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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編2(近世1)
(正徳から天明にかけての大名課役)
その内容をみると、寺社普請が二度、
江戸城
城門普請が一度、河川普請が二度である。,門番の務めは、
江戸城
本丸・西丸などの内郭の諸門には幕府の番方、大手門・内桜田門・西丸大手門の大門三門や,図51.
江戸城
主要城門 表6
江戸城
門番の格と人数 番号 門 格 人数(人) 給人 侍 足軽,神田橋門は
江戸城
の大手前を固める門の一つであり、給人五人・侍三人・足軽三五人・中間二七人の計七〇人が詰
通史編2(近世1)
(綱吉政権下における大名課役)
その最も基本的なものは儀礼のたびに
江戸城
に登城し、将軍へ挨拶することであった。,このほかには、幕府役職の任命(ほぼ譜代大名に限られる)、
江戸城
各門の警備(門番)、
江戸城
や幕府施設などの,大手門・桜田門に集合して防火に当たる役目を担った方角火消(なお、増援として奉書火消も併用された)、③
江戸城
通史編2(近世1)
(黒石藩の位置)
は、弘前藩一〇万石内における一万石の内分分家大名として幕府から認知され、それにしたがって、文政四年の
江戸城
鍛冶橋門
通史編2(近世1)
(近世大名と大名課役)
これらの役には、幕府役職への就任や、上洛・日光社参時の将軍への供奉(ぐぶ)、改易大名の領地受け取り・在番、
江戸城
通史編2(近世1)
(黒石津軽家の大名昇格)
図164.黒石陣屋図 文化七年正月、親足は
江戸城
において、将軍家斉から盃を賜り、時服を拝領。
通史編2(近世1)
(為信の築城計画)
この点は、家康も
江戸城
建設に取りかかりながら、毎年上洛していたため工事が遅々としてはかどらなかった状況
通史編2(近世1)
(文教政策の展開)
信政も元禄七年二月十五日、儒学を奨励した綱吉の講釈を
江戸城
内で聞いている。
通史編2(近世1)
(信寿の高増運動)
領地の石高、将軍家との親疎などの要素から家格が決定され、これらの要素の外に、大名が叙任される官位や、
江戸城
内
通史編2(近世1)
(二度の高直り)
四位(しい)ともなれば、
江戸城
内で大広間詰(おおひろまづ)めとなり、城中の待遇も従来とは異なって世間の
通史編2(近世1)
(取り調べと牢屋)
取り調べと牢屋 幕府では
江戸城
下で容疑者が逮捕されると、同心・目明などにより簡単な吟味が自身番屋(じしんばんや
通史編2(近世1)
(相馬大作事件)
秀之進はこのことに不満を抱き、寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられないときには
江戸城
通史編3(近世2)
(庄内征討命令をめぐって)
四月十一日には
江戸城
が開城され、徳川慶喜は水戸に向かった。
通史編2(近世1)
(金木屋日記にみる対外危機)
当月三日、相州(そうしゅう)浦賀へ一万石位積の船五艘が入港したが、その時諸大名は
江戸城
中で能(のう)を
通史編2(近世1)
(「松前復領期」における蝦夷地派兵準備体制)
たとえば、天保十年(一八三九)五月十六日に
江戸城
中で達せられた津軽黒石藩主津軽順徳(つがるゆきのり)(
通史編2(近世1)
(津軽信枚の越後転封)
しかし、二十五日になると事態は一変し、幕府は処罰方針を打ち出し、上杉景勝・伊達政宗・義宣の家臣一人ずつが
江戸城
,九月十八日伏見を立って帰途につき、京都二条城の経営について指示を出し、その後は東海道を下り、十月六日
江戸城
通史編2(近世1)
(「分領」と津軽弘前藩)
安政六年九月二十七日、津軽弘前藩主津軽承烈(つぐてる)(後の承昭(つぐあきら)、一八三四~一九一六)の名代として
江戸城
通史編2(近世1)
(舟橋騒動)
された、対馬の宗家(そうけ)重臣柳川調興(やながわしげおき)を預けられたり(同前No.五七一)、同年には
江戸城
天守台
通史編3(近世2)
(一〇代信順の治世)
せられたが、その勅使を迎えるに当たり信順は轅輿(えんよ)を使用し、一三七〇人余にも上る家臣を率(ひき)いて
江戸城
通史編3(近世2)
(江戸勤番と生活)
藩主(四代津軽信政)が午前七時に
江戸城
へ参り、正午に帰る。
通史編2(近世1)
(江戸時代初期の大名課役)
に津軽家が江戸時代初期に普請役を務めたという記録として、「津軽徧覧日記」に、寛永十二年(一六三五)、
江戸城
天守台普請
通史編2(近世1)
(初代為信の動向)
その理由は、大坂の豊臣氏との緊張関係、朝廷対策つまり征夷大将軍宣下、西国の有力外様大名対策、そして
江戸城
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
続いて七月二十八日、検地のおもだった役人五人が
江戸城
に召され、他藩の家臣とともに白銀・時服(じふく)を
資料編2(近世編1)
(編年史料 (天正十七年~明暦二年))
●寛永十二年(一六三五)、この年、津軽信吉、
江戸城
天守台の普請に参加するという。,四月四日、
江戸城
へ登城し、参勤御礼を行う。
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