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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編3(近世2)
(桐山正哲)
天明八年(一七八八)江戸詰の近習医となり、寛政九年
江戸藩邸
に弘道館が創設されると医学教官となり、文化二年
通史編2(近世1)
(三 弘前藩庁日記)
「御国日記」には、寛文元年から元治元年(一八六四)に至る領内の政治に関する各項目に加えて、
江戸藩邸
からの
通史編3(近世2)
(操人形芝居)
江戸藩邸
では宝永四年(一七〇七)一月十二日に、藩主家の人々を客とし、信政が田村藤大夫・吉村宗利・木屋庄八
通史編2(近世1)
(天保四年の飢饉)
十一月の時点で在方にも一一ヵ所設置された、飢民は秋田領のみならず、松前・越後、さらには江戸にも流れ、
江戸藩邸
通史編3(近世2)
(楮町取り立て)
色鼻紙五束・丈長(たけなが)奉書一束・色半切(はんきり)紙二束の漉き立てを命じられ、漉き上げた紙を六月、
江戸藩邸
通史編2(近世1)
(農村部での騒動)
藩はこれに二割の利息を付けて貸し出し運用を図ったものの、実際は
江戸藩邸
の経費などに充当され、当時で三分
通史編3(近世2)
(抜参り)
安永九年(一七八〇)、抜参りの者が藩の
江戸藩邸
上方屋敷に立ち寄り迷惑をかけるので、家出した者を三〇日間搜
通史編2(近世1)
(寛文蝦夷蜂起と津軽弘前藩)
伝える松前藩の通報に対し、国元では通報時点において加勢要請はいまだなされていないという認識だったが、
江戸藩邸
,このように当初藩では、国元と
江戸藩邸
との間に派兵に対する認識の差が存在していた。,松前からの「蝦夷蜂起」の報によって、加勢が幕閣で討議されることを見越した
江戸藩邸
は、「松前表御加勢御人数定,
江戸藩邸
からは、翌十八日、棟方二郎右衛門・岡田理右衛門らの派遣中止を命じられている(同前)。
通史編3(近世2)
(江戸勤番と生活)
江戸勤番と生活
江戸藩邸
は基本的に上(かみ)・中(なか)・下(しも)の三屋敷があり、上屋敷は藩主やその,図112.正徳5年(1715)柳原中屋敷の図 藩士は
江戸藩邸
において勤務しながら、どのような生活,本節四(三)参照)によれば、儀左衛門が延宝九年(一六八一)五月以降、天和二年(一六八二)五月二日まで
江戸藩邸
通史編3(近世2)
(能楽)
また、
江戸藩邸
においても、信政は何度か能を催している。,延宝三年四月三日に参勤によって
江戸藩邸
へ入った信政は、四月八日には能を催し、この時三代藩主信義の正室桂林院
通史編3(近世2)
(稽古館の儒学者たち)
成言は
江戸藩邸
で成長し、幼いときから鋭敏で細井円蔵、平井東堂とともに
江戸藩邸
の三奇童と称せられた、という
通史編3(近世2)
(弘前藩津軽家所蔵の美術工芸品)
まず、
江戸藩邸
に所蔵されていた書画骨董については必ずしもすべてが判明していないが、個別の作例で重要な記録
資料編2(近世編1)
(―例言―)
また、弘前市立図書館津軽家文書の「弘前藩庁日記」については、国元の日記を「国日記」、
江戸藩邸
のものを「
通史編2(近世1)
(越後高田領検地の実施)
四月十五日、
江戸藩邸
より検地役人の一番立が出発、十七日までに三番立が出立して、現地到着は二十二~二十四日,これは九月中の検地終了をもくろむ国元家老の意図に基づくもので、
江戸藩邸
での派遣編成の方式を採用して、三手分,検地終了の報告は、八月二日に
江戸藩邸
から老中・勘定頭・同組頭宛てに行われ(「江戸日記」天和二年八月二日条,に最後まで居残っていた検地役人は十一月二十日に江戸に戻っている((国日記」天和二年十一月二十日条)、
江戸藩邸
通史編2(近世1)
(糧米確保)
しかし、ここでの米買い付けは、秋田藩による津留が障害となり、国元間での交渉から
江戸藩邸
間での交渉に委ねられることとなったが,津軽弘前藩は一度はその申し入れを受け入れるが、
江戸藩邸
による最終的な決定では減石となった。
通史編3(近世2)
(江戸での買い物)
江戸での買い物 津軽弘前藩士小山氏が、慶応二年(一八六六)五月に弘前を出発、江戸へ登って
江戸藩邸
に勤務
通史編2(近世1)
(御用金の賦課)
この時は
江戸藩邸
も困窮し、藩士の扶持米の支給にも事欠くありさまで、藩としても蔵元の機嫌を損ねるわけにいかなかったのである
通史編3(近世2)
(キリシタン改め)
改帳は国元にも置かれたが、一部は
江戸藩邸
から幕府寺社奉行へ提出した。
資料編3(近世編2)
(-例言-)
また、弘前市立図書館蔵津軽家文書の「弘前藩庁日記」については、国元の日記を「国日記」、
江戸藩邸
のものを
通史編3(近世2)
(織)
養蚕や絹織以外の繊維や染料等の調査にも及んでいるのは、前述の
江戸藩邸
御用人よりの覚書に基づくもので、巡察
通史編3(近世2)
(神事能)
蔵之助は
江戸藩邸
の長屋に住んで稽古に通ったが、師匠への最初の届金だけは藩より支給された。
通史編2(近世1)
(意見書提出の奨励)
この方針により、「受言函(じゅげんばこ)」が
江戸藩邸
および弘前城門に設置されたという(『津軽藩史』東北産業経済史第五巻
通史編3(近世2)
(礼服)
られるが、元旦の年賀では熨斗目長袴~熨斗目半袴の着用がみられ、藩主在国の年より不在(在府―参勤交代で
江戸藩邸
通史編2(近世1)
(江戸での借財の増加)
文政十一年(一八二八)には
江戸藩邸
の失火による焼失に伴う再建費用として一万五〇〇〇両、天保三年(一八三二
通史編2(近世1)
(飢饉への対策)
主導したのは乳井貢(にゅういみつぎ)であったが、彼は前年閏五月に大坂への廻米を止め、国元で米を売却し
江戸藩邸
資料編2(近世編1)
(【解説】)
江戸とのアクセスは、寛永二年(一六二五)に津軽領青森から江戸への御膳米(ごぜんまい)(
江戸藩邸
での消費米
資料編3(近世編2)
(【解説】)
特に、後者の
江戸藩邸
は、上・中・下屋敷と三つに分かれていたが、収録した藩邸の屋敷図は上屋敷の図であって,「御用留」は江戸上りを命じられて、
江戸藩邸
で勤務していた際に書き留めた公務日誌である。
通史編2(近世1)
(材木移出)
寛文元年(一六六一)八月には、「御舟頭源右衛門」なる人物が、
江戸藩邸
での御用、もしくは、販売を目的とした
通史編2(近世1)
(文化~文政期の藩財政)
この廻米は江戸で売却され、
江戸藩邸
の一年の常用金二万五〇〇〇両の財源となるものであった。,ほかに江戸詰めの藩士への扶持米が六六二五石あり、この両者が
江戸藩邸
の運営費というべき性格のものであった
通史編2(近世1)
(対蝦夷地政策と青森商人の商業活動)
江戸廻米と箱館・蝦夷地の入用廻米の廻送を停止し、会津米を新潟で売りさばいた金をもって青森で米を購入し、
江戸藩邸
通史編3(近世2)
(盆踊り)
江戸藩邸
でも盆踊りが行われていた。
通史編5(近・現代2)
(棟梁・堀江佐吉)
十五歳にして当時の海外事情を記した『海外余話』を絵を含めて写本し、また、父伊兵衛が
江戸藩邸
修理の帰途、
通史編2(近世1)
(宝暦~天明期の弘前藩の財政状況)
そもそも金銀方は、収支とも国元の費目に限った数値で計上されており、膨大な廻米の売却費、
江戸藩邸
費・参勤交代費
通史編3(近世2)
(出開帳)
付き添いの一行は開帳の前後の期間を、
江戸藩邸
上屋敷の長屋を借用していた。
通史編2(近世1)
(青森町の成立と青森開港)
これは津軽から同藩の江戸屋敷へ御膳米(ごぜんまい)(
江戸藩邸
で費消する台所米)の廻漕を許可したもので、
通史編3(近世2)
(二 藩主の日常生活)
鱈献上のついでに、
江戸藩邸
へ進物を遣わすよう申し付ける。午後三時すぎ夕飯。午後七時すぎ夜食。,十一月十一日付出発の茶壺その他、
江戸藩邸
より到着。午後二時すぎ夕飯。
通史編3(近世2)
((二)相撲興行)
文政元年(一八一八)、
江戸藩邸
では津軽生まれの抱え力士大関柏戸(のち伊勢海)利助の病気が重くなったので
資料編3(近世編2)
(新編 弘前市史 資料編3 近世編2 目次)
藩主の生活 ……………………………………………………………………………… 五四一 二 弘前城と
江戸藩邸
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