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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

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通史編3(近世2) (江戸での買い物)

江戸での買い物 津軽弘前藩士小山氏が、慶応二年(一八六六)五月に弘前を出発、江戸へ登って江戸藩邸に勤務,この中から江戸滞在期間の慶応二年六月五日~翌年二月十一日までに、江戸で購入した品物と支払いの費用を記したものの,中で、記帳の頻度の多いものを中心にみていくと、江戸での生活はおおよそ左記のようになろう。,小山氏は上屋敷の長屋に居住し、勤務のとき以外は長屋での単調な生活を余儀なくされるわけだが、非番の時は江戸,これらは江戸から国元へのみやげであったと考えられる。 / 江戸での買い物
通史編2(近世1) (江戸市場への傾斜)

江戸市場への傾斜 安永期(一七七二~八一)と比べた場合、文化・文政期(一八〇四~三〇)の津軽弘前藩の,財政構造の大きな特徴は、江戸での支出が増大していることである。,江戸での米方支出は、安永六年の二万四五〇〇石に比較して四倍近い増加になっているが、逆に上方での支出は半減,この間に、同藩は上方市場に立脚した経済政策から、江戸市場を中心とした体制に転換した。,江戸での常用金も増加する傾向にあった。 / 江戸市場への傾斜
通史編3(近世2) (江戸勤番と生活)

江戸勤番と生活 江戸藩邸は基本的に上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三屋敷があり、上屋敷は藩主やその,現東京都台東区)に、下屋敷は浅草(あさくさ)(現東京都台東区)に置かれたが、時代が下るにつれて中・下両屋敷は江戸,図112.正徳5年(1715)柳原中屋敷の図  藩士は江戸藩邸において勤務しながら、どのような生活,本節四(三)参照)によれば、儀左衛門が延宝九年(一六八一)五月以降、天和二年(一六八二)五月二日まで江戸藩邸,藩主(四代津軽信政)が午前七時に江戸城へ参り、正午に帰る。   / 江戸勤番と生活
通史編2(近世1) (江戸での借財の増加)

江戸での借財の増加 上方での蔵元(くらもと)を勤めていた茨木屋(いばらぎや)・鴻池(こうのいけ)に対,し、江戸での蔵元を主に勤めていたのは津軽屋であった。,津軽屋は元々「米屋」を称する米問屋で、関東・奥州の諸国から民間の流通機構を経て江戸に回送されてくる米の,津軽屋はこの資金を江戸駿河町(するがちょう)の両替商の三井や幕府勘定所から借りて捻出した。,図189.債権放棄を伝える津軽屋三平の書状  江戸での蔵元の中には経営が破綻する者も現れた。 / 江戸での借財の増加
資料編3(近世編2) ((二)江戸における屋敷)

(二)江戸における屋敷 弘前藩は、江戸に多くの屋敷を構えていた。,その中で江戸においては、「上屋敷」から「中屋敷」、「下屋敷」があり、さらに浜屋敷や亀戸屋敷などの「御抱屋敷,弘前藩の江戸屋敷の移動については、『津軽史』第四巻において、上屋敷や中屋敷について詳しく述べられている / (二)江戸における屋敷
通史編2(近世1) (江戸時代初期の大名課役)

江戸時代初期の大名課役 江戸時代初期における大名に対する軍役動員の事例として、大坂の陣・島原の乱が挙,諸大名は江戸に参集した後、伊達政宗・上杉景勝らは独自編成、相馬利胤(そうまとしたね)・南部利直・秋田実季,信枚は十一月二十五日大坂住吉に到着して徳川家康に拝謁したが、その場で江戸勤番を命じられ、実際の戦闘に参加,将軍の上洛や、徳川家康を祀る日光東照宮に将軍が赴いて拝礼する日光社参は、江戸時代初頭からたびたび実施され,この時江戸より日光まで鞍置馬三疋を上り下りともに差し出すことを命じられている(同前No.五九二)。 / 江戸時代初期の大名課役
通史編3(近世2) (江戸中期の漆工芸)

江戸中期の漆工芸 元禄に入ると、漆工品名・図柄・技法などについても記録されるようになる。  ,れやたばこ盆も盛んに塗られ、それが多くの人の目に触れるようになると、塗師の中には技術改善の必要を感じ、江戸 / 江戸中期の漆工芸
通史編3(近世2) (江戸後期の漆工芸)

江戸後期の漆工芸 江戸時代後半期の津軽の漆工芸は、『塗物伝書』や『塗物秘伝書』(弘図岩)から多彩なものであったことがわかる,なお弘前市立博物館収蔵の手板(五一四枚)の多くは、江戸末期の津軽の漆工技法の特徴をもつ貴重なものといえる / 江戸後期の漆工芸
通史編3(近世2) (江戸時代初期の建築)

江戸時代初期の建築 慶長八年(一六〇二)の棟札(むなふだ)(長勝寺蔵)をもつ岩木山神社拝殿(はいでん,その詳細は江戸時代前期のところで述べたい。  ,~十九年(一六〇八~一四)に二代信枚によって造られたとされているが、これは「慶長・寛永期とみるよりは江戸時代前期 / 江戸時代初期の建築
通史編3(近世2) (江戸時代中期の建築)

江戸時代中期の建築 最勝院(さいしょういん)の五重塔は、平成三年の台風によって甚大な被害を受けて、解体修理,岩木山神社本殿外四棟修理工事報告書』には、「貞享四年(一六八七)が将軍綱吉の四十二歳の厄年に当たっており、各大名が江戸神田,旧大光寺村から移されたとの伝えもあるようだが、江戸時代中期の築造らしい。 / 江戸時代中期の建築
通史編3(近世2) (江戸時代末期の建築)

江戸時代末期の建築 蘭庭院(らんていいん)の栄螺堂(さざえどう)は、天保十年(一八三九)に、東長町の / 江戸時代末期の建築
通史編3(近世2) (江戸時代後期の建築)

江戸時代後期の建築 津軽家霊屋のうち、最後は六代信著(のぶあき)を祀る凌雲台(りょううんだい)で、その / 江戸時代後期の建築
通史編1(自然・原始) (江戸時代~明治十七年(一八八四))

江戸時代~明治十七年(一八八四) 永禄日記(えいろくにっき)(館野越(たてのこし)本)にある、亀ヶ岡城,一方、この時代における政治の中心地であった江戸では、滝沢馬琴(たきざわばきん)ら一二人の文人が集まって,時代が江戸時代末期のいわゆる幕末期に入ると、樺太や蝦夷地探検で名をはせた松浦武四郎(まつうらたけしろう / 江戸時代~明治十七年(一八八四)
通史編3(近世2) (江戸から明治初期への漆工芸)

江戸から明治初期への漆工芸 お抱え塗師青海源兵衛の弟子のなかに成田伊太郎(文政十一年~明治二十二年・,しかし、津軽の江戸時代の変わり塗技法の多くは、明治維新で絶えることがなかった。 / 江戸から明治初期への漆工芸
通史編3(近世2) (江戸時代前期の建築)

江戸時代前期の建築 寛永期になると、東照宮の本殿が寛永五年(一六二八)に建立されている。 / 江戸時代前期の建築
通史編3(近世2) (時期・日数・通路)

江戸から弘前城へ到着するのは五月と六月が多く、文化三年以後は四月が比較的多いが、三・五・七・八・九・十月,江戸~弘前間の往復に必要とした日数について二、三例を挙げると、  ○四代藩主津軽信政(つがるのぶまさ,)の参勤は、寛文六年(一六六六)三月九日に弘前出発、江戸到着には一八日間。  ,○七代藩主信寧(のぶやす)は宝暦九年(一七五九)三月十五日に弘前出発、江戸到着には一九日間。  ,図107.羽州街道(小坂通江戸道中)の参勤交代通路
通史編3(近世2) (近世漆工芸の発展)

近世漆工芸の発展 慶長八年(一六〇三)、徳川家康は江戸に幕府を開き、幕藩体制をつくり上げた。,江戸の将軍が京都から蒔絵の名工を招いて抱え蒔絵師としたことで、京都に住んでいた蒔絵師の一部が江戸に移り,、江戸蒔絵、江戸漆器が生まれた。,弘前城築城のために、大工などの職人を江戸その他から数百人も呼び寄せ、周辺の村にも日割りの人夫を課している
通史編3(近世2) (災害と生活)

災害と生活 江戸勤番の藩士が、江戸で遭遇した災害などにどのように対処していたか、「江戸日記」にみえる,○「生類憐みの令」施行の実態――「江戸日記」貞享四年(一六八七)六月九日条。  ,これは江戸勤番の藩士が悪法の施行に忍従した例である。  ,○江戸の大火――「江戸日記」享保六年(一七二一)三月四日・八日条、五月四日条。  ,そして江戸詰の藩士は無事であることを国元へ連絡するよう飛脚を出発させている。
通史編3(近世2) ((一)参勤交代)

(一)参勤交代 江戸幕府の中央集権的全国支配は、寛永十二年(一六三五)の参勤交代制の実施によって確定,参勤交代とは、諸大名が一定の時期、江戸に伺候し、または本国に就封(しゅうほう)することで、前者を参勤、,同年制定の「武家諸法度」の中で、外様(とざま)大名(関ヶ原の戦後徳川氏に服属した大名)は毎年四月交代で江戸,これは文久二年(一八六二)八月松平慶永(まつだいらよしなが)が政事総裁職(江戸末期の幕府の職名)の時、
通史編2(近世1) (三 弘前藩庁日記)

弘前城中で記録されたものを「御国(おくに)日記」といい、江戸の上屋敷(かみやしき)で記録されたものを「,江戸日記」と称する。,「御国日記」には、寛文元年から元治元年(一八六四)に至る領内の政治に関する各項目に加えて、江戸藩邸からの,「江戸日記」は国元や幕府との連絡事項、藩主の交際に関すること等が主な内容で、総冊数は一二一四冊。
通史編2(近世1) (綱吉政権下における大名課役)

江戸に参府した大名に対して、幕府は家格・石高に合わせて務めを課した。,このほかには、幕府役職の任命(ほぼ譜代大名に限られる)、江戸城各門の警備(門番)、江戸城や幕府施設などの,・東京新聞編集『参勤交代―巨大都市江戸の成り立ち―』一九九七年 東京都江戸東京博物館・財団法人東京都歴史文化財団刊,の成立と展開」『江戸町人の研究』五 一九七八年 吉川弘文館刊、針谷武志「軍都としての江戸とその終焉―参勤交代制,江戸時代における年頭勅使の関東下向」『大倉山論集』二三)。
資料編2(近世編1) (第二節 海運の発達)

出舟・出人、湊口、津出・入津役 (旧八木橋氏蔵) 三 廻米の状況  (一)上方廻米  (二)江戸廻米, (三)江戸・上方廻米  (四)他国米買入 四 木材の移出と流通 五 十三小廻しの成立と展開
通史編3(近世2) (出開帳)

国日記」・「江戸日記」、比留間尚『江戸の開帳』一九八〇年 吉川弘文館刊)。,前年、百沢寺は塔頭(たっちゅう)の僧侶を江戸へ派遣し、幕府へ開帳を願い出た。,付き添いの一行は開帳の前後の期間を、江戸藩邸上屋敷の長屋を借用していた。,のように思っていた(川添裕『江戸の見世物』二〇〇〇年 岩波新書)。,しかし百沢寺の場合は初めて江戸へ出開帳に出かけたものの、江戸の人からは結縁の際の利益など知名度も低く、
通史編2(近世1) (正徳から天明にかけての大名課役)

正徳から天明にかけての大名課役 この時期の津軽家の大名課役は、皇族や公家衆の饗応役、普請役、江戸における,その内容をみると、寺社普請が二度、江戸城城門普請が一度、河川普請が二度である。,費用捻出のため、藩では江戸・上方・国元において金策を実施したが、さらに江戸・大坂・京都三都の蔵元からは,この時期の江戸における役負担をみると、新たに門番の務めが現れる。,図51.江戸城主要城門 表6 江戸城門番の格と人数 番号 門 格 人数(人) 給人 侍 足軽
通史編2(近世1) (預け・入牢・護送)

津軽領内から江戸への護送の様子は、護送規定によれば、概略次のようになっている(「国日記」寛政五年十二月二十三日条,①江戸までの日数は二〇日とする。,⑤護送される者が道中で病気になった際には医者に治療を頼み、もし死亡した場合には塩詰めにして江戸へ送ること,幕末までの「国日記」によってみてみると、一六日~二〇日間で江戸へ到着している。,逆に江戸から弘前城下への護送日数もほぼ同じである。
通史編4(近・現代1) (洋化風俗の一例)

洋化風俗の一例 江戸定府の藩士渋江成善(抽斎の嗣子)が、国元の弘前に家族とともに引き揚げたのは明治元年,弘前の町を歩けば、江戸ッ子、江戸ッ子といって人々が珍しいものでも見るように後をついてくる。,「殊に、成善が当時まだ江戸でも少なかつた蝙蝠(こうもり)傘をさして出ると、見るもの堵(かき)の如くであつた
通史編2(近世1) (文化~文政期の藩財政)

) 費  目 米 高 比率 備  考 ⑲ 江戸廻米 37,362.5石 14.70% 江戸常用金25,000,江戸での支出は八万八五二二石余で、藩全体の三五・八四パーセントにも及ぶ。,この廻米は江戸で売却され、江戸藩邸の一年の常用金二万五〇〇〇両の財源となるものであった。,ほかに江戸詰めの藩士への扶持米が六六二五石あり、この両者が江戸藩邸の運営費というべき性格のものであった,これは累積した江戸・大坂常用金不足で借用したものであった。  
資料編2(近世編1) ([口絵])

日記には国元の記録である「国日記」、江戸屋敷の記録である「江戸日記」があり、国日記三二九七冊、江戸日記一二一八冊,陸奥国津軽郡之絵図①(青森県立郷土館) 正保二年十二月二十八日、三代藩主津軽信義が江戸幕府へ提出したものの,陸奥国津軽郡之絵図② 弘前とその周辺拡大図 津軽弘前城之絵図(正保城絵図) 江戸幕府,が正保元年12月25日、諸藩に命じて作成させたもので、当津軽家では江戸屋敷において狩野内膳重良に描かせ
通史編2(近世1) (銀遣いへの変更と商人の活用)

から大きな借金を抱えていたが、それが累積していく大きな要因として乳井貢ら御調方役所の認識にあったのは、江戸入用金,つまり、江戸への送金も領内の銭遣いも上方銀主を通して行われており、上方銀主に支払う手数料・両替料の出費,そしてこのようなシステムに加え、現在上方銀主への借財は膨大になり、江戸への送金も差し支えている状況にある,これによって江戸送金を賄おうとしたのである。ただし、そこには一つ問題があった。,領内の通用貨幣は銭であり、金銀通用の江戸への送金のためには両替が必要となることから、両替の経費とともに
通史編2(近世1) (越後高田領検地の実施)

に諸事の指示を仰いだ(「江戸日記」天和二年三月二十日条)。,検地終了の報告は、八月二日に江戸藩邸から老中・勘定頭・同組頭宛てに行われ(「江戸日記」天和二年八月二日条,)、江戸藩邸では十一月七日から検地帳の清書を開始し(「江戸日記」天和二年十一月七日条)、翌天和三年閏五月,表14 越後高田領検地派遣役人表(江戸から派遣) No.,またこの他にも、江戸から派遣された算者五人全員、竿奉行は九人のうち三人、江戸から派遣された物書一〇人のうち
通史編3(近世2) (稽古館暦)

江戸において、天文方山路弥左衛門について暦学を学んだ小司山崎図書に作らせていた略歴が、寛政十年八月以降学校,寛政の改暦を行い、当時江戸で名を馳せていた天文方高橋至時(よしとき)のもとで天文暦学を修めて帰ってきた
通史編2(近世1) (舟橋騒動)

舟橋騒動 寛永十一年(一六三四)六月二十日、三代将軍家光は上洛のため江戸を出発した。,、家康・秀忠の上洛(じょうらく)に従った人数をはるかに上回るものであった(藤井譲治『日本の歴史 ⑫ 江戸開幕,八月二十六日、家臣たちは江戸に無事戻った信義を見届けてから事件を起こした。,美作・伊豆らは、上洛供奉後江戸屋敷には入らず、近くの浅草に町屋を借りて引きこもり、一味連判して舟橋の所業,このとき、江戸で行動をともにした者は、美作・伊豆の他に、岩橋杢助(もくすけ)・三村次郎左衛門・打越(うてつ
通史編3(近世2) (稽古館の儒学者たち)

伴才助(松軒と号した)は山崎蘭洲に師事し、江戸に上って服部南郭(なんかく)の門人安達文仲に学び、その後昌平黌,葛西善太も山崎蘭洲の門人で、江戸に上って昌平坂学問所に学び、帰藩後学校小司となり、藩校の学風を古学から,黒崎彦助、その弟黒滝藤太、長崎慶助、葛西健司、釜萢太一、伊藤熊四郎、川村善之進等もいずれも江戸に上り、,慶助の弟勘助は江戸留学中優れたるをもって支藩黒石侯に召し抱えられ、家老に昇進した。  ,成言は江戸藩邸で成長し、幼いときから鋭敏で細井円蔵、平井東堂とともに江戸藩邸の三奇童と称せられた、という
通史編2(近世1) (弘前藩庁日記の開始)

「弘前藩庁日記」には、弘前城中の記録である「国日記」と江戸屋敷の記録である「江戸日記」とがある。,「国日記」は寛文元年から幕末の元治元年(一八六四)まで、また「江戸日記」は、寛文八年(一六六八)五月十一日,、信政が参勤で江戸に到着した日から開始され、慶応四年(一八六八)まで記録がなされた。,現在所蔵している弘前市立図書館には、合計四五一五冊(「国日記」三二九七冊、「江戸日記」一二一八冊)の日記,「江戸日記」の方は、藩主の公的動静、藩士の人事に関する記事が主である。
通史編3(近世2) (弘前市内寺院所蔵の彫刻・絵画)

全体の傾向としては、中世にさかのぼる作例がごく少なく、大半が江戸時代中に制作されたものであったことが挙,それは、江戸時代、仏像およびそれを造る工房にランクが生じていて、藩の庇護により寺格や経済力のある寺々が,それら以外の弘前の仏像のほとんどは江戸や上方から入手したものであるが、江戸京橋の小林長五郎作・西光寺金光上人坐像,また、弘前に江戸と上方双方の仏像が運ばれていたことは、近世の仏像流布の問題を考えるうえで重要である。,ちなみに江戸時代中から四国や近畿地方では京や大坂から求めた仏像の修理を製造元に送り返して行っていたが、
通史編3(近世2) (織)

によると、領内における織物の需給、特に絹織物については、藩御用の必需品であったこともあり、古くから先進地の江戸,野本道玄は「江戸日記」(弘図津)元禄六年十二月十八日条によると、家老津軽監物(つがるけんもつ)の口ききによって,ほしがしょうざぶろう)(欲は星とも表記されている)・冨江次郎右衛門(とみえ(か)じろうえもん)の両人が江戸,なお江戸出立に際して、江戸屋敷御用人から国許御用人への書状を持参していたが、それには織物師両人が領内各地,養蚕や絹織以外の繊維や染料等の調査にも及んでいるのは、前述の江戸藩邸御用人よりの覚書に基づくもので、巡察
通史編3(近世2) (渋江抽斎)

渋江抽斎 津軽弘前藩の江戸定府の医官としては渋江抽斎(しぶえちゅうさい)(一八〇五~一八五八)が有名,抽斎は藩医允成(ただしげ)の子として江戸に生まれた。,また同江戸屋敷医官の宿直日記からの抄出『直舎(ちょくしゃ)伝記抄』を編集している。
通史編3(近世2) (津梁院)

信義が明暦元年(一六五五)に江戸で死去すると、ここに葬られた。,これより江戸における菩提寺は津梁院になり、藩主・正室は一〇代信順の正室を除いてここに葬られた。,僧侶に帰依していたが、萬隆寺(ばんりゅうじ)(曹洞宗、現東京都台東区)の僧侶を支援していたため、同寺が江戸
通史編2(近世1) (津軽信枚の越後転封)

幕府が秀忠の上洛を発表したのは、この年三月二十五日のことであり、秀忠は五月八日に江戸を立ち、二十七日には,上洛して秀忠が最初に行ったのが、江戸に留め置いた福島正則の改易である。,信枚は遅くとも十月十日ごろには江戸に到着したものであろう。,へ 21 江戸へ 22 江戸へ、夜遅く鳥居本着 鳥居本着 10. 6 秀忠江戸着,10.10頃 (江戸着ヵ) (江戸着ヵ) 注) 『日記』・『徳川実紀 第二篇』から作成。
通史編3(近世2) (稲荷宮)

稲荷宮 稲荷宮(現新寺町稲荷神社)は、江戸浅草にあった熊谷(くまがい)稲荷を祀ったものである。,熊谷安左衛門が狐つきを落としたことから本法寺(現東京都台東区)と浅草寺に熊谷稲荷を創建し、江戸町民の信仰
通史編2(近世1) (御用金の賦課)

このように江戸・大坂の借財の増加に対応する時期に、国元からも御用金・御用米の徴収がみられた。  ,しかし、支払うと江戸・大坂の廻米が滞る危険性があり、そうなると信用問題になり、今後の融資にも影響するとして,る  天明の飢饉後のことであるが、天明六年(一七八六)には、藩からの廻米が入らなかったとして、江戸,の蔵元津軽屋が参勤交代のための融資を停止してしまい、藩主の江戸への出発も延期せざるをえないという事態に,この時は江戸藩邸も困窮し、藩士の扶持米の支給にも事欠くありさまで、藩としても蔵元の機嫌を損ねるわけにいかなかったのである
通史編2(近世1) (天保四年の飢饉)

すくいごや)は十一月の時点で在方にも一一ヵ所設置された、飢民は秋田領のみならず、松前・越後、さらには江戸,にも流れ、江戸藩邸では小人(こびと)(掃除人)名目で彼らを雇い、一日四合の扶持を与えた。,江戸の飢民約二〇〇人は、翌五年二月に国元に帰されたという(『天保凶荒雑報』)。
通史編3(近世2) ((二)相撲興行)

江戸時代になると、諸大名は抱え力士を自慢しあい、屋敷内で相撲をとらせ、見物するのを楽しみとした。,京・大坂・江戸の三都市を中心に盛んになったが、江戸では寛永年間(一六二四~四三)の初めには寺社の創建が,また、江戸では、同十二年(一六九九)から円型の土俵が現れた。,を江戸へ出した(「津軽徧覧日記」)。,沖ノ石は江戸で病死したが、龍田は手柄を立て鬼龍田と呼ばれた。
通史編3(近世2) ((二)食事)

全国的にいえば、町人には冥加(みょうが)・運上(うんじょう)(ともに商・工・運送等の営業者に課した江戸時代,町人一般の平常の食生活をみると、比較的質素であったと思われるが、江戸の町人は初物(はつもの)食いを珍重
通史編3(近世2) (桐山正哲)

天明八年(一七八八)江戸詰の近習医となり、寛政九年江戸藩邸に弘道館が創設されると医学教官となり、文化二年
資料編3(近世編2) (●誓願寺 山門 新町--重要文化財)

この門の建立年代は、その構造形式からすると江戸時代中期のものと推定されるが、下層の蟇股などの形式は室町期,奇抜な意匠をもった特異な門であり、現在の姿は、あるいは江戸時代中期に大きな改造を受けた結果であるかもしれない
通史編3(近世2) (紫)

移出については延宝五年(一六七七)、御用として領内自生の紫根を集荷して江戸に登らせた例があり、紫根買上役,江戸商人らの買い入れもあったが件数は少ない。  
資料編3(近世編2) (1 神田の上屋敷)

1 神田の上屋敷 『津軽史』によると、弘前藩が初めて江戸に拝領した屋敷は不明であるが、神田にあったものが,○「江戸神田御上屋敷御指図」          (国立史料館蔵、架蔵番号二二四一)  これは、貼絵図彩色,図16 江戸神田御上屋敷御指図(国史津・2B-2241) ○「神田御上屋敷御絵図」          
資料編3(近世編2) (3 柳原の中屋敷)

寛文八年(一六六八)二月には、他の江戸屋敷とともに焼失したものと見られるが明らかではない。,○「元禄十五壬午江戸より参候御差図之内ニ入参候柳原御中屋敷差図」(国立史料館蔵、架蔵番号二三〇二),図20 元禄十五壬午 江戸より参候御差図之内ニ入参候柳原御中屋敷差図(国史津・2B二三〇六)  
通史編3(近世2) ((二)本末制と僧録制)

(二)本末制と僧録制 江戸幕府は慶長年間(一五九六~一六一四)から、中世以来の特権を保持してきた仏教諸宗派,これを補うため、江戸に各派の役所である江戸触頭(ふれがしら)=僧録(そうろく)所を置かせ、寺社奉行から
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