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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編2(近世1) (消極的な藩の救済策)

への対応は藩では行われず、組ごとに代官に任せ、重立(おもだち)より差し出させるように命令された」と『永宝日記,なぜなら打ち続く不作でお上に貯えもないからだ」と、『永宝日記』の筆者も諦めの境地である。,郡所(こおりしょ)の手代が村々へやってきて厳しく詮索し、田畑・家財道具まで売って納めさせたという(『永宝日記,天保十年は『永宝日記』によると、「午ノ年(天保五年)ノ宝(豊)作ニ増程ノ宝作」で、「天道ノ御助ト国中大悦,になっても、一部には登穂がなくて「大さわぎ」となり、米価も上昇したことから、他散する者が続出したという(『永宝日記
通史編2(近世1) (天明六年以降の飢饉)

、飯詰の辺りでは馬や犬を食べる者も出はじめ、二〇人・三〇人と集団で米持ちの者を襲う略奪も発生した(『永宝日記,図184.天保7年京都三条橋畔飢餓民の様子 図185.永宝日記  このような状況下で再,『永宝日記』ではさらに多く、十一月・十二月には四万人が逃散したと伝えているが、これはやや誇大であろう。,飢民が駕籠先に出て救済を求めたので、彼らを連れて帰国し、一人につき金一歩を与えて居村に帰らせている(『永宝日記
通史編2(近世1) (天保四年の飢饉)

前年の天保三年も天候不順で、前年比約二割減の不作だったが、『永宝日記』によれば、四年も春には雪消えが遅
通史編2(近世1) (穀物の流通統制)

藩庁は領内全体で一〇万俵の買い上げを目標にし(『永宝日記』)、さらに「御備籾」として、弘前に四万俵、在方,『永宝日記』の筆者の地元、種里村(現鰺ヶ沢町)にも三七八俵の割り当てがきたが、一〇俵も集まらなかったという
通史編2(近世1) (天保の飢饉の特徴)

津軽領の天保飢饉の様子を伝える『永宝日記』では、「天保四年凶作、同五年豊作、同六年半作、同七年不作、同九年
通史編2(近世1) (天保四年における藩の対応)

これにより米の相場も下がり、十二月には一俵当たり古米八〇匁・新米五〇匁に下落した(『永宝日記』)。
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