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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編1(自然・原始) (第三節 注および引用・参考文献)

および引用・参考文献 (1)安田喜憲 『環境考古学事始』 NHKブックス三六五 一九八〇年 (2)江坂輝彌,(8)相原淳一 「日計式土器群の成立と解体」『赤い本』 赤い本同人会創刊号 一九八二年 (9)江坂輝彌, 「青森県八戸市白浜遺跡」『日本考古学年報』四 一九五五年 (10)江坂輝彌 「青森県八戸市小舟渡平遺跡,」『日本考古学年報』四 一九五五年 (11)江坂輝彌 「青森県三戸郡館平遺跡」『日本考古学年報』七 ,小田野沢-下田代納屋B遺跡発掘調査報告書』(青森県立郷土館調査報告〈考古〉一) 一九七六年 (15)江坂輝彌
通史編1(自然・原始) (太平洋戦争終結後)

を得て、下北の田名部町(現むつ市)最花(さいばな)貝塚を同年十一月に発掘し、翌年の十月には慶応大学の江坂輝彌,また江坂輝彌は、六月から十一月にかけ、青森市をはじめ下北半島や上北郡下での遺跡の発掘を行い、おもに縄文時代早期,せの)遺跡について報告し(71)、同年十一月には中島全二が「下北における縄文文化の編年」を(72)、江坂輝彌,このほか、縄文時代に関するおもな調査は、下北の田名部町(現むつ市)にある女館貝塚が江坂輝彌により(82,さきに、江坂輝彌が縄文時代早期文化の解明に努力していたが、東京大学の佐藤達夫(さとうたつお)(一九二五
通史編1(自然・原始) (第一節 注および引用・参考文献)

年十二月 (49)喜田貞吉 「青森県出土洗骨入土器」『歴史地理』六三-六 一九三四年六月 (50)江坂輝彌,の分布」『青森県師範学校附属小学校初等教育研究会 国史研究二』 一九三四年十月 (61)直良信夫・江坂輝彌, 古いノートから-青森県下北半島最花貝塚の調査日誌より-」『石器時代』五 一九五八年九月   B 江坂輝彌,」『日本考古学年報』四 一九五五年十二月 (77)江坂輝彌 「日本始原文化の起源問題」『古代学』一-, 「青森県八戸市赤御堂貝塚」『日本考古学年報』九 一九六一年三月   B 江坂輝彌 「青森県三戸郡荒町遺跡
資料編1(考古編) (1.我が国における土器の出現)

2年後の昭和37年(1962)には、愛媛県上浮名郡美川村の上黒岩岩陰遺跡で、江坂輝彌により同様の隆線文土器
通史編1(自然・原始) (協力機関および協力者一覧(機関・個人順、五十音順))

弘前市立図書館 弘前市立博物館 弘前大学教育学部地学研究室 森田村歴史民俗資料館   江坂輝彌
資料編1(考古編) (〈注一覧…第2章〉)

 「青森県八戸市白浜遺跡」(日本考古学年報4) 1955年12月 *17 江坂輝彌 「青森県八戸市小舟渡平遺跡,」(日本考古学年報4) 1955年12月 *18 江坂輝彌 「青森県三戸郡館平遺跡」(日本考古学年報,7) 1958年3月 *19 江坂輝彌 「縄文文化の起源の研究」(史学29-2) 1956年8月,*44 山内清男 「斜行縄文に関する二・三の観察」(史前学雑誌2-3) 1930年3月 *45 江坂輝彌,月 *65 木内石亭 「青龍刀石」(雲根志三編巻之五 復刻築地書館) 1969年11月 *66 江坂輝彌
資料編1(考古編) (協力機関及び協力者一覧)

菊池徹夫 木村高 木村鉄次郎 木本元治 北林八洲晴 工藤竹久 工藤泰博 工藤雅樹 江坂輝彌
資料編1(考古編) (〈注及び参考文献一覧…第3章〉)

・桜井清彦・玉口時雄 「青森県森田村附近の遺跡調査概報(2次)」(古代10) 1953年 *15 江坂輝弥,*17 桜井清彦 「青森県十三村中島発見の土師器」(考古学雑誌40-1) 1954年 *18 江坂輝弥,1955年 *20 桜井清彦 「青森県相内村赤坂遺跡について」(古代17) 1955年 *21 江坂輝弥, 「青森県八戸市大字沢里鹿島沢古墳群踏査予報」(史想9) 1958年 *35 江坂輝弥 「奥羽地方北部,38 村越潔 「東北考古学会の動向-青森県の考古学の現状-」(東北考古学1) 1960年 *39 江坂輝弥
資料編1(考古編) ((2)縄文時代早期)

これらは、江坂輝彌により、貝殻腹縁文(かいがらふくえんもん)土器文化、または類似の土器を出土する北の北海道函館市,図3 縄文時代早期の土器(1) 白浜式尖底深鉢形土器… 八戸市・館平遺跡(江坂輝彌氏提供)
通史編1(自然・原始) (岩木山麓緊急遺跡発掘調査開始~現代)

当該年における学術調査は、江坂輝彌が担当者となって行われた名川町平虚空蔵貝塚(四~五月)、八戸市長七谷地貝塚,伊東信雄が担当者の田舎館村垂柳(十~十一月)などの遺跡であり(99)、一方の緊急調査は、名川町が主体で江坂輝彌
通史編1(自然・原始) (早期)

白浜式尖底深鉢形土器 八戸市・館平遺跡 (江坂輝彌氏提供)  一方、この貝殻文土器と相接して
資料編1(考古編) ((1)石棺墓)

本県では、昭和42年(1967)9月、青森市久栗坂の山野峠において、6基の積石をした当該遺構が江坂輝彌
資料編1(考古編) ((4)縄文時代中期)

によりa・bの2類に分類され*44、昭和31年(1956)の『日本考古学講座』3(河出書房)の中で、江坂輝彌
資料編1(考古編) ((1)石器と石製品の種類)

江坂輝彌が、かつて250例を集成し詳細に論述している*66。
資料編1(考古編) ((1)縄文時代の甕棺墓)

③…翌年5月に行われた慶応大学江坂輝彌らによる調査で、同遺跡から出土した人骨入り甕棺1個*236。
通史編1(自然・原始) (昭和時代)

なお当遺跡は、昭和四十二年(一九六七)九月に慶応大学の江坂輝彌(えさかてるや)による調査で、六基の積石塚状石棺墓,昭和十六年(一九四一)三月には、江坂輝彌と直良信夫(なおらのぶお)(一九〇二~一九八五)が、亀ヶ岡遺跡
資料編1(考古編) (2.縄文時代の住居跡)

この時期の住居跡は、昭和31年(1956)の夏、江坂輝彌と音喜多富寿が中心となって発掘し、2.30mの
資料編1(考古編) (第2節 中世・近世の考古学研究略史)

このように昭和30年代に入ると、弘前大学に赴任した村越潔や前述の桜井、並びに慶応大学の江坂輝弥を中心とした
資料編1(考古編) ((2)太平洋戦争後から現代まで)

昭和28年(1953)には、慶応義塾大学江坂輝弥による東通村稲崎遺跡*15*16、東京大学斎藤忠らによる
通史編1(自然・原始) (発掘調査の成果)

山内の記載はなく、この形式については昭和三十一年(一九五六)河出書房の『日本考古学講座』三の誌上で、江坂輝彌
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