田跡
下の
通史編1(自然・原始)
([口絵])
(大鰐町三ッ目内) 砂沢遺跡から検出された最北の
水田跡
台付浅鉢形土器(重要文化財
資料編1(考古編)
(1.時代区分と弥生土器の編年)
図21 弥生時代の遺跡・遺物 完掘りした2号
水田跡
…弘前市・砂沢遺跡 遠賀川系壺形土器…
通史編1(自然・原始)
(弥生文化の内容)
八戸市の是川堀田ならびに南郷村の松石橋遺跡などで出土しているが(7)、南部地方といわれる太平洋側では
水田跡
通史編1(自然・原始)
(平野南縁の地形区分)
なお、田舎館村の垂柳(たれやなぎ)遺跡から検出された弥生時代の
水田跡
は扇状地性低地に立地している。
資料編1(考古編)
(第2節 中世・近世の考古学研究略史)
また、弥生時代の
水田跡
を検出したことで著名な垂柳遺跡では、
水田跡
の上層から中世遺物が発見され*21、その
通史編1(自然・原始)
(発掘調査の成果)
⑤本県における弥生時代の土器編年確立と同時代の
水田跡
発見…この時代の土器編年については、橘善光が精力的,の南縁をかすめる国道一〇二号バイパス予定地の事前調査で、中期後半の田舎館式土器期に造成された一〇枚の
水田跡
,翌年調査会を組織して二ヵ年にわたる調査を行い、計六五六枚にのぼる
水田跡
が発掘され、伊東信雄と工藤正の弥生文化,弥生時代の
水田跡
は、その後の昭和六十二年(一九八七)に弘前市三和(みわ)にある砂沢遺跡で、当初二枚、その
資料編1(考古編)
(資料編1「考古編」掲載図・表・写真一覧)
ミズナラ類の加工工程 表11 押出遺跡出土クッキー状炭化物分析結果 表12 垂柳遺跡発見弥生時代
水田跡
一覧,表13 砂沢遺跡発見弥生時代
水田跡
一覧 表14 青森県における弥生時代の住居跡 表15 石棺墓,写真 砂沢遺跡発見住居跡(縄文後期) 図17 砂沢遺跡発見遺構図 写真 砂沢遺跡発見の弥生初期
水田跡
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