• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 6件
辞書ファセット
/ 1ページ
資料編2(近世編1) (第二節 海運の発達)

に関する布達 二 出舟・出人、湊口、津出・入津役 (旧八木橋氏蔵) 三 廻米の状況  (一)上方廻米, (二)江戸廻米  (三)江戸・上方廻米  (四)他国米買入 四 木材の移出と流通 五 十三小廻
通史編2(近世1) (西廻海運による大坂廻米)

西廻海運による大坂廻米 西廻海運が実現すると、上方廻米に利用される廻船の多くが大坂での雇船となった。,また上方廻米は、日常的に生じる貨幣支出の必要から、蔵米販売とは別に、廻米と金融とを結びつけることとなった,さきにみた、貞享四年(一六八七)に上方廻米量が五万石に設定されることになった背景は、藩財政が自立性を失,また、上方での交渉が思うように進展しない場合、金主や手代が江戸や国元へ出向き、直接交渉に及ぶこともあり,西廻海運による上方廻米は、全国市場として成長しつつあった大坂市場へ包摂(ほうせつ)されるものであった。
通史編2(近世1) (銀遣いへの変更と商人の活用)

から大きな借金を抱えていたが、それが累積していく大きな要因として乳井貢ら御調方役所の認識にあったのは、江戸入用金,つまり、江戸への送金も領内の銭遣いも上方銀主を通して行われており、上方銀主に支払う手数料・両替料の出費,そしてこのようなシステムに加え、現在上方銀主への借財は膨大になり、江戸への送金も差し支えている状況にある,これによって江戸送金を賄おうとしたのである。ただし、そこには一つ問題があった。,「古来」津軽領では銀遣いであったが、先述のように上方廻米の開始によって上方銀主とのかかわりが深くなり、
通史編2(近世1) (飢饉に至るまでの経緯)

飢饉に至るまでの経緯 宝暦の飢饉でみたとおり、近世の飢饉は単なる自然災害ではなく、凶作下でも江戸や上方,これは、江戸や上方廻米が確立してから初めて起こった大規模な飢饉―元禄飢饉からみられる構図であり、宝暦・,図表32 江戸時代の津軽領の人口推移  宝暦五年(一七五五)の凶作の際は、前年がたまたま豊作で余剰米,翌天明三年春には藩士に支給する米や農民に小売りする米までを買い上げたうえで、同二年と同様江戸・大坂へ各二,高照神社の神官が、今さら祈祷をやっても無駄だから止めるべきと言上したものの、用人は江戸からの指示なので
通史編2(近世1) (飢饉への対応)

当面、藩要用の米のうちから小売米として一万五〇〇俵と大豆八〇〇俵を放出すること、江戸・上方廻米の中止、
資料編2(近世編1) (新編 弘前市史 資料編2(近世編1) 目次)

廻米の状況  ……………………………………………………………………………  一〇〇八     (一)上方廻米,  …………………………………………………………………………  一〇〇八     (二)江戸廻米  …,………………………………………………………………………  一〇一四     (三)江戸・上方廻米  …
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました