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弘前市立弘前図書館/おくゆかしき津軽の古典籍
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通史編5(近・現代2)
(本県スキーの父・油川貞策)
本県スキーの父・
油
川
貞策 明治四十四年(一九一一)一月、新潟県高田師団で、オーストリアのレルヒ少佐が,から三週間の講習会に参加し、レルヒ少佐からスキー技術を学んだ第八師団の四人の将校の中に、大鰐町出身の
油
川
貞策,大正十四年(一九二五)一月十四日に開催された、大鰐での初めての全国大会「第三回全日本スキー大会」に
油
川
,当時、第三一連隊の中隊長だった
油
川
は、「本日の演習は大鰐町あじゃら山方面」と号令をかけ、毎日のように演習,写真307
油
川
貞策 / 本県スキーの父・
油
川
貞策
通史編1(自然・原始)
(石油を生み出した地層)
含まれていて石
油
の元(根源岩(こんげんがん))となった。,、最後には
油
や水を透さない地層に遮られた、すきまの多い地層や岩石の亀裂に濃集した。,写真61 一野渡付近の大和沢の
川
岸にみられる,大和沢層の凝灰岩の露頭。 ,このころの地層が代表的にみられるために基準の場所(模式地という)に指定されている秋田県男鹿半島では女
川
(,おんながわ)層と船
川
(ふなかわ)層と呼ばれている。 / 石
油
を生み出した地層
通史編2(近世1)
(外浜の掌握と開発)
天正十三年(一五八五)、大浦為信は
油
川
城(あぶらかわじょう)(現青森市)を攻撃し、外浜地域の掌握に着手,
油
川
は、交通の大動脈である奥大道の終点であり、また、夷島(えぞがしま)への窓口となるような湊町でもあり,富裕商人たちが集住していたともいう(工藤弘樹「北の中世港湾都市
油
川
とその時代」、『市史研究あおもり』三,寛永元年(一六二四)に青森が成立するまでの外浜支配は、
油
川
を基点としてなされたようである。 ,(しんじょう)(ともに現青森市)に向かう脇道の分岐点であり、特に、横内は為信の
油
川
城攻略の後に「
油
川
・
通史編3(近世2)
(円明寺)
円明寺 円明寺(えんみょうじ)は、明応八年(一四九九)、念西房宗慶が
油
川
(現青森市)に創建した。,宗慶は源三位頼政の子孫で下間右近佐宗時といい、本願寺九世実如について出家し、辺境への布教に赴き、
油
川
に,九世頼英は天正十三年(一五八五)、為信が
油
川
城主奥瀬善九郎を攻撃する時に城下に火を放って味方し、落城に
通史編5(近・現代2)
(弘前スキー倶楽部誕生と歴史)
スキー倶楽部発会式並創立総会は、既報の如く昨日午前九時より蔵主町公会堂に於て開催されたるが、出席者は、
油
川
大尉,、工藤彌市、古山勝太郎、土田與惣市、岡田勇造、阿保省三、外崎日出城、其他会員三十余名にして、
油
川
大尉開会,を報告したる後、三浦一三氏及び佐々木順威の祝詞演説あり、右を以て発会式を終了、直ちに創立総会に移り、
油
川
大尉
通史編2(近世1)
(陸上交通網の整備)
さかいのみょうじんどう)~大間越~深浦~鰺ヶ沢~十腰内(とこしない)~弘前~藤崎~浪岡~新城(しんじょう)~
油
川
,①は当時の参勤交代路である西浜街道(鰺ヶ沢街道)と、羽州街道の弘前~
油
川
間と、奥州街道の
油
川
~狩場沢間,大道小道帳では磯辺道として鰺ヶ沢~十三~竜飛(たっぴ)~三厩(みんまや)~蓬田~
油
川
が一本の道として扱,われているが、道程帳では鰺ヶ沢~小泊間と
油
川
~竜飛間が浜道として二本に分けられて記載されている。,鰺ヶ沢~小泊間は十三街道、
油
川
~蓬田~三厩間は蝦夷地へ渡る奥州街道の延長部(松前街道)として考えられるので
通史編4(近・現代1)
(ランプと写真)
それまで行灯(あんどん)に菜種
油
をとぼしたり、魚
油
をとぼしたりして暗い夜を過ごしてきた人々には、洋灯(,そして、明治六年には、ランプの使用に伴う石炭
油
(石
油
のこと)の取り扱いについて、次のような県布達まで出,石炭
油
は魚
油
・種
油
と違ひ、火気招く至て早く、疎忽の取扱より「ランプ」を破り、或は
油
樽に火気移り、人身を,彼自身明治初年に写真を撮り、その写真の自像に題した詩の一節に、「泰西伝二奇器一、写レ真如二合符一、山
川
及人物,また、十四、五年ごろには矢
川
璉が下白銀町に開業した。
通史編2(近世1)
(一里塚)
一里塚 「正保国絵図」の中で、一里塚の印が記載されている街道は、大道筋の西浜街道・羽州街道・奥州街道(
油
川
,~狩場沢)と、松前街道(
油
川
~三厩)、乳井通り、下之切通り、十三街道のみである。,現存する「道程之図」は二三巻であるが、それには村・山・
川
・橋・坂など街道筋の景観や村間の距離が詳しく記載,羽州街道の場合は「大手町境御門より碇関峠御境迄(まで)道程絵図」と「東御門町境より新城村通
油
川
村御札所,たとえば「東御門町境より新城村通
油
川
村御札所迄道路絵図」では、弘前城下を出てから二つ目の一里(一里塚)
通史編3(近世2)
(青森商社と帰田法)
6 寺田佐吉 20町歩 百石酒造 五所
川
原市石岡 7 葛西勝之丞 15町歩 百石酒造 西津軽郡木造町濁
川
,12町歩余 室家業 北津軽郡鶴田町中野 21 重兵衛 9町3反 醤
油
醸造 西津軽郡岩崎村松神 22,清兵衛 7町歩余 醤
油
醸造 南津軽郡尾上町 23 慶助 6町歩余 醤
油
醸造 五所
川
原市喰
川
24 八郎兵衛,6町歩余 醤
油
醸造 弘前市大久保 25 市田利助 5町歩余 醤
油
醸造 西津軽郡木造町 26 七左衛門,5町歩余 醤
油
醸造 北津軽郡金木町小田
川
27 鳴海富太郎 5町歩 荒物屋 黒石市浅瀬石 28 田辺弥右衛門
通史編1(古代・中世)
(一六世紀の湊)
油
川
城跡では、浪岡城跡で出土したもの(写真171)と同類の棹秤(さおばかり)の錘(おもり)など、城館ながら,さらに、下北半島の
川
内町の鞍越(くらこし)遺跡出土遺物、野辺地町周辺の表採品に一六世紀から一七世紀初頭,そのなかでも、拠点的湊と推定されるのが大浜(おおはま)(現在の青森市
油
川
(あぶらかわ)周辺)である。,現在の海岸から一・五キロメートル内陸に位置する
油
川
城の表採資料は、一六世紀を代表する陶磁器が多く、なかでも,寛永三年(一六二六)の青森派立(開港)に当たって、
油
川
(大浜)の住人側は既存の権益が侵されることに対する
通史編1(古代・中世)
(文献史料から見た戦国動乱の激化)
浅瀬石(あせいし)
川
、平(ひら)
川
沿岸から南部勢力の駆逐を図っていた。,における奥大道(おくだいどう)の終点であり、なおかつ蝦夷島への出入り口で物資の重要な集散地であった外ヶ浜
油
川
,為信によって攻撃された時の
油
川
城の城主は奥瀬膳九郎(おくせぜんくろう)と伝えられている。,
油
川
城は大きな曲輪がひとつ大きく作られ、それに付属するように小さな曲輪が二つ設けられるという構造を示している,この
油
川
城がある
油
川
を基点として津軽半島の突端に位置する三厩(みんまや)まで、仕置役による外ヶ浜支配がなされるという
通史編3(近世2)
(法源寺)
法源寺 法源寺(ほうげんじ)は、文明十三年(一四八一)、敬了が
油
川
(現青森市)に創建した。
通史編3(近世2)
(野本道玄)
道玄は水の良否をよく選別し、
油
川
(現青森市)の水は京都宇治
川
の水より七分目軽い日本一の名水と評した(『,茶庭にも才を発揮し、青森
油
川
の浄満寺、弘前の梅林寺、本行寺、貞昌寺、報恩寺の庭を造っており、三の丸庭園
通史編5(近・現代2)
(工業都市弘前)
工業部門の理事には、近藤東助、土田與惣市、福永忠助、長谷
川
與助、八木橋文之助、齋藤熊五郎、石郷友次郎、,
川
村東一郎、佐藤重三郎が選任された。,、(三)漆器業、(四)木通蔓細工工業、(五)銅・鉄工業、(六)家具指物業、(七)菓子製造業、(八)醤
油
・,工業生産の内訳 工業生産物 戸数 価格 戸 円 織物 8 207,965 漆器 45 65,000
油
類,2 6,344 酒類 16 2, 251,815 味噌 13 253,200 醤
油
14
通史編2(近世1)
(民兵の登場)
藩では海岸を持つ
油
川
両組(
油
川
・後潟組)・浦町両組(浦町・横内組)・金木両組(金木組・金木新田)・広須両組,
油
川
両組では二二〇人が二組に分けられる編成になっていた。
通史編2(近世1)
(青森町の成立と青森開港)
弘前藩は、中世以来の有力な湊町の
油
川
(あぶらかわ)を都市建設の中核に設定せず、わざわざ善知鳥(うとう),また慶安二年(一六四九)の「津軽領分大道小道磯辺路并船路之帳」(資料近世1No.一〇四九)には、「
油
川
,前述のように、青森に隣接する中世以来の有力な湊であった大浜=
油
川
の存在が大きく、青森への商船集中を藩が,命じたとしても直ちに
油
川
から青森へと転換するわけにはいかなかった。,、
油
川
の経済的な地位は、この時期に至ってもなお衰えていなかった。
資料編3(近世編2)
(●円明寺 本堂 新寺町--県重宝)
●円明寺 本堂 新寺町--県重宝 明応八年(一四九九)に現在の青森市
油
川
に創立されて、その後弘前へ移
通史編1(自然・原始)
(水文地質学)
一方、津軽地域における多くの温泉貯蔵形態は、古くは石
油
鉱床に伴う石
油
かん水的性質を示す、地層に閉じこめられた,水理条件(建設省水文研究グループ編,1997より) 帯水層中の地下水は、循環水であり、降水・河
川
水等,補給は、帯水層(あるいはそれに対比される地層)がかん養域(おもに丘陵および山地)に分布し、直接降水・河
川
水等
通史編2(近世1)
(北奥羽の領知確定)
されたとされており、津軽氏の場合、約三万石の領知を認められ、ほかに約一万五〇〇〇石の太閤蔵入地の管理を任された(長谷
川
成一,『近世国家と東北大名』一九九八年 吉
川
弘文館刊)。,;1,250石7斗9升 天正18年12月24日 祢々井五郎右衛門 出羽国
油
利郡内祢々井村 ,;169石1斗 天正18年12月24日 岩屋能登守 出羽国
油
利郡内岩屋村・平釘村 891,支配統制の楔(くさび)を奥羽・「日の本」に至る諸大名の領内へさらに強固に打ち込もうとしたのである(長谷
川
前掲書
通史編2(近世1)
(負担の増大による民衆の困窮)
松前・蝦夷地への往来は原則として三厩(みんまや)(現東津軽郡三厩村)からであり、通行筋に当たる
油
川
(あぶらかわ,
油
川
・後潟両組の村々は、近年の蝦夷地警備にかかわって人馬を徴発されることが多い。,特に通り筋の
油
川
(現青森市)から三厩までの村々は、そのために農作業もままならない状態であり、田畑も荒れ,そこで、
油
川
村から増
川
村(現東津軽郡三厩村)までの年貢を、東蝦夷地が上知されている期間中だけでも一割減免
通史編3(近世2)
(藩政前期為信)
天正十八年(一五九〇)に豊臣秀吉から領地を安堵され、戦国大名としての地位を築いたことによってなった(長谷
川
成一,『近世国家と東北大名』一九九八年 吉
川
弘文館刊)。,また、同十三年外浜
油
川
城攻撃に当たっては
油
川
(あぶらかわ)の浄土真宗円明寺(えんみょうじ)の念西坊頼英
通史編5(近・現代2)
(東北振興)
中心となり、新たに東北各県の政財界有志らが発起人となって結成されたもので、弘前市関係では藤田謙一、宮
川
久一郎,そして、東北興業株式会社の投資会社の一つとして、十二年九月、弘前市和徳に弘前
油
脂工業株式会社が設立された,同社は米糠搾
油
販売事業を行うもので、資本金一〇万円とし、それまで操業していた弘前
油
脂会社(資本金二万円
通史編4(近・現代1)
(日露戦後の工業)
19,500 95,000 18,700 89,600 21,242
油
,明治41年 明治42年 明治43年 数量 価格 数量 価格 数量 価格 数量 価格 数量 価格 醤
油
,1,000 3,500 1,200 3,360 1,500 4,200 菜種
油
, 35,818 1,008 32,760 1,209 46,868 荏
油
,名 営業税 酒造業(葡萄酒)ブランデー 松森町127 藤田久次郎 234,280 同 同町107 宮
川
久一郎
通史編2(近世1)
(参勤交代路と街道の状況)
」の大道筋は、矢立峠~弘前間では矢立峠の部分は一間(けん)半(二・七メートル)から二間、碇ヶ関から石
川
間,は二間が主で三間の所もあり、石
川
から堀越間は二間から二間半が主で、三間の所もあるという状況であった。,弘前~
油
川
間では大釈迦(だいしゃか)から新城(しんじょう)間の津軽坂山中が二間で、三間のところもあるという,元禄十年(一六九七)には小栗山(こぐりやま)・石
川
・宿
川
原(しゅくがわら)・唐牛(かろうじ)村に松守が,これに対して、弘前~
油
川
間では、貞享四年(一六八七)の「道付」(国史津)に、藤崎の北、飯詰(いいづめ)
通史編1(古代・中世)
(一 中世寺院の建立)
写真221 金光上人坐像 更に浄土宗に次ぐのが浄土真宗の寺院で、
油
川
(あぶらかわ)(青森(あおもり,
油
川
に明応八年(一四九九)、念西坊宗時によって建立された円明寺は、蓮如の命に基づきながらも、「夷浄願寺,その点、同じく
油
川
に建立された法源寺も同列であり、蓮如の直弟子敬了が「夷浄願寺」で「仏教之真如を熟得」,この一五世紀の末葉の
油
川
は、「日ノ本将軍」安藤氏の従前の拠点十三湊に代わって、奥大道の終着点であると同時,前の円明寺と法願寺のよる
油
川
が当時の港湾都市であったと同様に、専徳寺と真教寺のたたずむ大浦(おおうら)
通史編5(近・現代2)
(昭和初年の弘前の工業生産)
弘前商工会議所会頭の宮
川
忠助は青森県と弘前市の製造業につき、調査・研究を行っている。,弘前市は、三戸郡、青森市に次ぐ工業生産高であり、酒・味噌・醤
油
醸造業、木製品、麺類・菓子類製造業などの,宮
川
忠助は、全体として次のように評価している。,150,200 1,550 - - - 4,979 7,150 6,000 - 33,350 203,229
油
類,113,745 - - 122,574 - 980 - - 1,044 268,370 酒、味噌、醤
油
通史編2(近世1)
(災害の続発とその影響)
特に外浜の浦町・横内・
油
川
の三組と新田地帯の被害が大きかった。,土淵
川
高水,浸水,橋の流失 享保元(1716) 2~ 3月 水害 岩木
川
流域 岩木
川
,津軽半島,西海岸,外浜 死者48,流失・損壊78軒、田畑2100町歩損耗 7月16日 火災
油
川
,30余軒焼失 寛保3(1743) 4月14日 火災
油
川
30軒焼失 延享元(1744),岩木
川
流域 河
川
氾濫,田畑冠水 8月19日 水害 岩木
川
流域 河
川
氾濫,家屋浸水,落橋
通史編2(近世1)
(本百姓)
土地保有と、夫役(ぶやく)(人身的労役の総称)負担をする「御蔵(おくら)百姓」を意味している(以下は、浪
川
前掲,②諸役は、雑税小物成に類する野手・犾米(えぞごめ)・麻・
油
・真綿役、付加税・高掛物(たかがかりもの)に,諸役収取の実態は、
油
役・麻役は畑年貢に加えて荏胡麻(えごま)・苧麻(ちょま)を上納するもので、また、真綿役
通史編2(近世1)
(異国船打払令の発令と津軽弘前藩)
また高札を大間越から野内までの八浦、その外に金井ヶ沢・小泊・平舘・
油
川
に立てることとし、作事奉行に命じて,立て札を作らせ、設置については八浦がそれぞれの町奉行、金井ヶ沢・小泊・平舘・
油
川
については郡奉行が責任
通史編3(近世2)
(屋根の材料)
幕末の天保期に入ると、天保元年(一八三〇)六月六日に
油
川
(あぶらかわ)村(現青森市)の大火で六〇軒が全焼
通史編1(古代・中世)
(津軽独立に向けて)
写真200 南部信直 さらに、天正十三年(一五八五)三月には外浜
油
川
城を攻略し、それに続いて高田,・荒
川
などの領主を降伏させ、外浜一帯の領有化に着手する(史料一〇五九~一〇六一)。
通史編3(近世2)
(慈雲院)
寛保三年(一七四三)には、
油
川
村(現青森市)に布教の拠点として大円寺から満海庵を譲り受けた。
通史編2(近世1)
(隠津出・抜け米の取り締まり)
現五所
川
原市の例でいえば、年貢収納以前の米の売買を勝手に行ったり(「国日記」天保八年二月五日条)、米の,青森の場合、安方町・新町(しんまち)・大野口・堤口・
油
川
、弘前の場合、小栗山・取上(とりあげ)・堅田(,没収された品物は大豆・水
油
・たばこ・生鯡・塩鱈・鰈(かれい)など食料品・生活必需品が多く、農・町人の生活
通史編2(近世1)
(旅行者のみた領内海防)
海砲台は大間越・金井沢(金井ヶ沢)・小泊・竜飛・三厩・平舘・大浜(
油
川
)・青森・野内の九ヵ所にあると述,図202.松陰が逗留した旧伊東邸松陰室 松陰は翌日弘前を発ち、藤崎・板柳・鶴田・五所
川
原・金木,・赤堀(あかぼり)(現五所
川
原市)を通り、岩木
川
沿いを下って中里・脇元(現北津軽郡市浦村)を経て、三月四日,翌日青森をたち、
油
川
村へと赴く途中、市街の外「北之出鼻」にあった台場を見分している。,村垣はこの日
油
川
・奥内(おくない)・蟹田を通り平舘に宿泊、翌二十二日、平舘を出立して同所の陣屋と台場の
通史編1(自然・原始)
(第一節 注記)
(1)氾濫原…河
川
流域の低地において、洪水の浸水によって生じた緩やかな勾配の土地をいい、自然堤防・河道跡,このグリーンタフや含
油
新第三系を含む新第三系の分布する地域をグリーンタフ地域と呼ぶ。,(6)分水嶺…二つ以上の河
川
の流域を分ける山稜をいう。
通史編4(近・現代1)
(通信関係)
には市外通話の範囲も広がり、大館(二〇銭)、小坂(二〇銭)、浅虫(二五銭)、久栗坂(二〇銭)、野内、
油
川
等
通史編5(近・現代2)
((五)野球)
長尾四球に出て、続く
油
川
尽きぬ恨(うらみ)は二塁に残れども、氏が勇ましき戦死の偉功は葛西の生還によりて
通史編3(近世2)
(子供を池に投げ殺害)
野内(のない)・飯詰(いいづめ)・板屋野木〈板柳〉・木造(きづくり)・浅虫・黒石・金木(かなぎ)・五所
川
原,(ごしょがわら)・
油
川
(あぶらかわ)・浪岡・藤崎(ふじさき))御構(おかまえ)を申し渡すよう申し出ている
通史編3(近世2)
(諸役と仲間)
煙草屋五四・居鯖五一・大工三九・鷹師二九・煙草作り二三・銅屋二一・馬屋と博労一八・鞘師一一である(長谷
川
成一,てに出された「覚」(前掲『津軽家御定書』)には、町奉行の町方に関する職務が規定されており、その中には粒
油
・,5分,在浦4匁) 質 座 85匁(青森42匁5分,在浦30匁) 寛政4年より鰺ヶ沢も青森同様 醤
油
,25文目 菓子屋 10文目 蕎麦切 5文目(両浜・在浦2文目5分) 素 麺 10文目 絞
油
,両浜魚売小頭は15文目 塩肴・干肴 30文目 魚触売 10文目 干 肴 15文目 ただし両浜・
油
川
資料編1(考古編)
(-文献リスト-)
メカニズム.火山第2集,Vol.20, P.205-221 ◇8 飯塚保五郎(1929) 青森県大釈迦
油
田地形,および地質図説明書.地質調査所 ◇9 飯塚保五郎(1930) 青森
油
田の地質に就いて.地質雑38,,No.22, P.10-26 ◇17 井上武・酒井軍次郎(1960) 「弘前西方」地表調査報告.石
油
資源開発,とその構造発達史について.石
油
技術協会誌,Vol.27,No.6,P.197-231 ◇51 岩見広次,◇168 藤井敬三(1981)
油
川
地域の地質地域地質研究報告(5万分の1地質図幅).地質調査所,
通史編3(近世2)
((二)食事)
醤
油
があまり用いられなかったのは、製法が難しかったからである。,など特別なことの行われる日)や祝儀・不祝儀の時の御馳走は豆腐と魚であった(『生活史』Ⅱ 一九八五年 山
川
出版社刊
通史編5(近・現代2)
(進駐軍の衛生対策)
身近な例を考えれば、石
油
のない日本には石けんが不足していた。,当時は下水道設備もなく、台所や洗濯で出る排水はどぶや溝に垂れ流され、市中心部を流れる土淵
川
に集まった。,
川
が汚くなるのは当然だった。農作業に必要な肥料にも、人糞肥料が使われていた時代である。
通史編5(近・現代2)
(景気回復後の弘前市の商業)
多額なのは一般卸売業で、二六三八万円余であり、石
油
小売業が九九五万円余でこれに次いでいる。,商品仕向地 卸売割合 茶 A 主として弘前市周辺農村 20% B 鰺ヶ沢,碇ヶ関,黒石,浪岡,五所
川
原,市内個人,官公立病院,深浦,鰺ヶ沢,北,南,西各郡 B 市内各病院,浪岡,大鰐,尾上,目屋,石
川
,,40% 繊維製品 A 秋田県北郡,鷹巣,尾上,碇ヶ関 B 市周辺,黒石,浪岡,青森,鰺ヶ沢,五所
川
原,% B 中,南郡,市内 70% 食料品 A 船沢,相馬,目屋,大鰐,水木,吉田 B 鰺ヶ沢,五所
川
原
資料編1(考古編)
(〈1〉津軽地方の土師器と擦文土器)
防御性集落 〃 10C後~11C 3 中崎館遺跡 〃 中崎字
川
原田 集落?,田舎館村田舎館字前
川
集落 〃 馬骨 11C 11 羽黒平遺跡 浪岡町五本松字羽黒平 18号住居覆土,金木町
川
倉字七夕野 集落?, 〃 沼崎字久米
川
〃 ( 〃 ) 〃 〃 〃 18,〃 30
油
川
遺跡 〃 西田沢字浜田 〃 〃 10C後~11C 31 大平D地点遺跡 東通村尻屋字大平
通史編2(近世1)
(町方支配)
法令が下されたのは、その内容は不明ではあるが、寛文元年(一六六一)閏八月のことであった(以下は、長谷
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成一,町方に対する法令は、延宝九年(一六八一)一月二十一日の七八ヵ条からなる「条々」(長谷
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成一校訂『御用格, ③他国からの旅行者のこと ④御用金賦課のこと ⑤升樽極印打(ごくいんうち)支配のこと ⑥粒
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・,水
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支配のこと ⑦城下での買物監督 ⑧諸職人支配のこと ⑨酒・麹役支配のこと ⑩居鯖(いさば)
通史編2(近世1)
(穀物の流通統制)
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・藤崎・板柳・木造・深浦は二ヵ所、青森は三ヵ所置かれた。(「国日記」天保八年十二月十七日条)。,特に、「
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より上磯通野内より浅虫」は稗田も廃田が多く、売れるような米もない状態で、購入できなくても、
資料編1(考古編)
(第1節 中世・近世遺跡の概観)
12,15 陶磁器 30ほか 10 尻八館跡 青森市 14,15 陶磁器・銭貨・他 23ほか 11
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城跡,五所
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原市 14,15 陶磁器 81 20 荒神林遺跡 五所
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原市 12,13 陶磁器 81 21,神山館跡 五所
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原市 16 陶磁器 81 22 平野遺跡 五所
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原市 16 陶磁器 81 23 石田遺跡,五所
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原市 15 陶磁器 81 24 杉ノ沢遺跡 浪岡町 12,13 陶磁器 16 25 源常平遺跡,
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内町 15 陶磁器 28 47 野田沢遺跡
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内町 15 陶磁器 28 48 宿野部遺跡
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内町
通史編5(近・現代2)
(酒造業)
昭和七年の日本醸造協会主催第十三回全国清酒醤
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品評会において、弘前市紺屋町の酒造業
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村東一郎の出品した
資料編1(考古編)
(4.15世紀の様相)
伝山王坊跡・檀林寺跡・二ツ沼遺跡、小泊村弁天島遺跡、今別町大開城跡、中里町中里城跡、青森市尻八館遺跡・
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城跡
通史編2(近世1)
(海防報告書にみる天保期の海防体制)
2 内真部浦番所 2 奥内村 1
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浦番所,袰月鷹野崎台場 4 平舘浦番所 5 蟹 田 10 蟹田台場 1 3
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浦番所,浅虫・黒石領田沢村(現同郡平内町)、浦番所が金井ヶ沢・小泊・平舘・内真部(うちまっぺ)(現青森市)・
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